第拾弐話 守森(一)
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聳え立つ大樹が枝葉を伸ばし、蓋をされた天から月光が幾本もの筋となって辺りに降り注いでいた。
古い森の最奥で、十歳になったばかりの少年を妙齢の女が腕のなかへと抱き込んでいる。
為されるがままに頭を預ける彼の耳元で、美しい女が囁いた。
「――森の秘密を教えよう」
紅色の唇から零れたその言葉はあまりにも耽美で、この世のあらゆる誘惑を内包していた。
まだ幼い彼はそれに抗う術を知ることがなく……やがて頷き、そして運命を歯車が刻みだす。
目に映る世界のすべてが変容したその夜の出来事を、文太は今でも鮮明に覚えている。
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文太の部屋は六畳程度の広さで、意外と物が少ない。
片付けられた棚の上に整頓されているのは、彼が友樹や陽菜と共に写っている家族写真と分厚いアルバムである。本棚のなかには教科書やノートブックが並び、小説や漫画本などの類はほとんど見当たらない。かろうじて見つかる背表紙は、友人間の話題で出てきたことがあったり、貸し借りをしたものばかりだった。
「あいかわらず片付いてるなあ」
見回して呟く蓮だが、反応を返したのは葵だけで、慧は公園から変わらぬ難しげな表情で黙り込んでいる。
第三高校にて赤沼怪奇探偵団の第二次メンバーが結成されてからの一年間で、蓮たちはこの部屋にも何度となく訪れたことがあった。
それらの記憶では和気藹々とした穏やかな空間だったが、現在は蓮たち客人の……とくに慧の醸し出す空気にあてられてか、どことなく余所余所しい。
「ごめん、お待たせ」
そう言って襖を開けた文太は、その手に盆を持っていた。畳の上で車座になっていた蓮たちへとグラスを渡し、中央に冷茶のピッチャーを置く。
「よっこらせ」
自分も円に加わって座ったところで、彼は改めて顔を上げて……苦笑した。
「すごい注目じゃん」
受け取ったグラスを空のまま、冷茶に目もくれない蓮たちの視線は、登場からずっと彼ひとりへと向けられている。
三人は目配せをすると、代表して葵が問い掛けた。
「で、どんな事情なのよ。聞かせてくれるんでしょ」
「……うーん、そうなんだけど」
唸りながら言葉を選ぶ文太に、続けて慧。
「もう一度確認するけどさ、あれは文太がやったんだよな」
そして軽く返ってきた頷きに、真剣な表情で慧は言う。
「……あのとき、霊力の波は感じなかった。つまり、何らかの呪術というわけでもない。霊力も使わず、手も触れずに物を動かすだなんて……そんなものは明らかな異能だ」
ごくり、と喉を鳴らす音をこぼしたのは蓮だった。
(異能!……良い響きだ)
肝心の現場を目撃していなかった蓮であるが、簡単な事の顛末はすでに帰路にて聞いていた。
河童が毛むくじゃらだった――という点を聞き及んだ途端に実際に見れなかったことを物凄く悔しがった彼であるが、それ以上にその河童を文太がなにやらして追い払ったというのだから、そちらに対しても非常に驚いたものである。
葵と慧が、その家業の関係で蓮からしてみて霊能力を保有していることは以前から知っていたことであるが、まさか自分と同じ一般人だと考えていた文太までもが常人離れした何かを持っているとは露にも思っていなかった。
先刻の光景を蓮は想起する。
水神の石碑横の柵を乗り越え、保全林のなかを抜けた先で蓮が見たものは、崖下の川で抱き合う文太と友樹、その二人を呆然と眺める慧と葵、そして双方を繋ぐように倒れた大振りの樹であった。
枯れ木でも何でもないごく健康なその樹木は根元からそっくりそのままが横たわっており、まるで土中から蹴り飛ばされたように捲れた地面を見て、蓮は樹木が自ら根を突き上げて倒れる様子すら幻視した。
あるいは、巨人がひょいと無造作に木を抜き取ったかのようでもある。
どちらにしても尋常な倒れ方ではなかった。周囲の土は木々の根で固められており、残された穴を確認しても土壌が柔らかくなっているだなんてことは微塵もなさそうだった。
この倒木を指さして、そのときも慧は文太に「おまえがやったのか」と問うた。「あの腕はなんだったんだ」とも。
文太はしばらく躊躇したのちに「帰ってから事情を話すよ」と頷いた。
そして現在に至っている。
(もしも文太が異能とやらを持っているのなら……僕には剣王鬼がいるし、すると探偵団には一般人がいないってことになるのか)
さらに言えば、一か月前に剣王鬼が取り憑くより以前においては、探偵団の一般人は実は蓮ひとりだけだったということになる。
(それは、なんだか疎外感……)
瞬間だけそんなことを思うも、よく考えてみると中学時代の第一次メンバーの時点で、もともと似たような状況だったことを思い出す。
(まあ、いいか)とすぐに忘れることにした。
蓮がひとり百面相をしているうちに、「異能?」と文太が首を傾げていた。
それを受けて慧が説明を始める。
「俺や葵や、宗像さんのような呪術師は、自分の霊力を利用することで事象を制御する。それは信仰を通して世界に呪術が承認されているからだ。人々がこうすればそうなると信じてきた観念、それが呪術体系として引き継がれてきたからで、呪術師は霊力を利用することでそこにアクセスしている」
ひとつ息を継ぎ、
「反対に、もしも霊力すら利用せず、仮に思考をするだけで事象を制御できるというなら……妖怪が持つ異界の内部を除けば、それはつまりその個人がそういうものだと世界に元々承認されているというわけで、そんなものは体質や性質の類になる。人間であるにも関わらず異種の能力を持っている……そういう存在を、俺たちの界隈では異能者と呼んでいる」
(……異能者! それもまた良い響きだ)
再び阿呆なことを考えている蓮の横で、「なるほど」と文太が呟いた。
そうして一度瞳を閉じてから、ウンと頷く。
「そういうことなら……たぶん、そういうことになるのかな」
それから友人たちの顔を見渡して、
「話の仕方とか色々と考えてみたけれど……そうだな。これに関してはもう、おれの生い立ちから説明したほうが早そうだ」
長くなるけれど時間は大丈夫かと聞かれるも、いささかの躊躇いもなく全員が頷いた。
文太は緊張気味の笑みを浮かべると、ひとつ息を吐いてから語りだす。
「――まずはおれさ、実はここの出身じゃなくてさ。十一の時に引っ越してきたんだ」
2
岐阜県某所の山間にある田舎村。
穏やかな時間の流れるそこが、文太の本来の故郷である。
赤沼町のように地方都市近郊というわけでもなく、麓の街までは自動車を二時間以上は走らせなければならないほどの僻地だった。
とはいえ、文太は別段そのことを疎んでいるわけでもなかった。
生まれた土地を、ただありのままに受け容れて生きていたし、それで充分だとする環境があった。
その村の辺境には深い森が広がっていた。
村との境が注連縄で区切られた、立ち入りの厳しく制限されている聖地だった。
その禁足地を管理している一族が神守家である。
村の名士である神守家は、ずっと古い時代からこの森を守り、奥に座す神霊を祀ってきたのだと伝えられている。
「ぜぇんぶ、神守さんのおかげやて」
神守家が担ってきた祭祀の御蔭で、地域一帯はこれまで安泰なのだと村の老人たちは信じている。
この神守家には本家のほかに分家があり、分家筋は守森と名乗っていた。
神守が聖地において一年に一度の祭祀を執り行うことに対し、守森はその他の期間、それら禁足地の守護を受け持つという役割を分担する。
西暦一九九五年十一月二十三日の深夜に、その守森家にて文太は生まれた。
千田は母方の旧姓である。
そして守森文太は、その生まれ持った類まれな特性によって「守森の寵児」と称された――。
「いいか、文太。父さんから勝手に離れちゃならんぞ」
齢六歳のとき、文太は初めて森に入ることを許される。
禁足地であるとはいえ、森に異常が発生していないかを確認する定期的な見廻りは必要だ。そしてそれは、本家より管理と守護を任されている守森家の使命であった。
彼ら分家の男子は、六歳から少しずつ親の見廻りに同行するようになる。ひとつの山を丸々に呑み込む広大な森は、幼い時分から歩かなければとてもではないが把握することが不可能である。
とくに深奥は磁場が歪んでおり、方位磁針などの道具が役に立たない。携帯電話の電波も届かぬ山地なので、遭難しないようにするためには先祖伝来の印を辿る道筋をひたすらに覚えるのみが方策だった。
……というのも聖地たる森には不思議が在り、その伝承される道標のほかには新たに目印を作ることができないのである。例えば行きしなに枝へ紐を結んだりしても、帰る頃にはどこにもそれが見当たらない。なにかしらの印を地べたに置いたとしても、鬱蒼と繁る草木が瞬く間に覆い隠してしまう。またいくら草葉を踏みつけても、気づけば元気に背を伸ばしている。森の中にはどういうわけか獣道すらないのだった。
森自体に手を加えることは山神様の怒りに触れる行為なため、枝を手折ったり、看板を立てたり、あるいは木に打ち付けたりすることもできない。
そういう事情なので、先の特別な道標を知らぬ者は、たとえ森に入ったとしても出ることができないとされている――事実として、この地域では行方不明者が出ると「森に呑まれたのだ」と語られることが間々あった。
守森家の見廻りは、そんな危険な森のなかを、記憶と経験、道標だけを頼りに歩かねばならない。
そして、――その最初の同行で、文太はひとり姿を消す。
ふと目を離した一瞬のうちにいなくなった息子を、残された父親は方々捜したが、一向に見つかる素振りがない。ひとまず応援を呼ばなければいけないと帰宅すれば、そこで、居間に転がって暢気にテレビを観る息子に会うのである。
「テレビの時間だって、おれはちゃんと父さんに言った」
それが息子の言い分であり、そしてなんの苦労もなく真っ直ぐに帰宅できた彼に、複雑な道順を辿り戻ってきた父親は唯々開いた口が塞がらなかった。
それからというもの、文太は度々にふらりと姿を消して、ひとり土まみれになって帰ってくるようになる。
聖地を遊び場にしているらしき彼を、しかし周囲は咎めなかった。彼も見廻りの義務を持つ守森の人間であるし、何よりも真っ先に気にするべき事柄が存在した為である。――けれど、どうしてあの森で迷わないのかと大人たちに聞かれても、その言い分こそが幼い文太には理解することが不能だった。
彼にとって神守の森は、どこまでも自宅の庭の延長でしかなかったのである。
「この子は森に愛されている」
いつからか文太はそのように囁かれ始めた。
親類一同が少年を特別視するようになり、その噂は神守本家や周辺の村人たちの耳にも入るほどだった。
快活で才能に溢れる少年は、彼を囲むすべての人間から愛された。
そして一年が経ち、二年が経ち、……やがて十歳を目前としたある夏の日に、文太は己の運命を翻弄する存在と出逢うことになる。
(三年十二月二十七日、加筆修正)
(四年四月二十五日、森の特殊性に関して加筆)
 




