第拾壱話 河童(三)
5
叫んだ蓮に最初に反応したのは、やはり文太だった。
「なんだって!」
飛び上がるようにして一も二もなく駆け寄った彼に、蓮は鈍痛の残る蟀谷を抑えながら指を差す。
「そっちから声が……」
言われるがまま柵の向こうへと視線を移したところで、他の三人も二人の横へと並び立つ。
彼らも指の先へと目を向けるが、しかし繁る木々の隙間から響くものは、ただ水の流れる音だけのように聞こえるのだった。
「え、なにも……」
陽菜が疑問符を浮かべるが、
「川か」
低く呟いた慧が、躊躇なく鉄柵へと脚を掛けた。そして一メートル程度の高さのそれを、「よっ」と一息で飛び越える。
「見てくる」
遊歩道から抜け出て保全林のなかへと侵入した彼がそう言って向けた背中に、
「おれも行く」
と文太が続く。彼にとっては肩程もある高さの柵を意外な器用さでよじ登って、これまたするりと木々の間に消えた。
葵はそんな彼らと、何故か唐突に体調を崩したらしい蓮とを躊躇うように交互に見やるが、
「気にせず行ってくれ」
そんな本人の言葉で、彼女もすぐ軽やかな身のこなしで柵を抜けた。
あっという間にその場は蓮と陽菜の二人のみが残されるかたちとなり、少女がひとり戸惑った様子で目を白黒とさせる。
蓮もひとつ、ふたつと息を整えると伏せていた顔を上げた。
先ほどの超能力染みた聴覚は既に手を離れ、人間相応の感覚へと戻っている。たった数秒程度の利用であったにも関わらず、どっと疲労感を覚えていた。
それが肉体的というよりかは精神的な面の類であると自覚していた蓮は、葵から遅れること十秒、「よし」と気合を入れてから若干によろめく足を前へと進めた。
「陽菜ちゃんは、ちょっとここで待っててね」
心細げな彼女に息苦しくなりながらもそう言い残し、段々と力の戻ってきた体で遊歩道の柵を乗り越える。
そうして改めて木々の向こうへと目を遣ったところで、今度は人間の耳にも明らかに怒号のような声が漏れてきた。
それは先行した友人たちのものであった。
びくりと陽菜が肩を跳ねさせる。
蓮は駆けようと慌てて踏み込むが、ちょうどそのとき、さらに悲鳴と――そして大木が倒壊したかのような轟音が響き渡った。
6
――最初は、ただのちょっとした悪戯心と冒険心だった。
自分はまだまだ遊び足りないのに「帰るぞ」と促す兄とその友人たちを、最後にすこしだけからかってやろう。明るいってことはまだ夕方じゃないんだし、このくらいの冒険はそれほど目くじらを立てられるものでもないだろう……。
そんな腹積もりで、友樹は帰り支度を進める彼らの目を盗み、そっとその場を離れたのだった。
「こっち行こ」
彼はまず、川に沿って南へと歩き始める。
すでに昼間に遊んでいたときに、そこより北側は大体の様子がわかっていた。
整備された水場から本来の姿へと戻っていく川に静かに興奮しながら進んでいくと、やがて橋の架かった場所に出る。
「吊り橋だ!」
目を輝かせて走り抜ければ、対岸にある遊具広場の前へと躍り出る。
年代の近い子供たちが遊んでいるそこに瞬間興味が惹かれるも、足を踏み出そうとしたところでそばの看板がふと目に入る。
「ここはセンター利用者のみ……」
残念そうな声で読み上げる。
「じゃあ、おれはだめか」
友樹は約束ごとを破るつもりはまったくなかった。
多少の悪戯はしても、兄になにか大きな迷惑が掛かるようなことはしない。そのくらいの分別はあった。
それになんだかんだと構ってくれる兄のことが、友樹は大好きだった。
父親代わりのつもりなのか、献身といえるほどのそれはある意味では重い愛情だったが、彼は妹ともども苦に思ったことは一度も無い。
ただひとつ兄に思うことがあるとすれば――。
昔は……今でもたまに、兄はまるで罪悪感に駆られているかのような顔をすることがある。
それがどのような事情からくるものなのか、友樹も陽菜も皆目に見当がつかなかった。
なにしろ二人が物心ついたころには、すでに文太はそんな表情を見せていた。大好きな兄が何に悩んでいるのかわからないことは、友樹と陽菜の心をも乱させる。
けれどそれも、最近は随分と良くなった。
高校に進学してしばらくした頃から、兄の表情は目に見えて明るくなった。それまでは空笑い染みていた笑みに、中身が伴うようになった。
だから友樹と陽菜は、その要因だろう彼の今の友人たちも大好きだった。
中学までは休日もずっと家にいた兄が、高校からは次第に友人たちと過ごすようになり、その一方でこうして自分たちに構うことも忘れない。
それまで家族にだけ傾いていた愛情が、そうして外と内とに分配されて、おそらくちょうど良い塩梅に安定しつつあった。
すこしだけ寂しい気持ちもあったが、兄がつらそうな顔をすることが明らかに少なくなったのだから、その一点だけで余りある満足を覚えていた。
我ながらよくできた弟だと友樹は思う。
そんなわけなので、たまにする、この程度の悪戯は許してほしいものだった。
「ここらへんで待とうかな」
辺りを見渡しながら呟く。
時計がないので詳しくはわからないが、そこそこに時間が経っていた感覚だった。
これ以降の道は林の奥へと続いてしまっていて、開けていたここまでと異なって見晴らしが悪い。
さすがに冒険はこの辺りで引き上げるのが良いだろう……。
そのようなことを思ったところで、友樹の視線は川辺へと注がれた。
ごろごろと転がる岩のなか、すこし深くなった川が音を立てて流れている。――多少の冒険心がくすぐられるし、迎えがくるまで時間も潰せそうだ。
「ちょうどいいや」
遊歩道のある堤防からトコトコと下りて、川端へと寄る。
水流のなかには友樹が一抱えもするほどの大きさの岩があちこちに顔を出している。岸辺には円くなった石がたくさん敷かれてある。
なんとはなしに拾った小ぶりな石を、川の奥へと投げてみた。
ゆるい放物線を描き、ボチャンと音と飛沫をあげて水が揺れる。
二度、三度とそれを繰り返してから、「ふう」と一仕事を終えたような息をついて、友樹は傍の岩に腰を下ろした。
足をぶらぶらとさせてから水へとつける。冷たい水が気持ちよかった。
そうして、すこしずつ赤くなってきた空を見上げていると、――ゴン、と重い音がすぐ横で鳴った。
「えっ」
驚いて振り向けば、岸辺に数多ある小石のなかに一つだけ濡れて黒くなった石が混ざっている。
どことなく見覚えのある形をしているそれは、
「おれが投げた石……?」
呟いたところで、続けてゴン。ゴン。と二つ目、三つ目の石が目の前で転がった。
濡れた石が三つ、元あった岸辺に戻ってきた。
見間違いでなければそれらは、まるで川のほうから投げ返されたかのようだった。
「えっ」
再びの声を上げて、友樹は思わず岩から飛び降りた。
ばしゃん、と音を立てて水が撥ねる。せっかく着替えたばかりのズボンが濡れてしまったが、もはやそんなことを気にしている余裕はない。
「だれ……」
何故ならば周囲に、彼のほかに人影はなかった。
ただただ岩の間を流れる川の音だけが響いている。
ほかには何も――鳥の鳴き声すら聞こえてこない。
吊り橋の下、その一時だけ奇妙な静けさが広がっていた。
背後の堤防を上がったすぐそこには遊具広場があって、先ほどにのぞいた際には十人程度の子供がいたはずだが、その声すらも漏れてこない。
ことこの段に至り、友樹の背筋をなんだか寒いものが駆け上がる。
一人きりでいることが、急激に心細くなっていく。
きょろきょろと周りを見渡すが、やはり、誰かがいるような気配はない。
それでも、もしもいるとするならば、それは――。
「……水のなか?」
震える声で友樹が川面を見下ろしたのと、その足元から毛むくじゃらの腕が伸びてきたのは、ほとんど同時だった。
7
遊歩道から離れ、川のほうへと一目散にやってきた慧が見たのは、数メートル先の谷底で激しく暴れる友樹であった。
川の水は深く激しくなっており、周囲はちょうど南北のエリアが別たれている中間の区間であるためにどこの道からも死角になっている。
「友樹くん!」
声を張り上げるが、聞こえているのかいないのかの判断すらつかない。
それにただ溺れているだけにしては、どうにも様子がおかしかった。
激しい川の水音に紛れてしまって途切れ途切れにしか洩れ聞こえないが、まるで、少年が笑い続けているような声がする。
(――尻子玉を抜かれるとな、ひとは笑いながら死ぬ)
昼間に友人が言っていた言葉が脳裏を過ぎて、すっと背筋が寒くなる。
慌てて目を凝らせば、――水しぶきの影に隠れて、それは在る。
おそらくは茶色い毛むくじゃらの何かが、幼い少年の身体を川底へと引きずり込もうとしていた。
「あれが河童……?」
両生類のような姿を思い浮かべていた慧は戸惑いの声を上げる。
――それはもっともな衝動であった。
河童と一概に述べたとき、たしかに現代においては大抵の場合、それは頭に皿を戴き甲羅を背負い、嘴を生やした両生類が如き姿で想像を得る。ところが今に目の前で友樹を襲っている存在は、赤茶けた毛深い腕の、獣染みた姿をもつ怪異であった。
余談であるが、現在のような河童のイメージが全国で共有されたのは近代以降のことである。それまでは各地域で呼称も異なれば姿も異なり、とくに静岡県をはじめとして一部の地域においてはしばしば川獺と同一視された。現今において本土から絶滅したとされる川獺もまた、かつては狐狸と並び、ひとを化かす代表的な獣と考えられていたものである。
そんな彼のもとに、後ろから文太が追いついた。
「友樹ィッ!!」
上がる悲鳴で、慧もすぐにハッとする。
河童がどうだと、そのようなことに気を取られている場合ではなかった。
どちらにせよ、一刻も早く少年を救出しなければならない。
慧は急いで川面まで下りられる道を探すが、ちょうど彼らのいる岸は崖のようなかたちに削られていて、木々の生える上部から水面までは目算で三メートル程度は高さがあった。
そのうえ川面はゴツゴツとした岩が無数に転がっていて、飛び降りたとしてまず無傷ではすまないだろうことは想像に難くない。怪我の程度によっては二次被害が起こりうる。
なんとか比較的安全に下りられる箇所が無いかと慌ただしく探しまわれば、遅れてやってきた葵が叫ぶ。
「ちょっと、流されてるわよッ!」
見れば、川の中央にいた少年はさらに下流の深みへと沈みつつあった。
もはや見間違えることのない怪異な腕がその腰元へとしがみ付いている――。
(まずい、友樹くんの体力がもう――)
察した慧は、こうなっては一か八かで飛び降りようと決意する。
そして岩の合間を目掛けて腰を曲げたところで、その横を走り抜ける影があった。
振り向くまでもなく、誰かがわかる。
「文太!?」
「ちょっと!?」
彼らの声を背後に、勢いよく空中へと跳んだ少年が怒号を上げる。
「――だからッ! 手を放せっつってんだァッ!!」
それは友人たちが一度も見たことのない、激しく憤怒に彩られた表情で――途端に周囲の森が騒々しく枝葉を鳴らし、頭上を夥しい鳥影が過ぎ去った。
ずっと静かだった草木の影から小獣や蟲の声が溢れかえる。
その変化に思わず見回す慧の隣で、文太を目で追っていた葵が悲鳴を上げる。目算を誤ったのだろうか、彼の飛び降りる先が明らかに水面ではなく、鋭角を剥き出しにした岩場だったのである。
「ああっ!」
次の瞬間には、予想通りに彼の身体は岩の上に転がり落ちた。
生々しい厭な音が響いたかと思えば、そのまま勢いを落とすことなく岩の向こう、水面の奥へと消えてしまった。
岩場には、削り取られた赤色の痕跡が残っている。
「そんな……」
動揺の声を漏らし、けれども同時、ふと視界の端に映り込んだ光景がある。
慧は呆けたように固まった。
河童が――逃げている。
「は?」
友樹に組み付いていた毛むくじゃらの何か、それがよそ見すらせずに下流へと向かって単身逃げている。
そして解放された少年はといえば、川の中央で兄に抱き着いて泣いていた。
傷一つない文太が、弟を抱きしめながら河童らしき獣を睨みつけている。
彼の視線から逃げるように泳ぐ怪異であるが、そこで唐突に響く異音があった。
パキパキと弾けるような強烈な怪音――その正体を慧たちが確かめるよりも、ずっと早くに事態は急転する。
森の声がより隆盛し、
――巨大な緑の腕が飛び出した。
背後の森から伸びたそれは慧と葵二人の傍らを過ぎ去り、激しい旋風を起こす。巻き上げられた枝葉が空間に舞い立ち、慌てて顔を庇った慧は腕の合間から始終を見た。
新緑に発光する巨人の腕は、川下へと逃げる河童を目指して真っ直ぐに迫る。
やがて獣は頭上を覆う掌を悲鳴と共に振り返り……。
刹那の後、轟音と共に地が揺れた。
激しい飛沫が上がり、数メートルの水柱が立つ。
空へと跳ねた雫が雨となって、そしてそれらが治まったとき、立ち現れた光景に慧は思わず呟いた。
「これは一体……」
唐突に出現した巨腕、目の前で河童を叩き潰したはずのそれは跡形もなく消え去っていた。
代わりに、――大木が一本倒れている。
慧たちのいる岸と川辺とを繋ぐようにして、只々倒木がひとつ若々しい枝葉を揺らしていた。……水底へ沈んだのか否か、河童の姿も今や何処にも見当たらない。
周囲であれ程に騒めいていた森も、いつのまにか元の静けさへと戻っている。
あとにはひたすらに泣き叫ぶ少年とその兄、橋ができあがった先の岸で呆然とする友人二人だけが佇んでいた。
慧と葵は水辺の文太を信じられぬものを見る目で凝視していて、当の少年は険しくなっていた顔を緩めると、決まり悪げに目を逸らす。
終わってみれば、すべてが一分間にも満たぬ時間であった。
「今の音はッ……あ。よかった、友樹くん無事だったんだね」
大きく遅れてから押っ取り刀でやってきた蓮がそんな風に安堵するまで、空気は冷たく硬いままだった。
8
一行は暗くなる前には帰途につくことができた。
泣きつかれて眠った友樹を背負った文太に先導されるかたちで、全員が住宅地の端を歩いている。
そうして千田家にたどり着いたのは午後五時半を過ぎた頃だった。
「ただいま」
古い平屋の扉を開けた文太が声を上げれば、奥から品のよさそうな老婆がやってきた。
「おかえりぃ。おや、お友達も一緒かい」
祖母に頷いた彼は背中の弟を見せながら、
「ちょっと皆で話す用事があって。夕飯はまだだからいいでしょ?……あと、友樹が疲れて寝ちゃってさ」
「はいはい、お布団の準備ね」
老婆は肯くと、玄関口の蓮たちに向かって「ゆっくりしていってね」と声を掛けてから廊下の奥へと引っ込んだ。さっさと靴を脱いだ陽菜が、その後を追う。
「どうも、お構いなく……」
祖母の背に挨拶する友人たちを振り返って、文太はやや硬い表情で笑った。
「それじゃあ、友樹を寝かせてくる。皆は先におれの部屋で待っててよ……大丈夫。ちゃんと事情を話すからさ」
そう言う彼のシャツは岩場で削られたときのままズタボロに穴が開いていたが、そこからのぞく肌は、やはり傷など一つもなかった。
第拾壱話 河童 /了。
○河童
現代において大抵の場合、それは頭に皿を戴き甲羅を背負い、嘴を生やした両生類が如き姿で想像を得る。ところが友樹を襲った河童は赤茶けた毛深い腕の、獣染みた姿をもつ怪異であった。化けた川獺の可能性がある。怒った文太によって退散させられる。
(三年十二月十一日、一部を加筆修正)
(三年十二月二十七日、加筆修正)
(四年七月十一日 あとがきにTIPS追加)




