第拾弐話 守森(八)
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夜の森を、咲野に連れられて歩いていく。
明かりと呼べるものは、頭上を覆う枝葉から一筋、二筋……と漏れ落ちる薄い月光のみだった。
ほかすべての空間は、しっとりとした闇色で浸されている。遠く深く……呑み込まれたら最期、二度と戻ってこられないかのような……そんな錯覚を産む、黒々とした世界だった。
そのなかを、二人はひっそりと進む。
ただ夜の森閑に、枯葉を踏みしめる音だけが微かな物音だった。
文太は当初、あまりの暗さに転んではまずいと、足元ばかりを気にしながら歩いていた。
しかし、しばらくすると不思議そうにしながらも顔を上げることが多くなる。
僅かな月明かりは木々の位置や咲野の背、それらのシルエットこそ浮かび上がらせているものの、足元は完全な暗闇に沈んでいる。――そうであるにも関わらず、どういうわけか文太は歩くことに支障がなかった。
(これまでの山歩きで、見えなくても体が覚えているのかな)
そんなことを思いつつ、咲野の後を追う。
森に入ってからというもの、文太は口数が少なくなっていた。
最初は勇みよかった足踏みも、気がつけば付き従うだけの静かな足取りになっている。
いつのまにか黙り込んでしまった少年のその手を、そっと女が引いていた。
あまりに優しげな、壊れ物を扱うかのような所作で握るので、姉貴風を吹かせられることが嫌いな文太も手を振り払うことをしなかった。
その女がふと呟いた。
「一の塚」
顔を上げて、目を凝らす。
すると薄らと闇の向こうに盛られた土の影がある。
おそらくそれは、以前に咲野が出題し文太が探し出した「四つの塚」の内のひとつに違いなかった。
咲野はそのまま何をするでもなく、塚の前を突っ切った。
手を引かれるままに、文太も慌てて追いかける。
そうして、黒い森の奥深くを引き続いて歩いていく。
何度か立ち止まり、
「二の塚」
「三の塚」
と零す彼女を見るに、二人は順番に塚を巡っていた。
やがて「四の塚」を通り過ぎたところで、足元が上り坂となる。
山を登っている――。
瞳が暗順応してなお周囲の様子が窺いきれぬ文太も、さすがに現在地を理解する。
樹海の深奥で聳えている、文太と咲野が初めて出逢ったあの山である。
そしてその頂上に何があるのかを少年は知っていた。
そこには枯れた大樹があり、――その根元には「往きの洞」がある。
けれど、いざ山を登り切ったところで彼は思わず足を止めてしまった。
「え……」
あんぐりと口を開けた少年は、信じられぬものを見る目で前方の光景を眺めている。
握っている彼の手に引っ張られる形で足を止めた咲野が、振り返る。
愉快そうに歪んだ口元から、反して素っ気ない言葉が漏れた。
「どうかしたか」
そう言う彼女の顔は、逆光になりつつも目映い明かりで照らし出されている。
漆黒に染まった森の中心で、しかし目前の山頂だけは深緑の光で満たされていた。
「いや……だって」
呆然としながら、文太は恐る恐るそれを指差した。
「……樹が……光ってる」
山頂にあったはずの枯れた老松――それが、深緑に明滅する正体不明の光点で彩られていた。
夜天の内、月光の下で緑色に輝くその大樹は、今や往年の威容を取り戻している。
照らされた周囲の木々が枯葉の装いであるなかでそれは、まるで様相が一転した情景だった。
「月満ちりてひととせ塚を巡りければ、生と死が逆さの一夜……」
ぽつりと咲野が声を漏らす。
なにかをなぞるような声音だった。
「而して道行は開かれん」
呆然としていた文太が、発光する大樹からそんな彼女へと視線を戻したところで咲野が笑い掛けた。
「さあ、往こう」
繋がる手を引かれ、一歩、二歩と少年は頂の樹へと近づいていく。
歩みを進めるごとに、視界が新緑色の光で溢れていった。
とうとう樹の根元へとたどり着くころには、目を開け続けることすら難しくなる。
とても直視できず、繋いでいないほうの腕を目前へとかざして目を細める。
そしてそのまま、――ゆっくりと。
一際に輝く洞の向こうへと導かれる。
17
――なにか、暖かな道のりを進んだ。
短いような長いような、不思議な感覚の道程が終わると文太は咲野と共に洞の向こう側へと踏み出していた。
「あれ……」
見開いた瞳をぱちくりさせながら、少年は思わず首をかしげる。
そこは元居た場所によく似ていた。
夜天より注ぐ月光に照らされた山頂である。
しかし洞の前に盛り土とミニチュアは無く……代わりに、少し歩いた先の正面に何やら祭壇らしき物が拵えられた祠があった。
そしてなによりも、先ほどまで目を焼いていたはずの緑色の光輝が、綺麗さっぱりと辺りから消えている。
そこでふと後ろを振り返って、
「おお……」
文太は仰け反った。
枯れていたはずの巨松が、若々しい緑葉を湛えていた。
木肌は瑞々しさを得て、枝は太く逞しく伸びて、頭上一帯を巨大な樹の枝葉がすっかりと覆い隠している。
不思議な発光こそしていないが、枯れ木の頃に想像していたものよりも格段に強大な威風を吹かせていた。
「……これは、いったい」
呆ける文太の耳に、くすくすと笑う音が届く。
見れば、一段と美貌に磨きのかかった咲野が色気さえ纏わせて微笑んでいる。
どきりと固まる少年に、女は囁くような声を掛ける。
「そんなことよりも――さあ、あれが《森の祠》やよ」
すっと掌を向けるのは、やはり正面に見えている祭壇と祠である。
彼女の言葉に、ごくりと文太は喉を鳴らしていた。
実のところ、先ほどから今に至るまで、目まぐるしく移ろう状況に少年は頭がついていけていない。そのなかにあって、けれどその言葉だけは彼の正気へ届き得た。
「あれが、最後の印……」
呟くと、文太はじっと前を見つめて歩き出す。
その後ろを、来る時と反対に咲野が追う。
青い草葉を踏みしめる二人の頭上を、大樹から漏れ落ちた月光が幾本もの筋となって降り注ぐ。
変わらぬ夜の静寂が世界を包んでいた。
祠と祭壇は、近づくにつれてその威容がはっきりと浮かび上がる。
切妻屋根の木祠は村で見かけるものより一回りは大きく、そして凝った装飾が彫られていた。そしてその祠の前に組まれた祭壇もまた、欄干を想起させる彫刻で彩られており、けして単なる棚ではない。全体として豪奢な印象を放っている。
祭壇の前までやってくると、そこで文太は足を止めた。
供物の置かれていない祭壇と、その向こうで扉が開け放たれている祠とを順に眺める。
そして、小さくない息を吐いた。
――これが祭壇で、《森の祠》で、つまりこの場所が祭場だった。
森の冒険として、ずっと彼が探し続けてきた目的地であった。
「やっと……見つけた」
感無量の吐息である。
この場所へ至るまでに起きた怒涛の超自然的現象に混乱しながらも、ただそれだけの事実を少年はひとまず呑み込んだ。
と、そこで改めて祠を眺めて、ふと気づく。
「あれ……」
観音扉の解放された祠は、その内側に御神体らしきものが見当たらなかった。
ただひとつ、何かが置かれていたのだろう台が窺えるだけである。
――居ない。
直感的に、そのようなことを少年は察知した。
そして同時、そんな彼の首を抱きかかえるようにして、背後から抱き着く熱がある。
「――漸くだ……漸くこの時がやってきた」
熱い息が耳を撫ぜた。
「我らが貴き童児……文太よ――」
湿った言葉を聞きながら、文太は背中の友人が放つ存在感がようようと強く大きくなっていくことを感じていた。
ただの人間であると考えていた彼女が、途端にひと外れた存在だと察し始める。
「よくぞ見つけた――」
「よくぞ気づいた――」
「よくぞ産まれた――」
一言、また一言と紡ぐたびに咲野の声は熱が高まり、艶を帯びていく。
頭を抱きかかえられた文太もまた、それらを耳元で囁かれるたびに心臓が痛いほどに高鳴って、思考がぼんやりと熱に浮かされていく。
そして、――そうして女は問いかけた。
「なあ、文太よ――ぬしが望むなら――」
朱色の紅を差した唇が、懇願するように音を放つ。
「――森の秘密を教えよう」
それは、とても耽美な響きを持っていた。
生あるものならば誰であろうと逃れ得ぬ、そんな誘惑の色を帯びている。――そんな魔性の魅惑に対して、抵抗できるだけの経験を幼い文太は当然のように持っていなかった。
彼は、やがてこくりと頷いた。
「嗚呼――」
女は感極まった声を零し、抱きしめる力を強くした。
「我らが貴き童児……儂の文太――」
湿った囁きが夜の静寂に溶けて消え。
ただひとつ、
祠の中身は、ここに居る――。
辛うじてそれだけを理解して、そして少年は押し倒された。
叢を背にした彼を見降ろすのは、いつのまにやら白銀の巨体である。
月光に輝く毛皮を始めて目の当たりにして、けれど獣に組み敷かれる文太に恐れは無い。
だって、それが彼女であることに変わりはなく、そして、その姿もあまりに綺麗だったから――彼は、青い熱に促されるまま身を任せた。




