第弐話 侵蝕(二)
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本来ならば部活動の活動日だったが、「用事がある」と述べた蓮により本日は解散となった。部員数四人で、もともと厳密な活動をしているわけではなかったし、副部長が欠席しているうえで部長の蓮が休むとあっては、慧と文太の二人だけで何を活動するということでもなかった。
運動場で部活動にいそしむ学友たちを尻目に、三人は校門前で各々に別れた。
そうしてやってきた場所で、蓮はひとり呟いた。
「嘘だろ……」
彼の目の前には、竹林の中ひそやかに伸びた小径がある。
夢だと思い込もうとしていた、あの廃神社に通ずる石階段――参道の跡である。
「まさか、いや、でも……」
動揺のあまり近づいた蓮は、今度はそこで昨日には気が付かなかった痕跡を発見する。
「これは、注連縄……焼けてるのか?」
石段の入口に転がるそれに腰を落として触れれば、指先の当たったところからボロボロと細かい灰のようになって崩れる。
「ッ……」
しばし無言で固まる蓮だったが、数瞬してから立ち上がると、黙ったまま自転車を道の脇に寄せた。
そして林の奥へと続く参道を見上げる。
頭の中の大部分は混乱が占めていたが、それが却って蓮の決心を固めていた。思考が止まったとき、ひとは普段から染みついた行動原理で動くものである。
すなわち彼の場合は、行って、見て、確かめる。
夢なのか現なのか、何が何やらわからぬが、なにはともあれ確かめてみなければ真なる答えは得られりゃしない。
ひとつだけ深く呼吸をして、そして蓮は再び石段へと一歩、足を踏み出した。
4
大粒の汗をだらだらと流しながら、息も絶え絶えに蓮が石段を登り切ったときには、すでに日が傾き始めていた。
まだまだ日没までには余裕があるとはいえ、やはり時間の少ない放課後に山登りなどはするものではない。
そう改めて思いながらも、蓮は息を整えながら顔を上げ、――
「あ……」
呼吸を忘れた。
そこには昨日のように廃神社の跡があり。
そして。
――あの記憶の通りに、荒れた境内が広がっていた。
中心にある社の残骸そばでは地面に大穴が空き、そして深奥には壊れた祠。そしていたるところに、黒く凝固した血痕がこびりついていた。
蓮は呆然としたまま、ふらふらと近寄っていく。
穴のそばまで来たところで、足元に残った夥しい黒い染みを見下ろし、
「僕の、血だ……」
力なく呟いて、その場に崩れ落ちるように膝をつく。
もはや疑う余地などなかった。
昨日の記憶は、実際に起きた出来事だったのだ。
しかし、そうであるならば。
(どういうことだ……僕は、死んだのか?)
すがるように胸に手を遣る。制服ごと握りこんだ掌には、確かな鼓動が伝わった。
同時に、先刻まで共に話していた友人たちの姿も思い浮かぶ。
(いや、生きている。幽霊でもない……でも、なら――)
「どうして……」
《――どうしたもこうしたも、あるものか》
「ッ!?」
伏せていた顔をがばりと上げて、蓮は慌てて辺りを見回した。
木立に囲まれた境内の跡地、荒れ果てたその場には鮮やかな夕陽が掛かっているのみで……自身の他には何者の影もなかった。
――誰もいない。
人間どころか、小動物の気配さえひとつも感じぬ静寂が広がっている。
――だが、明らかに聞き間違いではない。
「今……声が」
震える声が、喉から漏れる。
厭な汗がじっとりと浮かび、掌の中が湿ってゆく。
そして再び、声が脳裏に響いた。
《あまりに脆弱……なにも覚えていないとみえる》
低い男の声だ。若者のようであり老人のようでもある声音。はっきりとした発音は不思議な存在感を持っており、……そして、どこか聞き覚えのある声だった。
「だ、誰だあんた!? 何処にいる!?」
思わず立ちあがり、周囲を見回しながら蓮は叫ぶ。
夕暮れの山中、血だまりの広がる廃墟の中。そこで何処からともなく響く、誰のものかもわからぬ声。
あまりに不気味だった。
背中が汗で気持ち悪い。
呼吸は乱れ、耳元で激しい鼓動の音が鳴る。
対して辺りは、変わらず静まり返っている。
遠くで太陽がじりじりと沈み、世界を包む色がより一層に濃くなった。
唾を呑み込んだ喉がいやに大きく震え――
「此処だよ、阿呆が」
瞬間、蓮は全ての五感が遠く離れていったことを知る。
視覚も聴覚も味覚も触覚も嗅覚も、あらゆる身体機能が自身の制御から外れる感覚が彼を襲う。
まるで身体の内側の奥深くに、自分の魂だけがすとんと蹴落とされたかのような、そんな感覚だった。
だが、なによりも恐ろしかった事実がある。
男の声の出処は、彼自身の口と喉だった。
蓮の制御を離れた体が、誰かの意志で勝手に動いてゆく。
ぐるりと肩を回し、首筋を揉む。
ため息をひとつ吐いて、またあの男の声が口から洩れる。
「思っていたより、どうにも馴染むのが遅い……」
この段に至り、ようやく呆然となっていた蓮にも状況が把握された。
つまり、
――身体を、乗っ取られた。
魂だけとなった蓮から、比喩として血の気が引いていく。恐怖で固まった思考は、されど沈黙することなく叫んでいた。
(一体……一体、なんなんだ!? 体を返せッ――)
けれど言い終わらぬうちにぴしゃりと遮られる。
「言葉を慎め、小僧」
自分の口を通したとは思えぬその重い声に、途端に蓮は騒ぐ気力を失う。
物理的な圧力さえ感じられるようなそれに、蓮の心をより色濃く恐怖の感情が覆い始める。
「この身体は、すでに己のものなのだ」
理解できぬ主張だと蓮が思った刹那、声は続けて、
「本当に覚えていないのか?」
途端に昨日の記憶、そのあやふやだった部分を蓮は鮮明に想起した。
そして、理解する。
自分はたしかにあのとき、この“声”に命乞いを行った。
だが、それとこの状況と、いったいどのような繋がりがあるというのか。
「実に対等な取引だった」
声はそう言いながら眼鏡を外す。(眼鏡を外しても視界が変わらない……?)と蓮が驚いている横で、何処からともなく湧いて出た暗い気配が身体を覆い、それが晴れると蓮の身体は高校の制服姿から着物に袴の姿となっていた。運動靴も消えて裸足であり、腰には装飾の施された直刀を佩いている。
静かに転回し、声は語りながら境内の入口へと歩んでいく。
「汝はまだ生きたいと望み、己は化生を斬ることでそれを叶えた」
蓮は、あの女怪がすでに滅ぼされていることをようやく知った。
「だから代わりに……」
歩みが止まる。目の前には夕陽に沈む町の全景。先日は目を奪われた優美な景色だったが、しかし現在の蓮にそれを楽しむ余裕はなかった。
厭な予感だけが走り回り、それを裏付けるように声は続けた。
「この肉体、その魄を己が貰い受ける」
蓮は唖然としたが、しかし咄嗟に反論する。
それでは「生きたい」と願ったことに対して、話が違うのではないか――。
「いや、違わない」
声の調子は、あくまで静かだった。
「言葉通り、生き延びたではないか」
「それに」と言って、声は掌をジッと眺め、「……まあ、ざっと一年というところか」
(な、なんの話だ?)
震える蓮に、声は一拍置いてから、
「この身体……未だ人間のそれが、完全に己のものへと置き換わるまでの時。まあ、つまり――汝の余命だ」
蓮は今度こそ絶句した。
「昨日に終わる筈だった命、それが一年も延びたのだ――喜ばなくてなんとする」
心底理解できないといった声色、それに蓮はようやくこの声が全く異なる倫理の精神を持っていることを理解する。
立て続けの情報に彼の思考は混乱の極みへと陥っていた。
その中でいて、かろうじて掠れる声で呟いた。
(あんたは……一体、なんなんだ……)
そこで初めて声は言葉に詰まる。
ふむとひとつ頷いて、
「遠く生きてきた……それだけ多くの名で呼ばれてきた。例えば長人、悪法師、第七師父……」
蓮の身体のまま顎に手を当て、ぶつぶつと呟く。
「だが、まあ、最も通りの良いものであれば、そう――」
左手が、腰の刀に触れ、
「――剣王鬼」
夕陽を眺める瞳が紅に光る。
「己のことは、ひとまずそう呼ぶと良い」
遥か三千年に及ぶ過去、神代の闇、古き夜の間に生じた最古の鬼は、そう静かに告げる。
……蓮をこれまで優しく包んできた箱庭のごとき日常の世界、それが裏返り、崩れてゆく。
どこか遠くで、運命の大車輪が廻り出した。
第弐話 侵蝕 /了。
○赤沼の祟り神
赤沼町の忘れられた廃神社、その地下の隠し祭壇に封印されていた。蓮を襲うが、復活した剣王鬼に斬り捨てられる。
剣王鬼が封印された神剣は、何故かこの廃神社裏の祠に安置されていた。
(四年七月十一日 あとがきにTIPS追加)