第拾弐話 守森(三)
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「咲野」
と女は名乗った。
艶のある黒い髪をうなじで束ね、鶯色の着物を纏った彼女は見るところ二十歳を越えるかどうかといった頃である。
互いの名前を交換した文太は、改めてこの女を眺めて首を傾げた。
実父を始めとした親類縁者に和装を好む人間が多いためか、文太にとってその服装はそれほど突飛なものでもない。
ただ一点、見覚えのないというそれが不思議であった。
「ふむ……貴き童児の願いだ。分けてやろう」
先ず昼食を返せと詰め寄った文太に、咲野が述べたのがそれである。仰々しく握り飯を渡してくる彼女から、「もともとおれの弁当だ」と奪い取った少年はそこで改めて名を尋ねたのだった。
文太を指して貴き童児……なぞと述べるからには、おそらく守森の寵児の通称を知っているということで、すれば村の人間だろう。
しかし返ってきた名前に覚えはなく、無遠慮に飯を食う顔を見上げるも、やはり記憶に見つからない。
女の容姿は端正だった。母親よりも綺麗な顔立ちというものを、このとき文太は初めて知った。これほどの美人で、しかも若いとなれば……狭い村である、評判のひとつやふたつは流れていてもおかしくないはずなのだが、そのようなものを文太は全くとして聞いたことが無かった。
――と、そこまで考えて、文太は「そもそも」とようやく気がついた。
はたして村の人間に、《神守の森》に侵入するような度胸を持つ者がいるだろうか。
何度も繰り返すように、こと《森》に関して神守家の統制は絶対である。
《森》に坐す山の神は村の氏神でもあるが、実際に祭祀を執り行い聖地を管理するのは、その神を祖神とする神守一門のみに許されている。祭礼日は勿論のこと、《森》には一門以外の人間は何人たりとも立ち入ることが許されない――。
古くから続くそのしきたりは、けして破ってはならない禁忌として村民全体が周知しており、もしも破る者が現れようものなら村八分の憂き目にあうだろうことは想像に難くないほどである。
そもそもとして、遭難の危険が高い樹海であるうえに私有地なので、迷信だなんだと茶化す子供であっても、わざわざ立ち入ろうとは考えない場所だった。
どこまでいっても、文太は例外中の例外なのだ。
であるならば、そんな場所にいるこの女は何者なのか。
「どこから来たのさ」
文太は女の向かいにある岩へと腰かけると、分け与えられた(もともと自分の弁当だったはずの)握り飯を食べながら尋ねた。
注意深く目の前の顔を眺めながら、あるいは最近に越してきた人間なのかもしれないとも考える。
しかし咲野は首を振って、
「儂はずっとここに居る」
はらりと揺れた髪の向こうから、黒曜石のような瞳が文太のそれへと視線を向けた。
「それこそ……ぬしが産まれるよりも、ずっと前から」
注がれる視線は、まるで他人を見るようなものではなかった。真摯で、暖かみのある、慈しむようなそれは、母親が子を見るような瞳である。
唐突に向けられた温度に困惑する以上に、綺麗で透明なそれになんだかドギマギとして、文太は慌てて目を逸らした。
すると向かいの視線もふいっと途切れ、彼女は再び手元の弁当を食む作業へと戻る。
文太も誤魔化すように握り飯を頬張って、そこでハッと閃く天啓があった。
「そうか!」
飛び上がるように立った少年は目の前の女を指さした。
「あんた、本家の三女だな!」
村で咲野の評判を聞いた覚えがない……と悩んでいた文太であるが、ふとある事情さえ思い出してみると、なんということでもなかった。
ただ単純に、村外在住の人間であるならば評判だって立ちはしない、ということである。
神守本家には大学生の三女がいて、県外の大学に通っている……そのような話ならば文太も聞いたことがあったのだ。
思えば、例え守森家の人間であろうとも《森》の中心地まで来ることは大変な苦労である。守森家が伝える《道》は、あくまで《森》の要所をぐるりと周回するものでしかなく、奥地になど踏み入らない。特殊な技能を持つ文太ですら、中心地にまで至る探索は数年がかりでの仕事であったのだから、尋常な人間は守森家の者であろうとも、奥地へと進もうとした時点で遭難必至である。
例外である文太を除けば、《森》の奥地へと進むような人間は、祭場へと続く正しい《道》を知っている神守本家のみなのだ。
つまりこの場所にいるというその時点で、目の前の女の背景はひとつしかありえなかった。
「いや……」
と咲野は口ごもるが、
「な! そうだろ!」
そんな彼女へ再び詰め寄って、鬼の首を取ったとばかりに文太は燥ぐ。
というのも、もしも咲野が神守の三女であるならば、なおさらに肯定するわけにはいかないだろうと彼は承知していたのである。
そも、神守家が祭祀を行い、守森家が守護をする――というのが両家の分担する役割であるが、これを掘り下げると、祭事中に守森家は《森》へ入ってはならず、また神守家は祭事の他には《森》へ入ってはならないのだ。
そしてもちろん、現在は祭事中ではない。
となれば、神守本家の人間であろうとこの場所に立ち入っていることは明確な禁忌破りであった。
すっかりと自分の推測を信じ込んでいた文太はそう考えていたので、咲野の煮え切らない態度も告げ口を恐れてのことだと思い込んだ。
「親戚なら、べつに隠さなくてもいいだろぉ」
ぐいぐいと迫る文太に、ついには咲野も
「まあ、ぬしらが儂に連なるのは確かだが……」
零れたその言葉に、「ほらぁ!」と顔を輝かせた文太は、ほっと一息ついたように草の上へと腰を下ろした。
奇妙な女の正体にようやく見当がついたことで、何故かはわからなかったが安堵する気持ちがあった。
「大丈夫だよ、誰かに話したりはしないから」
そう言ってから、
「ところで咲野はどうしてここに?」
顔を上げた文太に、弁当をすっかりと食べ終えた女はその箱を「ん」と突き出す。
(おれの弁当なのに、ほとんど食べれなかった……)と思いながら受け取れば、端的な返答が降ってくる。
「散歩だ」
「散歩……」
「そういうぬしは、何故森に?」
細い指先についた塩を舐めながらのそれに、文太は少し躊躇してから、自分だけの小さな冒険について語った。
「ふむ」
咲野は小さく頷くと、
「神守が祀りごとをする場所か」
「もしかして、知ってる?」
途端に色めき立つ文太に、数瞬だけ目を瞑る。
「勿論知っているが……儂が教えてもいいのか?」
見下ろす咲野の目や口元は、まるで童女のように悪戯げに歪んでいた。
「冒険するのではなかったのか」
「うっ」
思わず呻く文太に、呵々と笑う。そうして笑う様子をみれば、この咲野という女は見た目や話し方こそ大人のようだが、その性根はどこか子供染みているものがあった。
(おれの弁当を勝手に食ったし……)
先刻に瞬間だけ向けられた慈愛の瞳は何かの間違いだったのではないかとすら、文太は思った。
「そうさな」
一頻り笑ってから、女は嘯いた。
「それでは、こうしよう――」
すっと身を屈めて、文太と同じ目線になる。
途中でさらりと垂れた髪が少年の鼻先を掠めれば、草と土の香りが鼻孔に広がった。
黒曜石の輝きが、ジッと静かに射抜いてくる。
艶やかな唇がそっと開いて、
「――昼と夜が逆さの根元を、見つけんさい」
おもむろに飛び出た呟きは、そんな難問だった。
「……へ?」
固まる文太を愉快そうに見つめながら、
「儂が問を出す。ぬしがすべて見つけたとき、探しとる場所もわかるやろう」
それまで儂も付き合ったる……そう言って、また笑った。
そうして文太のささやかな冒険は、この日を境に彼ひとりだけのものではなくなったのである。




