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物怪伝 鬼の章  作者: 犬尾南北
大倭篇

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第拾参話 陽炎(一)




        0




「雁が子を産んだとな」


 その報せを聞いて、老人は驚いたように目をぱちくりさせた。

 冬に海を渡ってくる雁は、春にまた北へと帰る。けれど、その間に産卵したという話はこれまで一度たりとも聞いたことが無かった。

 成る程、大変に珍しいことである――そう鷹揚に頷いたとき、老人の顔には普段の温和な笑みが戻っていた。

 と、そこで何やら思い付いた様子で彼は振り向いた。

 視線の先には男がひとり控えている。

 老人の浮かべる笑みの色が、途端に切り替わった。

 その口元にあるのは常の仁徳なそれではなく、かつての童子を偲ばせる悪戯げな笑みである。


「たまきはる内の朝臣あそんこそは世の長人ながひと……そらみつやまとの国に、雁と聞くや」


 問われた男は表情にこそ出さぬが、呆れたように息を吐く。

 けれど孫も同然の愛着からか、そっと歌を返すのだ。


たかひかる日の御子、うべしこそ問ひたまへ、まこそに問ひたまへ……こそは世の長人、そらみつ倭の国に、雁卵生と未だ聞かず」


 この国で雁が卵を産むなどとは、彼にとっても初耳である。

 今年は暖冬だったからかもしれぬ。――思いながら、ふと閃いて目を配る。

 視線に気のついた老人が指示すると侍従が琴を取り、差し出した。

 男はそれを膝の上へ載せると弦をはじく。


「――汝が御子や、つひに知らむと、雁は卵生らし」


 果たしてその寿歌ほきうたを聞いて、老人の瞳が円くなる。

 そして瞬間の後、今度は考えるように細めて、やがて寂しそうに笑うのだった。

 親と慕う彼がいずれ去ってしまう……その心内を察したのだ。

 当の男は琴を横へ置くと、窓の向こうへと顔を逸らした。

 知らぬ島の寒空は、やはり知らぬ色である。

 手癖で撫ぜた腰のつるぎが、いつにもまして凍えるように冷たかった。




        1




 西暦二〇一二年七月二十一日、日曜日である。

 今朝も今朝とて誰かの夢見で起きた蓮は、けれど既に慣れたものとして気にする素振りすら見せることなく、日常を送っていた。

 というのも、例え考えてみたとしても一向に理解が進まないものだから、いずれ剣王鬼が自ら話してくれるまでは放っておこうという思考である。

 ほかに興味深い事物はいくらでもあるのだから、ただひとつの事柄に対して延々といつまでもかかずらうようなことは、性分として出来ない人間が蓮だった。

 そんな人間であるので、興味の外の領分に関して「毎日コツコツと」などという芸当も全く出来ない。

 そのような者たちに対し、大きな試練を与えるのもまた夏休みと呼ばれるものである。


「ハイそこ、手が止まってる」


 鋭く飛んだ葵の言葉に、蓮はだらけていた背筋を伸ばす。――が、数秒ともたずにまた机上へと突っ伏した。


「やれやれ、夏はまだ始まったばかりだぜ……」


 ぼやいてみるが、周囲に味方はいない。


「そんなこと言って、結局ギリギリまで引き延ばすのが蓮だよな」

「そうそう、去年もそうだった」

「このアホは中二のときからね、ずっとよ」


 口々に答える友人たちの目線は手元のテキストへと注がれていて、握られたシャープペンシルが淀みなく頭を振っていた。


「くそう、優等生かよ。……僕は家主だぞ、もっと忖度してくれてもいいじゃないか……」


 僻むようなことを漏らす蓮の側頭を、呆れた顔で葵がはたいた。


「なに言ってんの。あんただってべつに成績は悪くないでしょうが。ほら、やればできるんだからやりなさいっ」


 彼女の母親染みた発言に、蓮は力なく答えてペンを握る。

 その一連の流れに、思わずといった風で文太が噴き出した。


「なに笑ってんのよ」


 照れ臭さを隠すように噛みつく葵に「ごめん、ごめん」と繰り返す少年は、ちっとも悪いとは考えていなさそうな朗らかな笑みである。

 それを隣で眺めて、


(ひたすらに、嬉しいんだろうな)


 と思うのは慧だった。

 河童の騒ぎに昔語りと、実に色々と起きた土曜日から昨日の今日である。

 にも関わらず、当初の予定通りにこうして皆で集まって、そしてこれまでと変わらぬ日常のなかにいる。

 この現場――渡辺家の居間で机を囲んでいる四人は、あれから一晩が経っても誰も態度を変えていない。

 それが、どうしようもなく嬉しいのだろうと彼は推し量っていた。


「アー、そうだ。おやつタイムにしよう。みんなも小腹すいたよね」


 結局我慢できずに立ち上がった蓮が、そう言い残して台所のほうへと逃げていく。


「ちょっと、蓮っ! 今日で課題を終わらせる予定でしょ! その調子じゃ終わらないわよ! わかってるの!?」


 すぐさまに背を追いかけた葵の声が、部屋の奥へ消える。

 残された慧と文太が、顔を見合わせた。

 どちらともなく苦笑を零して、ペンを置く。


「どこまで進んだ?」

「数Ⅱの13頁かな……そっちは?」

「英語の15頁に、ちょうど入ったところ」


 会話しながら、机上に用意されていたグラスに口をつける。

 冷たい麦茶で喉を潤していると、そこで玄関先からチャイムが響いた。


「あれ、お客だ」


 文太が呟いたところで、


「わたしが出るから!」


 そう叫ぶ葵が廊下を駆けて行った。

 腰を浮かしかけていた慧が、ゆっくりと姿勢を戻す。


「宗像さんかも」

「まさか」


 囁く文太に短く返せば、そこで今度は葵の声が玄関先から響く。


「あッ」という素っ頓狂な一音に続いて、お久しぶりです、お邪魔しています――という慌てた様子の言葉。


 思わず再びに顔を見合わせる二人の耳に、廊下を歩いてくる足音が届き、


「やあ、こんにちは」


 そんな落ち着きのある低音が、居間の入口から降ってきた。

 見上げれば、どこか見覚えのある輪郭を宿した男性が立っている。

 四十代だろう彼は糊のきいたビジネススーツを着込み、手にはキャリーケースと紙袋。

 柔和な笑みと共に、小さく頭を下げた。


「どうもはじめまして――蓮の父です」




        2




 昼下がりの日曜日。街の雑踏を前に、路地の暗がりに背を預けた少女がスマートフォンを眺めていた。


『僕の家で勉強会をします。よければどうぞ。 渡辺蓮』


 そんな文面のメールを、しかし返信することなく閉じた。


「いいのかい」


 肩の上で寛いでいた狐が、囁くようにそう言った。


「ええ――」


 少女は肯くと、壁から背を離す。

 そのまま路地の出口へと歩みを進めながら、呟く。


「……私には、私の責務がある」


 彼女はそして陽光の満ちる大通りに出るが、しかし雑踏のなかを見つめるその瞳は暗く陰っていた。

 それを見た通行人がぎょっとした顔をして、その前を避けて歩いていく。


「――元々がいけ好かない奴の命令とはいえ、剣王鬼の監視も任務だよ……あちらに混ざって勉強していても、その、いいんじゃないのかい」


 スッと鞄の内へと隠れた狐がそう零すも、まるで聞こえていないかのように柚葉は無反応だった。

 そして誰かを――あるいは何かを探すように、ただひたすらに街頭を彷徨うのである。


「……柚葉さん?」


 そんな様子の彼女を、ある少年が偶然にも目撃する。




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