第拾話 夢境(五)
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混乱の極みのなかにいる博司を見て、少女は呆れたような声を漏らす。
「もう、いつまで寝惚けとーと。ぐうたらせんで、さっさと着替えんしゃい」
そしてぐいと押し付けてくるものを見れば、白シャツと詰襟の学生服である。改めて顔を上げれば、少女もまた冬服だろう黒いセーラー服に身を包んでいた。
「先に行っとーね」
言うだけ言って部屋を出て行く彼女の背を見送って、最後に閉められた襖の音で正気に戻る。
「……えっ、ガチで何これ」
呟きながら抱えた服を見下ろす。博司の通う砂川中学はブレザーの制服なので、こうして学生服を手に持つのは初めてだった。襟元に見慣れない校章のバッジが輝いている。
振り向けば、やはり鏡に映っている人間も自分ではない……と、そこで畳の上に転がっている学生鞄に気がついた。
布団から飛び出すと中身を漁る。
「あった」
内ポケットの中から取り出した学生証を、博司はまじまじと眺めた。プラスチック製のケースに入ったその表面には素っ気ないゴシック体で「美山奏多」の名前が記されている。
印刷されている顔写真は純朴な印象を与える短髪の少年で、それは鏡面と同じ顔つきだった。
「福岡県立朝田中学校二年一組……平成二一年四月一日から翌年三月三一日まで有効……」
博司の視点からすると三年前の日付である。
「さっきのが柚葉さんだとすると……過去の世界?」
いや、と気がついた。
自分がつい先ほどまで居たはずの場所は夢の辻なのだ。
もしかして――と言葉が口を突いて出る。
「柚葉さんの、夢のなか?」
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いつまでもウジウジとしているわけにもいかないので、慣れない制服に着替えると学生鞄を脇に抱え、博司は恐る恐るといった様子で部屋を出た。
変色した板張りの廊下が続いている。
左手側を見やるとその向こうに玄関口が見えたので、ひとまず右手のほうへと歩き出す。
途中に置かれてある台の上の黒電話を物珍しげに眺めつつ進んでいくと、テレビのニュースだろう物音が漏れている場所があった。
たぶん此処だろうと見当をつけて引き戸を開ければ、果たして正解のようである。
日焼けした畳の中央に炬燵が出されてあって机上に朝食が並んでおり、居間の更に奥には木製の棚に乗ったブラウン管のテレビが点けられている。
そして早くも食事に手を付けていた少女が二人いた。
「おう、寝坊助じゃ。寝坊助じゃ」
柚葉ではないほうの少女が振り返るなり、愉快そうに口角を持ち上げた。
彼女は紅葉柄で染め抜かれた紅色の着物を纏っていて、博司には全く見覚えのない顔だった。濡れ烏のような色艶の長髪が腰を越えて畳の上に広がっている。
現在の柚葉と同じく博司と同年代に見える容姿だが、その話し方はどこか老人臭かった。
「えっと……」
「なんじゃ。まさか、おぬし師匠の顔を忘れたのか」
思わず指さしてから言葉に窮する彼に、その少女が変わらぬ上機嫌で語り掛ける。
「あの蜜月の日々を忘れたとは薄情者め……儂は悲しいぞ」
すると既に食事を終えたらしい柚葉が声を尖らせた。
「馬鹿しとらんで、奏多も早う食べんしゃい」
睨まれた博司が慌てて卓につくと、柚葉は少女のほうにも顔を向ける。
「鼎さんも乗らんでください」
「まあ、可愛い弟子じゃからな。こん位よかっちゃろ?」
「よかないです」
なにやら言い合っている二人を余所に、とりあえず炬燵の中へと入り込んだ博司は用意されている料理を前にして目を円くしていた。
焼き鮭の切り身に味噌汁、白米。ほかほかと湯気を立てている。
(もしかしてこれ、柚葉さんの手作りだったりして……)
思わず生唾を呑み込んでから箸を取る。そしてゆっくりと鮭の身を崩して口へと運ぶ。
けれど、一口食べてそこで固まってしまう。
見た目はとても美味しそうなのに、しかし一切の味がしなかった。食感も無いので、口に入れた途端に空気を噛んでいる気分となる。
(……やっぱり夢の中なんだ)
落胆と共に現状について再認識をする。
そうしながら、博司はまた箸を動かした。
(だけど、夢とはいえ柚葉さんの手料理だ)
食事を終えると、「遅刻する」と言う柚葉に急き立てられるようにして家を出る。
玄関口で靴を履きながら、博司は改めてこの家が広いということを実感していた。
一方で新たに気がついたこともあった。
この家には、先ほどの自分たちの他には全くとして人の気配が無い。――この美山奏多という少年は、まさかこの屋敷に一人暮らしなのだろうか。
博司と柚葉が玄関の格子戸を開けたところで、後ろを付いてきていた少女が上がり框の上で手を振った。
「よし、しっかりと勉学に励めよ」
その他人事な態度に、ようやく博司が振り返る。
「え、カナエさん……は学校行かないんですか」
言った途端に、なぜかぎょっとした雰囲気で空気が固まった。
もしかして触れてはいけない事情だったか――と博司も緊張を覚えたところで、当の本人が大口を開けて笑い声をあげた。
「まあ、たしかに儂の歳でも学ぶことはあるかもしれんな」
折角だ、どれ、儂も付いていくか……と続ける彼女に、呆れたように柚葉が言う。
「やめてください。大の大人が……みっともないです」
それに「え」と驚くのは博司である。
「大人って。カナエさんって何歳……」
「こら、女性ん歳ば聞きなしゃんな!」
柚葉が小声で小突くが、鼎は笑顔でそれを宥める。
「ええよ、柚葉。……しかし、それも忘れてしもうたのかな」
どう見ても十四五歳にしか見えない女は、そして気負うことなく言った。
「儂は今年で三十五じゃ」
口をあんぐりと開けた博司は、頭を下げる柚葉に腕を引っ張られる形で屋敷の外へと出た。門から出て姿が見えなくなる最後まで、鼎はにこにこと手を振っていた。
ちょうどその辺りで腕を解放され、博司は一歩、二歩と勢いそのままよろめく。
そうしたところで、すぐ目の前の塀にある「美山」の表札の横に手作り感満載の木札が立てかけられているのが目に入る。
達筆の墨書で、「祓い屋緋崎 営業中」とあった。
「これは……」
足を止めた彼の背を、ばしりと柚葉が平手した。
そのままグングンと押していく。
「ほらもう、とっとと行くばい」
「え、ちょっと、あの……」
戸惑う彼の声は全く耳に入らない様子だ。
周囲には田園が広がっていて、田舎道のずっと向こう側に遠く市街地の影があった。
「まったく、奏多どうしたと。ほんなこつに忘れとんごたーばい。これじゃあ、鼎さんに弟子入りしたことも、対価として居候させとうことすら忘れとーんやなか?」
ぺらぺら喋る柚葉だが、一方で博司も博司で、その背中に密着する体温に気がついてしまってどうしようもない。
「あっ――」
唐突に声を張り上げた柚葉が背中から離れ、ひらりと前方へ躍り出た。
後ろに手を組んで、下から覗き込むように身を傾ける。
「――まさか、幼馴染のうちん事も忘れとんやなかやろうね」
悪戯げに微笑むその顔に、博司の足が再び止まった。
自分でも顔が熱くなっていくのがわかり、それと同時に途方もない息苦しさに襲われる。
(全然、違う……)
目の前の少女は、三年後の――博司から見て現在の柚葉とは、まるっきりに印象が異なっていた。
彼が一目惚れした、あの硬く引き締められた凛々しさは欠片も無く、ふわりとした快活さだけがその笑みだ。
中学生の頃の彼女は、こんなにも少女だったのか――。
仮にこの世界が柚葉の夢であり記憶であるとして、こうして意中の人物の知らない一面を知ることが出来た事に対しては純粋に嬉しさがあった。
けれど彼女の過去にこれ程まで気を許した男性がいたというその事実は、どうしても博司の胸に鈍痛を与えるばかりなのだった。
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「……何処だ、ここ」
ひどい頭痛に苛まれながら蓮は意識を取り戻した。
蟀谷を抑えながら上体を起こす。辺りを見渡せば、そこは見知らぬ市街地であった。
歩道橋すら渡っている二車線の公道、十字路になっているそのど真ん中に彼は寝転がっていた。
「危ねェッ」
慌てて立ち上がる蓮だったが、飛び起きたところで周囲の異様さに気がついた。
車がひとつも走っていないのである。
それどころか、歩道や店舗など見える範囲の場所に自分以外の人間が人っ子一人見当たらない。
「……えっと」
青く澄み切った空を仰げば、太陽は中天近くまで昇っている。
視線を戻すと再び周りを見回した。
深夜や早朝ならばいざ知らず、こんな白昼に広がるべき光景ではなかった。
うーんと首を傾げたところで、
「痛ッ……」
鋭い痛みに顔をしかめた。
頭を抱えたまま、ひとまず歩道のほうへとふらつきながらも歩みを進める。
なんとかガードレールを乗り越えて、街路樹の根元へ腰を下ろした。そこでしばらく息を整える。
「……たしか、夢の辻へ行く途中で何かに呑み込まれたんだっけ」
記憶を辿れば、すぐに事情も推測されてゆく。
自分の格好を見下ろせば依然として長襦袢に裸足であり、変わらず夢境に居るのだろうことは理解できた。
「知らない街ってことは僕の夢じゃない。あのナニカに流されて……もしかすると誰かの夢の中へと紛れ込んじゃったのかな」
ふと目の前のショーウィンドウに映り込む自分の顔が目に入った。すっかりと血の気が引いていて、見るからに具合が悪そうな面相である。
「この頭痛は、何だろう。あのナニカ……黒い怪異の仕業だろうか」
そういえば白夜はそれを指して、ツジガミに近いと言っていたな……と蓮は思い出した。
辻神といえば淡路島や屋久島などで語られる怪異で、辻で出遭うという魔物である。人に不幸や災厄を齎すとされているのだが、なるほど確かに考えてみれば、辻占の神と同じく辻に出没する存在だった。
そんなものに呑み込まれて夢路を何処へともなく流された、というわけなのだから蓮の体調が悪いというのも、もしやすればその影響かもしれない。
「とにかく、どうかして帰り道を探さないと……」
此処が誰かの夢の中だというなら、それは人間の持つ異界というわけで蓮が見たがっていたものに違いないのだが、こうも頭が痛いとなると楽しもうとする気分にはなれない。
はやく帰って眠りたい。……いや、現在が眠っている状態なのか。――などと仕様もないことを考えながら立ちあがったところで、視界の隅で動く何かが通り過ぎた。
「お」
ハッと目を遣れば、黒い影のようなものが通りの向こうを曲がって消える。
「……よし、追いかけよう」
蓮はひとつ息を吐いて、力の入り切らない足をそちらへ向けた。




