第拾弐話 守森(二)
3
西暦二〇〇五年七月――。
その日は茹だるような暑さで、まさに真夏といった風情の空が何処までも高く広がっていた。
村は山間の盆地にあるので、群青の下には深緑がひたすら四方に続いている。
けたたましい蝉時雨が響くなか、村はずれにある屋敷の軒先からひょいと飛び出す影があった。
庭に降りたその少年は、ウンと伸びをするとそのまま大きく息を吐いた。
「いい天気」
呟くその背に声が掛かる。
「むしろ良すぎるくらいだな」
振り向けば、父親が縁側に立っていた。
壮齢の男は眩しそうに外を眺めると、和装の襟元を軽く扇いだ。
「まだ午前なのに、この暑さか……。文太、出掛けるなら水筒と帽子を持っていきなさい」
「……はあい」
いかにも面倒くさげに返事をする嫡男に、男は緩い笑みを向ける。
「父さんは心配して言っとるんだぞ」
「わかった、わかったよ」
「返事は一回」
「……わかりました」
「よし」
男が満足げに頷いたところで、家の奥からパタパタと駆けてくる音がある。
はたして現れたのは、文太よりもずっと幼い男児だった。
「……にいちゃ!」
今年で二歳になったばかりの弟は、短い手足を懸命に動かして走ってくる。そのまま縁側を飛び降りる勢いだったので、慌てて文太の方がそちらへと駆け寄った。
「友樹、あぶないよ」
言う彼に飛び込むようにして、小さな影は抱き着いた。すると文太もまた平均的な九歳児の体躯なので、腕一杯で抱え込むことになる。
「おっと」と後ろに一歩よろめいた。
そこに、続いて家の奥からやってくる人間がいる。
「こら友樹、家の中は走っちゃだめでしょう……」
顔を出したのは母親だった。
どこか疲れの残る表情の女性は、けれどそれを補って余りある美貌である。文太は常日頃から、テレビのなかの女優よりも母親のほうが綺麗だと思っていた。
その母親に、先ほどから沈黙していた父親が声を掛けた。
「……茜、友樹をちゃんと見ていなさい」
言うその声は、どことなく硬い。
「ごめんなさい、真吾さん……陽菜を見てたら走っていっちゃって……」
答える母親もまた、そっと顔を伏せている。
弟を抱いたままでその二人の顔を見上げて、文太は両親の仲が何故それほど良くないのだろうと何百回目かくらいの疑問を覚える。
どちらも文太に対しては優しい父親であり、母親なのだ。けれど互いに対してはどことなく余所余所しさがある。
父親に至っては、母のみならず弟妹に対しても似たような態度だった。
いつからこうなってしまったのだろう、と文太は考える。
ずっと古い記憶では……。
少年が想起に沈もうとしたそこで、父親が文太へと視線を戻した。
「文太。森に行くならお勤めも頼んだぞ」
一転して暖かみの籠った口振りだった。
それだけ言うと、彼は踵を返して去ってゆく。
廊下の奥へと消える背を見送ったところで、明るい口調を装った母親も文太へと向き直った。
「そうだ文太、お弁当は要る?」
頷けばニコリと笑って、「用意するわ」と母親も歩き出す。
「ちょっとその間だけ、友樹と陽菜をみててあげてね、お兄ちゃん」
「うん」
返事をして、文太は抱いたままの友樹を縁側に下ろすと自分も靴を脱ぐ。
先ほどに両親の仲へ対して抱いた疑問は、すでに日常のなかへと押し流されて消えていた。
何しろ自分に対してだけは優しいのだ。
表立って喧嘩をしているわけでもない。
普段のことでもある。
この頃のまだ幼い文太は、ふと思い立つことこそあれども、この問題をそれほど真剣に考えようとはしなかった。
4
人口七百人程度の小さな田舎なので、村自体は非常に狭いと言ってよい。山地のなかポツンと開いた猫の額のような盆地のちょうど中央に神守本家と氏神社があって、その周りをほか村民の家が田畑と共に広がっている。盆地の東側に三角形の山があり、そこから麓までを深い森――《神守の森》が覆っている。
全体で三十数戸からなる守森家は、その森と村とが接する境界を監視するかのように並んでいて、だから文太からすれば《森》は裏庭とか裏山のような印象であった。
昼食の弁当と水筒を母親から貰い、キャップを被った彼は意気揚々と家を出発した。
そしてしばらくも歩かないうちに知り合いとかち合う。
「あれ、文太じゃん」
声に向けば、村では数少ない同年代の少年少女が三人、畑の木陰で涼んでいた。
「おう」
答えながら寄れば、そのうちの少女が呆れたように言った。
「もしかして、また《森》に行くの?」
彼女もまた守森家の人間で、つまり親戚である。文太より年齢はひとつ上だった。
「わるいかよ」と嘯く彼に、「わるかないけどぉ」と言う少女が隣を向く。
そこに座っていた少年が問いかけた。
「よくもまあ、飽きねえよな。ほとんど毎日じゃん」
「……まあね」
頷きつつ、
「冒険みたいで、歩くだけでも楽しいし。それにお勤めもあるからさ」
「お勤め!」
途端に残る一人がわざとらしく素っ頓狂な声を上げた。
「あんなメイシン、大人に任せとけよ……イテッ」
「迷信とか言わない。《森》の神様のおかげで、あたしたちゴハン食べれてるんだからね」
「えぇ……ホントかよぉ」
じゃれ合いを始めた二人の横で、先の少年が揶揄い混じりに笑った。
「さすがは守森の寵児って感じ。このままいくと文太、山神サマと結婚するんじゃね」
「うるさいなあ!」
文太はあからさまにため息を吐いてみせると、「じゃあ、おれ行くから」と歩き出す。
「気をつけなさいよ!」
姉貴風を吹かした少女が声を投げるが、文太は振り返りもせずにおざなりに手を振った。
「……大体おれ、神様に逢ったことなんてねえし」
田舎道を歩きながら、ぶつくさと零す。
六歳のときの一件以降、「守森の寵児」などと大人たちに持ち上げられるばかりの文太は、彼らに優遇される一方で村の子供たちから揶揄われることが多かった。
しかもその一件……守森家男児が初めて「お勤め」――森の見廻りに参加することを「山神様への顔見せ」などともなまじ呼ぶせいで、まるで文太が神様のお気に入りであるかのように扱うという風潮が少なからずあるのだ。
勘弁してもらいたい、と文太は常々思っていた。
森で迷わないのは、ただ単に生まれ持った自分の才能である。存在するかも怪しい神様とやらに貰ったものではない――。
口に出せば大人たちに怒られるだろうそんなことをつらつら考えているうちに、彼はとうとう《森》と村との境にまでやってきていた。
「ぱっと見の異常は……なし、と」
ずっと辿ってきた田舎道は二又に別れ、片方が《森》の手前まで続いていて、そこで途切れている。
その道の終端を挟むように伸びている二本の大樹、その間を一抱えもありそうな図太い注連縄が渡っていた。
――この場所こそが、《神守の森》の入口である。
守森家の人間が「お勤め」をする際は、必ず最初にこの場所を確認する。注連縄が切れていないか、不埒者や動物に荒らされていないか……《入口》の異常がないかをまず確かめなければ、彼らも《森》に入ってはならないとされているのである。
「大丈夫そうだな」
頭上の縄を見上げて、再び呟く。
この《入口》の縄が最も大きいものだが、村と森との境には他にも同様の縄が点々と張られている。稲藁で綯ったこれらの縄は年末に守森家の男子が総出でつくるもので、文太も一部分だけ手伝ったことがあった。
ひどく面倒くさかったことを覚えている。
なにしろ一々手作業で綯うので大仕事なのだ。神事の縄だからということで、縄綯い機があるにも関わらず使わせてもらえない。
「今年も手伝わされそう……」
ぼやきながらも、慣れた様子で《入口》周辺のチェックをすべて終える。
「……よし」
と頷いて、文太は目前に広がる深緑の樹海を見据えた。
これで大人に言い訳するための最低限度の「お勤め」は終えた。――ここから先は、文太個人の冒険の時間である。
5
神守家が祀る聖地であり、守森家を含む彼ら一族の他には何人たりとも立ち入りを禁じている《森》であるが、文太にとっては今や身近な遊び場である。
とはいえども、べつに文太は《森》のすべてを知っているわけではない。
何故ならば山や森というものは、その時々で姿を変えるものである。――地形を幾ら覚えようとも、樹々や草花も生きている以上は不変の存在ではない。岩ですら風雨で姿を変えるのだから、深く広大な樹海を網羅して理解することなど、大抵の人間には凡そ不可能な所業だろう。
だからこそ、文太以外の一族の者は先祖伝来の人工道標を頼りに道を覚えるのである。
――そんな《森》を、真の意味で踏破することこそを文太は目的としていた。
父親たちのように道標に頼らずとも、本能的な感覚で帰り道の方角がわかる文太にとって、広大な《森》は地図の必要ない迷宮だった。
最深部にあるという祭場――神守本家の人間のみしか道筋を知らないとされている、その隠された場所を探し出すことを最終目標に設定することで、ただ自分だけの冒険を得ようと画策していたのである。
一から十まで、それは少年染みた冒険心だった。
実のところ、周囲の大人の少なくない数が文太のその目的を察している節があったのだが、どうにも「守森の寵児」の児戯として見逃されていたようである。この事実に関しては、――例え守森家の人間であろうとも、聖地の秘所を探る行為は本来ならば神守家が許すはずがないので――、当時の文太を巡る特別視が如何に強い影響力を持っていたかが窺える。
ともあれこの日も、文太は冒険をするために《森》のなかへと入ったのである。
文太の探索方法は非常にシンプルだった。
進んだことがない方角に向かって、ひたすらに歩く――ただそれだけである。
なにしろ帰り道に迷うという経験をしたことがないので、少年は地図を作るという行為に有意性を覚えないのだ。過去に歩いたことがある場所も、目印などなくともなんとなくわかった。
だからこその、この探索方法である。
尋常な人間ならば自ら遭難しにいく危険な歩き方を、文太は事も無げに利用していた。
――そうして六歳の頃から《森》で遊び始めた彼は、九歳を過ぎた現在では樹海の半分近くを踏破している。
この日は家を出たのが十時過ぎだったが、《森》に入ってから真っ直ぐに歩き続けたためか、太陽が真上に来る頃には深奥部にある山頂へと辿り付いていた。
「ここが中心部……」
感慨深げに見回すが、道中とおよそ変わらない樹々が立ち並ぶだけの光景である。
伸びるに任せた大木が邪魔で、山頂といえども村の全景が見える……といったちょうど良い展望の場所もなかった。
ただの山のなかである。
期待していた、祭場らしき箇所も見当たらない。
「祠とか、神社とかあるかもって思ったんだけど……なにもない」
文太はため息をつくと、なんとなく目についた岩へと腰かけた。
「まあ、いいか。ひとまずメシを……食……おう……」
言いながら、つい先ほどに荷物を置いた場所へと目を向けて――少年は固まった。
いつのまにやら彼のリュックサックは開けられており、内に仕舞ってあったはずの弁当箱が外に出ている。
そして着物姿の見知らぬ女が、もぐもぐとその弁当を頬張っていた。
「……え、誰?」
ぽろりと零れたその言葉に、「うむ?」と女が顔を上げる。
互いに不思議そうな顔で見合ったまま数秒が過ぎ、ごくん――と握り飯を呑み込んだ女が微笑んだ。
「儂の飯だ」
「――いや、おれのだよ!?」
思わず叫んだ文太の声が、山彦となって遠くへ消えた。
 




