第拾弐話 守森(九)
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誕生日の翌朝に目覚めると、そこは布団の上だった。
文太が寝惚けた眼で見回せば、見紛うことなき自室である。
むくりと起き上がり、醒め始めた頭で考える。
「……夢だった?」
呟いて、ふとそこで寝間着の首元が乱れていることに気がついた。
「……」
おそるおそると捲ってみれば、散々に吸われて赤くなった肌が出てくる。
途端、昨夜の記憶が鮮明に想起されて、少年の頬がカッと熱くなった。
「夢じゃねえ……」
項垂れるように肩を落としたところで、その背後で襖が勢い開いた。
「――っ」
反射で首元を隠しつつ慌てて振り返れば、
「にいちゃ?」
立っているのは幼い弟である。
友樹は口ごもる文太を不思議そうに眺めたのち、
「朝ごはんだって!」
それだけ告げて廊下を駆けて行った。
思わず安堵の息を吐いてから、文太もひとまず後を追う。
寝間着のボタンを直しながら歩いていると、やがて居間が近づいてきたところで漏れ聞こえてくる声がある。
「なんだろ……」
なにやら弟妹がはしゃいでいるらしい。
首を傾げながら角を曲がって、そしてそこで文太は足を止めた。
「え……」
固まる彼の目の前で広がるその光景は、思わず目を疑うものだった。
食卓に着いた幼い双子が、わいわいと食事をしていて――その横で、彼らの零した米粒を呆れたように拾う男がいた。
「――父さん?」
零れた声に、男が振り返る。
「ああ、文太……」
彼は――守森真吾は、目を円くする長男へ対して、どこか疲れたように、そしてどこか気恥ずかしさを隠すように笑うのだった。
「おはよう」
「あ、うん……」
文太が返事の挨拶にまごついていると、真吾の両隣で友樹と陽菜も「おはよっ」の合唱を始める。
そこで奥から母親の茜も現れて、
「おはよう、文太」
呆けながらも頷けば、彼女は微笑みを浮かべて席へとついた。
「ほら、真吾さんもちゃんと食べてくださいね」
「ああ……」
末っ子たちへの慣れぬ世話で手を焼く夫を、彼女は嬉しそうに眺めている。
「……これは」
あの夏の日に気づいて以降、文太がずっと求めてきた完全な家族の団欒が、そこにはあった。
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その日からというもの、文太の世界は大きく変わった。
例えば、ひとつは父親である。
彼は心を入れ替えたようだった。やがては長男だけでなく、末っ子の双子や妻に対しても笑い掛けるようになった。
さらに周囲の親族も、以前ほどにあからさまな不遇をしなくなる。――これもおそらくは、父親が手を回して守っている気配があった。
ある日、友人の優斗が学校で文太に囁いた。
「最近、おばさん元気そうじゃん」
文太は嬉しそうに頷いた。
すべて彼が望むように、日々が過ぎてゆく――。
「――当然のことだ」
夜の森で、咲野が嘯いた。
「この地にある限り、ぬしが望めば、すべてが叶う」
彼女の腕の中で、文太は首を傾げた。
「……それは、咲野がいるからってこと?」
顔を見上げてくる少年に、美しい女は微笑みを返す。
「それもある。――が、これもぬしの力だ」
愛おしげに頬を撫ぜながら、
「何度も言っておろう……ぬしは特別なのだ」
彼女が繰り返す「特別」の意味を、実のところ文太はよく理解していなかった。
あの誕生日の夜から、二人の関係は少しだけ深いものになったけれど、咲野は文太を愛でるばかりで肝心なことをあまり喋らない。
秘密にしているというよりも、彼が自力で察するまでは自ら明かさない――というスタンスのようであった。
咲野の正体が氏神であるということですら、文太が改めて問いただすまで彼女は語らなかったのである。
「もっと教えてくれてもいいのに」
不貞腐れた顔をして、文太は手近な野花を何とはなしにつまみ――それがみるみる間に萎びて枯れかかったのを見て「あっ」と手を離した。
ほんの手遊びのつもりだった少年が苦い表情でいると、彼を抱きかかえる女はそれすら可愛いものを見る目で眺めつつ、
「何事も経験してこそだ」
言って細い指で草花をさする。
すれば、途端に瑞々しく青くなって花弁が開いた。
まるで花の枯れる映像の早送りと巻き戻しを目の前で行ったかのような光景に、文太は諦めたような顔で息を吐いた。
――彼の世界の大きな変化、それのもうひとつがこれだった。
あの夜以降、彼の身体に明らかな不思議が宿るようになったのである。
それまでは神様だとか幽霊だとか、そういう不可思議な存在をまったくとして信じていなかった文太なので、当初はこの変化に戸惑った。
山神である咲野と交わったことが原因かとも思ったりした彼であるが、咲野は一部肯きつつも否定した。――もともと持っていた力が増大したに過ぎない、と。
「儂と契る度に、ぬしの木魂は磨かれてゆく」
蛇を静止させたり草花を腐らせたり、あるいは傷を治癒さえするこの能力――苦手は、あくまで文太が生まれ持つ木魂とやらの副産物でしかないらしい。
では、その木魂とは何なのか――話題がそこに至ると咲野は口を噤む。
「いずれ、わかる……」
それだけ述べて、そして誤魔化すように押し倒す。
あの日から毎晩のように森の最奥で密会する二人は、最後にはいつもそうして重なった。
そうなると普段の少女染みた笑みが鳴りを潜めて、途端に咲野の美貌は妖しげな色香を放ち――それは、少年の胸底に眠る未熟な男をくすぐるのである。
けれども、文太が彼女を拒まないのはその事実以上に、――あの夜もそうだったが――やはり、ただ彼が咲野のことを好いていたからに他ならなかった。
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そして、ひと月が過ぎた。
近づく年末に、周囲の大人たちはひとりの例外なく忙しそうな様子である。
そんな彼らを横目に、文太たちは我関さずと遊び惚けていられたか――といえば、そのようなこともなかった。
年末には神守家が執り行う祭祀儀礼がある。
祭礼自体は大晦日の夜から年明けの朝までにかけて森の神域で行われるわけだが、それが終わると、今度は元旦の夕には神守本家の座敷にて饗応がある。
本年はその場において烏帽子着と称される儀礼が行われることになっており、そしてそれは文太にとって他人事ではなかった。
なにしろ烏帽子着の主役と呼べる立場にいるのが、文太と優斗……以前に夏の会合へと呼ばれた二人だったのである。
「大人の仲間入りってことさ。儀式は面倒だけれど、胸を張ろうぜ」
そう言う優斗と共に、文太は当日の段取りや台詞などを何度も練習させられた。
またそれと同時、ほかの分家一同と共に稲わらで縄を綯う作業を昨年に続いてさせられる。
しかしこれに関しては、昨年までと異なって特段に苦に思うことが無かった。
森の周囲に結界を敷くための縄である――森の神を守るための縄である。そう聞かされた少年の脳裏では、美しい女が笑っていた。
人一倍の仕事で神事の縄を用意すれば、周囲の親族は「さすがは守森の寵児だ」とほめそやす。そうして頭を撫でられながら、ふと部屋の隅に連れてきた弟妹を見れば、これまでと異なって菓子を与えられている。
友樹を撫でていた親戚が、文太と目が合って気まずそうにするのが、なんだかおかしかった。
父親だけでなく、周囲の親族にも少しずつ双子や母親の存在が受け入れられつつある予感があった。
――すべてが順調だった。
少なくとも、文太が知覚できる周囲では。
だからこそ油断があったのだろう……と、後になって思うのである。
一夜で積みあがったものは、また一夜で崩れるものであると相場が決まっているのに……文太は、己の犯している禁忌に対して、あまりにも危機感を持っていなかったのだ。
それが崩壊を告げるのは、大晦日を翌日に控えた夜だった。
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その晩も、文太は慣れた足取りで家を抜け出していた。
凍えるような大気は水面を鏡にし、日によっては雪さえ積もる時期であるというのに、その格好は寝間着のままである。
にも関わらず、少しも寒そうな素振りを見せないまま、少年はひとり灯りも持たずに夜の森へと入っていった。
この日は曇っていたので月明かりがない。
すっかりと闇色の世界のなかを、けれど文太は迷うことなく歩いていく。――彼の瞳には、薄く緑色に発光する光源が映っていた。
森中に、あの夜に大樹を覆っていたものと同じ光点が散らばっている。
それらを頼りに、一の塚……二の塚……と道程を踏む。
そうして歩みながらも、これらは常人には見えぬ光だ、と薄々察知していた。
現に以前、この光について尋ねたとき咲野は言葉を選んだのちに精霊だと称していた。
あまり怖がらないでやってくれ……そう言われたものであるが、文太の目ではよくよく凝らして見てみても、なんだかぼやけた光だとしか認識できない。咲野の目では「子供が怖がりそうな見た目」に見えているらしいので、その点が少しばかり気がかりでもあったが、夜道を歩くに際しては至極頼りになる存在だった。
やがて四つの塚をすべて巡り、深奥の山へと足を向ける。
頂上まで登りつめると、枯れた大樹がまとわりつく精霊で明るく輝いていた。
その手前に女がひとり立っている。
「よう来た、文太!」
文太に気づくや否や駆け寄ってきた咲野が抱きしめた。
「おわっ」
強く腕のなかへと引き込まれた文太は、慌てて顔を胸元から離す。
ふくよかな感触に頬が熱くなっていた。
「ちょっと。どうしたの、今日は」
誤魔化すように問えば、
「しばらく逢えないと思うと、寂しくてなあ」
言って、唇さえ落としてくる。
小鳥が餌を啄ばむようにして降ってくるそれに仕方なく応じれば、今度はそのまま上機嫌に頬をすりすりと合わせてくる。
怒涛の甘えに、さすがの文太も気恥ずかしいやら何やらで閉口してしまう。
普段ならば、咲野は洞の向こうにある神域で待っている。そんな彼女が、今晩にこちら側で待っていた理由がそれだというのだから、スキンシップに慣れつつあった文太も照れ臭くなる。
「……だいたい、明日だけじゃんか」
たしかに神守本家が祭祀を行う大晦日には逢いに来ることができないが、それが済めば再び来ることができるのだから、逢えないと言ってもたかが一日程度である。
ぼやくように漏らせば、ぴたりと咲野の動きが止まった。
「いやな、実は……」
何かを言い掛けて、そこで彼女は少年の服の袖に目を留める。
すっと文太から体を離し、怪訝そうな彼に指し示す。
「その袖にあるのは……麻糸か」
「えっ」
言われて見やれば、示された袖から糸が一本伸びていた。
どこかで引っ掛けて服が解れたのか……と思いきや、確かめてみるとほつれではなく、誰かしらに縫い付けられたものに違いなかった。
振り返れば、文太の背後にずっと糸が伸びている。
「なんだこれ……」
呆ける彼を愛おしげに見つめて、女は呟いた――やはり、今日か。
「え?」
見上げる少年を再び抱きしめる。
覆い被さるようにして、強く、強く。
そして、その耳元で囁いた。
「――何事も経験だ。儂はいつまでも待っている……我らが貴き童児、儂の文太……」
あの夜にも勝るとも劣らぬ激しい情感の籠った言葉だった。
「――森の秘密を忘れるな――」
最後の一言が宙へと溶けて、瞬きをした次の瞬間には少年を包んでいた熱はすっかりと夜のなかへと消えていた。
「あれ、咲野……?」
慌てて見回すが、山頂のどこにも女の姿がない。
辺りを照らす精霊の光が、なんだか急に物寂しい色に映ってくる。
と、そこで――がさりと背後で音がする。
ハッと振り返れば、暗い木々の向こうから姿を現す影が――
「……なんと悍ましい」
糸巻を手に持つ老人――神守本家の当主は、冷たい眼差しで少年を睨み吐き捨てた。




