第拾弐話 守森(五)
9
その日、いつものように森へと出掛けた文太は、そこでなにやらコソコソとしている女に気がついた。
大きな岩の向こうで隠れるようにしており、その肩から上……後頭部だけがちらちらと見えている。
「なにしてんの」
声を掛けると、瞬間だけびくりと肩を揺らして「ん、むう……」と言葉を濁す。
そろりと振り返った咲野は、文太の姿をちらと確認すると、またすぐに視線を逸らした。
「なんでもない」
かなりぶっきらぼうに告げられた言葉に、「ふうん……?」と首を傾げる。
なんだか、普段と異なって妙だった。
不思議に思いつつも、とりあえず傍に寄ろうと歩き始めたところで、
「待て! そこから近寄るな!」
「おわっ」
唐突な怒鳴り声に尻餅をつく。
「な、なんだよ突然……」
文太が顔を上げると、岩の向こうで咲野はまたも目を逸らす。
「ところで」
頑なに視線を合わせようとしないまま、彼女は硬質な声を零した。
「なにか言うべきことがあるんじゃないかい」
まるで問い詰めるかのような語調である。
「あー……もしかして、昨日のこと?」
ようやく合点のいった文太がそう漏らせば、
「儂は待っていたのに」
「え」
「儂はずっと待っていたのに……ぬしは、あんな小娘と楽しそうに……」
「マジで?……というか、いや小娘って」
思わず茶化そうとする文太だが、反対に咲野の様子はどんどんと沈み込んでいく。
彼女の声は聞くからに鬱々としていて、そんな姿を文太はこれまで見たことがなかった。このひと月ばかりを共に過ごした彼にとって、咲野という女はいつも変わらず明るい性格の印象だった。
それが、今やぶつぶつと呟く暗い女である。
たしかに約束こそはしていなかったが、昨日を無断で来なかったのは不義理であったかもしれない。
どことなく居た堪れなくなり、焦ったように「あの、ごめ……」と零しかけた文太の声に、続く女の言葉が被さった。
「――やはり、若いほうがよいのか?」
「え」
文太の思考は停止した。
「耳に挟んだことがある。男は、より若き娘を好むと……」
暗く澱んだ瞳が、岩越しの文太をすっと静かに見下ろした。
「ぬしもそうなのか?」
「ああ、いや……」
文太は激しく混乱するなかで、もしかして――と思い付いた。
「えっと……、もしかして拗ねてる?」
途端、咲野の頬が発火した。
陰った瞳にも光が戻る。
「すッ……そんなわけがなかろう!」
唾を飛ばす勢いで怒鳴ると、咲野は真っ赤な顔で視線を逸らす。
「なにをどう見たら、儂が拗ね端張っているというのか!」
「はたば……なに?」
よくわからない言葉遣いだったが、とはいえこの様子を見る限りでは、どうにも自覚がありそうな雰囲気である。
(いい歳してるくせに……)
若干の呆れを覚える文太だが、その思考を言葉にしないで呑み込むくらいの分別はあった。
度々にこちらを揶揄ってくるところを見て、年齢に見合わず子供っぽい一面のある女だと思っていた文太であったが、実際の咲野は考えていたよりもずっと幼稚な気質を持っていたようである。
ハアとため息をつきつつ、頭を掻く。
……安堵の息だった。
もしかして深く傷つけてしまったのかと最初は焦ったが、こうして赤面しつつ怒鳴っている姿を見るに、ただ拗ねていただけと考えてよさそうだ。
そして同時、文太は先ほどまでの自分を思い出す。
焦っていた心の裏にあった、もしや嫌われてしまったかという不安――。
自分が思っていた以上に咲野へ気を許していたという、その心を自覚した。
文太は立ち上がると、首の後ろを揉みながら目を逸らす。
「あー、とさ。まず、昨日はごめんな」
その言葉に、ぴたりと咲野の動きが停止した。
「おれが悪かったよ」
わざと明後日の方向を見ている文太であるが、それでも顔の辺りに熱い視線が注がれている感覚が痛い程にあった。
「……その、今度はさ。咲野も一緒に街へ行こうぜ」
謎の気恥ずかしさを覚えつつも言い切ったところで、「うむ――」と岩の向こうから言葉が漏れた。
「まあ、そういうことならば余儀は無し。……此度は許そう」
その声音に先刻までの陰鬱さは最早欠片もなく、文太が目を遣れば、女の顔色もすっかりと普段の調子へと戻っていた。
ほっと二度目の息をついた文太が、「じゃあ」と呟く。
「これで仲直りな」
「うむ」
頷く咲野だが、その肩より下は依然として岩の向こうである。
「それで、えっと……結局そっちで何してんの?」
窺うようにそろそろと近寄れば、それに咲野の頬が再び桜色に染まった。
思わず足を止めた文太に、
「いや、そのだな……」
なにやら言い難そうに言葉を濁してから、逡巡するように目を瞑る。
そのまま一秒、二秒と経っても動く気配が一向にないので、意を決した文太はやおら岩を回り込んだ。
「あっ、おい待て!」
気がつくのが遅れた咲野がそう言い放ったときには、足音を忍ばせた少年はすっかりと岩の裏側まで歩みを進めていた。
そしてそこで、所在なさげに佇む彼女を眺める。
「……ワンピース?」
意外なその姿に、文太は目を円くして呟いた。
普段は時代遅れの着物ばかり身に纏っている咲野が、このときばかりは涼し気な色合いの小綺麗な現代ファッションに身を包んでいた。
どことなく既視感を覚えて、そこで文太はハッとする。
大人用と子供用とで細部は大分異なっているが、どこか昨日に三ノ森の少女が着ていたものと似通っている。
「まさか……」
上から下までをじろじろと眺めていた文太が見上げれば、すっと咲野は目を逸らした。
その顔をしばらく見つめていると、何故だかおかしな気持ちが沸き上がってきた。文太は少しも我慢せず、その衝動に身を任せる。
「ぷっ……あはははっ」
そのあまりの笑いっぷりに、咲野も振り返って怒鳴る。
「こら! 笑うでない!」
しかし、それでもまったく笑い止む気配のない少年に、業を煮やした彼女はとうとう「この!」と叫んで掴み掛かった。
二人してごろごろと草のうえで転がる。
その間も笑い続けながら、嗚呼――と文太は思った。
昨日も楽しかったが、けれど、何故だろう……こうして森に二人でいるときのほうが、なんだか、ずっと楽しい気がする。
――気がつけば少年にとって、この咲野という女は少しだけ特別な友達になっていた。
10
八月も半ばに差し掛かろうという頃に、神守一門の会合が開かれる。
年始の祭事に向けた準備を始めとして、村内や一族に関する諸々の相談事が行われる場である。
会場は屋号を一ノ森とする守森家総代――文太の生家であった。
この日は朝から晩まで家を挙げて忙しい。
夕方に来訪する客人たち……神守本家と守森各家の当主を歓待するために、精一杯の御馳走を用意しなくてはならない。
この歓待に少しでも不備があれば、それは一ノ森がもつ守森家総代としての地位を揺るがすほどの失態となる。――と、されている。
類似した習俗は日本各地に存在しているが、かつての古き時代はどうであれ、元号も平成になって久しい現代においては、総代が持つこのような責任と義務というものは、総代の権力と比較したとしても最早負担でしかない……というのが多くの土地での実情へなりつつある。
だから多くの場合、今やそれほど神経質になる必要はない。
――そのはずなのだが、こと神守一門においてはその限りではなかった。
当日になると、早朝から起き出した母親が夕方の会食のために料理の仕込みを始める。品によっては、前日から仕込んでいる材料もある。
陽が昇る前から始めたそれがひと段落したときにはすっかりと外も明るい。次に夫や子供らの朝食を用意すると、彼女は休む間もなく座敷の掃除へと取り掛かる。それが終われば、今度は飾り付けと調理が待っている。
それら全ての仕事を、文太の母親はたった一人で熟していく。
その顔にはどこか鬼気迫るものがある。
絶対に失敗が許されない――そのような心の声が鏡となって映っていた。
何故といえば、この村では未だに旧時代の権力構造が形を残しているからだった。
神守本家を頂点として、すぐ下に守森各家が続き、そのさらに下へと他村民の家が続いている。
村社会の構造は外の世情がどう変化しようとも、少なくともこの二〇〇五年当時までは凡そ不変のまま維持されていた。
守森家総代の地位と権力は、義務や責任と天秤に掛けたとしても未だに重かったのである――。
そんなわけなので、この日ばかりは文太も森へ遊びに行くような暇は無かった。
以前の反省を生かし、咲野にも前日には事情を話しているので心配はない。
起床後、先にひとり朝食を終えた文太は、母親に代わって幼い弟妹の面倒を見る。食事の補助から歯磨きの手伝い、そして部屋の隅へと誘導して、そこで共に遊戯へ付き合う。
会合は例年の事なので、親の邪魔にならないように弟妹を操縦する彼の手腕も手慣れたものがあった。
幼い熱量へと一心に向き合っていれば、気がつくと朝が過ぎ、昼が過ぎ、あっという間に夕刻へと差し掛かっている。
縁側から漏れる夕陽のなかで寝転ぶ弟妹にタオルケットを掛けていると、その背に低い声が降ってくる。
「ご苦労さん、文太」
振り向けば、橙色の光のなかでひっそりと父親が佇んでいた。
「父さん」
立ち上がる文太の頭に手を置いて、彼はぐりぐりと揺らす。
「ちょっ、やめてよ」
頭を振って逃れようとする息子に、父親は愉快そうに笑う。その一方で、すぐそばに寝転んでいるもう一人の息子と娘には、一貫して視線を向けようとすらしなかった。
「ところで、そろそろ出迎えなんじゃないの」
ようやく腕から逃れ出た文太が、どこか非難するように言った。
改めて目を遣ると、父親の服装は着物は着物でも普段着ではなかった。紋入りの黒い長着のうえに、青い裃を着ている。
「それなんだが……」
問われた彼は、何やら意味ありげに文太の顔を覗き込む。
「な、なにさ」
とたじろぐ文太にふっと笑んで、
「今年は文太も参加するんだ」
「え――」と固まれば、その耳にふと零れたものだろう、父親の呟きが微かに届いた。
「お前ももう、十歳になるからな……」
 




