第拾弐話 守森(七)
13
あの夏の日々から、早くも三か月が経とうとしていた。
山野の木々はすっかりと葉を落とし、乾いた大気は寒々しい風となって大地を撫ぜた。
森の奥地で、文太はぶるりと身を震わせる。
毛糸の手袋ごしに掌を擦ると、口元に当てて息を吐いた。
漏れた呼気が、白くなって消える。
「寒いのか」
そんな少年の背に、軽やかな声が掛けられた。
「抱きしめてやろうか」
にやりと悪戯げに笑うのは、咲野である。
厚手の服を重ね着している文太に対し、彼女は変わらずの和装であった。さすがに夏よりは生地が厚いのだろうとは察するが、それにしても傍目からすると心もとない装備に映る。
なぜ、そんな服装でいて微塵も寒そうにしないのか……夏が去って以来の疑問である。
文太は首を振ってみせると再び歩き出した。
「いいのか、暖まるぞ?」
幾分か残念そうな色を滲ませながら、咲野がその後を追う。
それを意図的に無視しつつ、スッと辺りを見渡したところで少年の足元で叢ががさりと揺れた。
「あッ……」
反応の声を上げるよりも早く、細長い影が襲い掛かる。
しかし、今にも肌へ牙を立てんとする瞬間、咄嗟に差し入れた文太の手がその頭部を鷲掴んだ。
途端、蛇は電流でも流れたかのように痙攣して、そのまま硬直した。
「……うわ、マムシだ」
文太は慣れた様子で掌中を確認して、そこでようやく驚きの声を上げた。
「あぶねえや」
と呟きながら、不自然に固まっている蛇を遠くのほうへと放り投げる。
「そろそろ冬眠してると思っていたのに……油断してたぜ」
ぼやく文太に、今しがたの出来事への危機感は然程見られなかった。その隣に立ち並ぶ咲野もまた、同様にのほほんと構えている。
むしろ彼女は、
「うむ。さすがは我らが貴き童児よな」
と、感心する素振りさえ見せていた。
「苦手の冴えも、相変わらぬ」
意味のよくわからない言葉を漏らしながら、うむうむと頷いている。
彼女がこのように感心するのは初めてではなかった。
むしろ夏場など、文太は毎日のように蛇を掴んでは投げていたものだから、その度に「さすがの苦手だ」なぞと褒められていたわけで……。
いくら文太が密かな特技として矜持を持っていたとしても、実際として聞き飽きつつあった。
半ば無意識に聞き流しながら、少年は改めて周囲を見回す。
――と、そこで思わず「あった」と叫んだ。
彼の視線の先――木漏れ日に晒される大樹の根元に、大きな洞がぽっかりと口を開いていた。
「御見事。最後の一つ……《還りの洞》やな」
一目散に駆け寄る文太の後方で、咲野は穏やかにそう言った。
辿り着いてみれば、洞の前には《往きの洞》と同様に土が盛られ、樫木を削って組み立てた鳥居のミニチュアが立てられている。
それらを確認して、文太は安堵の息をついた。
ひとまずこれで七つの印のうちの六つ――二つの洞、四つの塚はすべて発見できたわけである。
ふと、そこで気がついて文太は顔を上げた。
「最後の一つ?」
言いつつ振り向けば、数歩と離れぬ間近で美しい女は見下ろしている。
「うむ」
にこりと笑むと、咲野は語った。
「ぬしが見つけるべき印は、それで終いだ」
なにか言い掛ける文太を遮って、
「――《森の祠》は祭場にある」
次いで告げられたそれに少年は口を噤んだ。
ある予感を覚え、息を呑む。
女はその様子に目を細めると、秘密を囁くように言葉を紡ぐ。
「隠された地だ。今のぬしでは見つけられぬ。……だから、謎掛けはこれで終い。ここより先は儂が案内してやろう」
数秒して言葉を呑み込んで、途端に色めき立とうとする文太を抑えるように、女はただし――と続けた。
「時が満ちなければならん」
木々の枝葉から漏れる陽光を背負い、女の顔に影が掛かる。
「来たるそのときに――ぬしの数えが十と一つになったそのときに、儂が迎えにいってやる」
かろうじて読み取れたその表情は、おそらく綺麗に笑んでいた。
14
西暦二〇〇五年十一月二十三日――。
夕刻。
「おめでとう、文太」
「おめでとう」
「にーちゃ、おめめで!」
「おめでで!」
文太が食卓につけば、家族から口々に祝いの言葉を掛けられる。
「ありがとう」と返しつつ、彼の好物ばかりが並ぶ机上を見る。
「やったぜ、御馳走だ」
無邪気に喜んでみせながら、さりげなく文太は家族の様子を観察した。
神守一門の会合へと参加してからというもの、彼は周囲の親族に対して以前と同じような眼差しを向けることができないでいる。
あの晩夏の日以来、一門のうちに漂う不可解な空気を――それまで気づかないでいたか、あるいは無意識に見ぬふりをしていたそれを――敏感に察知するようになっていた。
そしてそれは、やはり、とくに彼自身の家族内において色濃いのである。
「ほら、友樹も陽菜も落ち着いて食べなさい」
幼い弟妹の面倒をひとりで甲斐甲斐しくこなす母親とは反対側の席で、父親が手酌で酒を舐めながら文太に笑いかける。
「今夜で、とうとう文太も十歳か。あとは年明けに座入りするだけ……これで我が家も安泰かな」
きゃあきゃあと騒いでいる末っ子二人などまったく視界に入っていない様子で、ただ文太だけを相手にあれこれと話しかけてくる。
例え友樹や陽菜が「とうちゃ」等と呼んだとしても、まるで聞こえなかったかのように目を逸らす――ここまでくると最早わざとらしい。文太が改めて観察するようになってから分かった事実なのだが、彼は普段から一切この調子だった。
いかなる理由からか、どうにも、出来る限り末の双子へは関わらないように努めているようで――。
けれど酒が入っているからかわからぬが、この日は常にないほどの上機嫌だった。
そんな父親を前に、ふと文太は密かな決意を固めた。
(これだけ上機嫌なら……)
この三か月間に機会を伺っていたことを、ここで行動に移そうと決める。
「あの、父さん」
緊張した面持ちで切り出した長男に対し、父親はというと何を思ったか鷹揚に頷いた。
「おう、なんだい。なんでも言ってみなさい」
おそらくプレゼントでも強請られるのだろうと考えていた彼は、そして続く次の言葉で動作が固まる。
「来月の……友樹と陽菜の誕生日は、もちろん家に居れるよね?」
文太の視界の隅では、母親も驚いた顔で動きを止めていた。
来月で三回目の誕生日を迎えることになる弟妹はといえば、わけもわからぬまま楽しげに食事を頬張っている。
「いや、文太……それは」
すっかり酔いが醒めた様子の父親は、困惑したように視線を彷徨わせる。
これまで彼は、末っ子の誕生日になるといつも親戚の家へと用事で出掛けていた。――一度として、二人の誕生を祝う場に居合わせなかった。
(まずは、そこから向き合わせなきゃ……)
文太は生唾を呑み込むと、畳みかけて語る。
「父さん。おれはもう、十歳だ。年明けには神守の男として成人するんだろ。森と一緒に守られる子供じゃなくて、森と子供を守る大人になるって……ならさ、大人として……守らなきゃ」
話しながら気がつくと、先ほどまであちらこちらを飛んでいた父親の視線がジッと文太へと向いていた。
「なんでおれ以外に冷たくなったのか、全然わからないけれど……でも、おれは昔みたいに、みんなで、お互いに笑い合える家族でいたいんだ」
ともすれば震えそうになる拳を握り締めながら、文太はひとり言い切った。
不透明な視線を寄せる父親へ、負けじと強く見つめ返す。
しばらくそのまま空白の時間が広がる。
食器で燥ぐ双子の声が、どこか遠くへと響いている。
「あの、真吾さ――」
やがて、耐え切れなくなったのか母親が口を開こうとして、
「――わかった」
それを遮る形で、父親が言葉を切った。
驚きに目を見開く妻を横目に見つつ、彼はそっと溜め息を吐いた。
一瞬だけ瞑目し、次に開いたとき、その瞳はひどく疲れたような色を湛えていた。
「考えておこう――」
そして手元の酒を呷ると、のそりと席から立つ。
そのまま物静かに家の奥へと消えた彼を、しばし逡巡したのち母親が追いかけていった。
残されたのは、緊張したまま固まる文太に、口周りを汚しまくっている友樹と陽菜の兄弟三人のみである。
「はあ……」
ずるずると姿勢を崩し、文太は大きく息を吐いた。
「うまく……いったのかな」
呟いた彼の前では、満腹になったのだろう弟妹が二人してスプーンで遊び始めていた。
15
その日の深夜である。
うつらうつらと眠りかけていた文太は、ふと肌寒さを覚えて目を覚ました。
ぼんやりと目を見開けば、視界一杯に広がるのはおそろしく整った顔立ちの女で――。
「うわっ」
飛び起きた彼を、きゃっきゃっと少女のように笑うのは咲野だった。
見れば、自室から庭へと通じる戸が、障子もガラス戸もすべて開け放たれている。
夜の匂いを孕んだ風が、月光とともに流れ込んできていた。
「……寒いわけだ」
呟く文太が身を震わせると、その肩へどこからか引っ張り出してきた彼の上着を女が掛ける。
振り向く彼に、そして彼女は微笑んだ。
「――さあ、迎えにきたぞ」
そうして二人は夜の世界へと連れ立った。
物音を立てないように気を付けながら靴を回収し、そっと庭先から外へと出掛ける。
鼻唄でも鳴らしそうな程にご機嫌な咲野の先導で、月明かりの村のなかをはずれの森へと向かって歩いてゆく。
「……なんだか、悪いことしてる気分だ」
咲野のすぐ後ろを歩きながら、文太がぽつりと零した。
満月の下で寝静まった村はひどく乾いていて、虫の音ひとつない道には、文太と咲野の足音のみが響いている。
日常で幾度も通ってきたはずの道が、田畑が、住人を知っているはずの家々が、なんだか揃って見知らぬ顔をしていた。
まるで夢の世界に迷い込んでしまったかのような、ふわふわとした非現実感があって、文太は確かめるように強く土を踏みつける。
そっと後ろを振り向けば、二人の影が大きく伸びて重なっていた。
「こわいか?」
揶揄い混じりに咲野が問うてくる。
「いや……」
反射で返してから、文太はゆっくりと息を吸った。
氷のように冷たいけれど、昼間よりもずっと澄んだ空気だった。
「楽しい――。ありがとう、最高の誕生日だ」
少年の答えにくすりとして、「満足するのはまだ早い」と女は嘯く。
「ほら、ここからが本番やろう」
言って立ち止まったその先を見れば、黒々とした森が大きな口を開けていた。
昼間でも暗い林はすっかりと闇に浸かっていて、月明かりがあるとはいえ懐中電灯を持ってこなかったことを瞬間に文太は後悔し始めた。
ざあっと風が森の奥へと向かって吹き、《入口》に下げられた注連縄が軋んで、ぐわぐわと怪物のような声を出した。
ごくり……と喉を鳴らして、そこで文太は隣から注がれる悪戯げな視線に気がついた。
途端に、カッと胸の奥のほうで男の意地が踏ん張った。
「行こう」
生まれて初めての夜の森へと、そうして一歩を踏み出したのだ。
○苦手
現実世界においては主に関西の地域でみられる俗信で、生まれついての異能の手を指す。この手を持つ者は蛇を制して容易に捕まえる。また擦れば腹痛などを治療し、あるいは食べ物を持つとその部分を腐らせるという。
(四年七月十一日 あとがきにTIPS追加)
 




