第拾話 夢境(四)
10
気がつけば、博司は再びの路地に立っていた。
遠くが白く霞で覆われた、前と後ろに延々と続く道である。
「……よし」
ひとつ頷いて、そのまま前方へと進みだす。
そこからしばらくは変わらぬ光景が続いた。霞に覆われた一本道を、只々ひとりで歩いていく。
辺りは不気味なほどの静寂で満たされていた。
以前は気づかなかったのか覚えていなかったが、足元が朝露で濡れている。
そして気温が低い。
博司の格好というとこちらも前と変わらず寝間着に裸足である。冷えた路面を踏みしめていくごとに、服の生地も霞を吸って重く冷たくなっていく。
とにかく寒かった。
(おかしいな。前もこんなに寒かったっけ)
首を傾げるも、夢中の脳髄はどこか霧が掛かったように漠然と鈍くなっていて働かない。
辺りを覆う白色も、なんだか昨晩より深く濃くなっている感覚がした。
なんとなく不安な思いが胸の片隅に湧くも、だからといって他にどうするということもできない。
とにかく、歩き続けるしかなかった。
そうしているうちに、やがて目前に十字路が現れる。
所々を霞が漂う、その四つ辻こそが彼の目的とする場所である。
道中に心細くなっていたからか、きちんと辿り着いたことに安堵した。
「さてと」
漏れた吐息が白くなって消えた。
ぶるりと身体を震わせてから、博司は問いかける願いを心に描く。
(あのひとの事を、もっと知りたい――)
そのまま昨晩と同じように瞳を閉じれば、途端に彼を囲む世界が一変する。
騒々しい雑踏の音が溢れかえり、次々に耳朶を打つ。
けれどそれらを聞いて――待ち構えていたはずの博司は大きく肩を震わせた。
彼の背筋その奥深くを、瞬間に悪寒が走り登る。
(なにか、おかしいッ……)
前回とは異なって、確かに足音だと判断できる尋常なものは殆ど聞こえなかった。
ぬちゃり、くちゃり……。
粘質な何かが、群体を為して移動している。
海底を魚が回遊するように、夢の辻を四方から何かが這いずり回って満たしている。
博司が立っている側の路地も勿論それらが蠢いていて、彼の耳のすぐ傍で液体が泡立つような奇妙な音で呼気を漏らす。
触手のような何かがヌラヌラと彼の腕や脚を撫ぜて、――それらの音と感触は、揃って生理的な嫌悪を少年に抱かせた。
全身の毛が逆立って、全ての関節が硬直する。
立ち尽くしたままの博司は、漂白された思考のなかでひたすら嫌悪感に耐えていた。
一帯がすべて同様の音で満たされているからか、辻占の神とやらが運ぶという返答の囁きはいくら待ってもやってこない。
(どうする、どうすれば……)
瞳を閉じたまま、動けない。
あるいは瞼を上げればこれらの気配は消えるのかもしれない――そんなことも思ったが、もしも気配が消えず、逆にその正体を見てしまったときはどうなるのか。
音と感触だけでこれほどに精神を掻き乱すそれらが、正常な、直視に耐える姿をしているとはとてもではないが思えなかった。
悲鳴を上げない自信がない。
もしも悲鳴を上げたら、どうなるのだろう。
自分がいま無事なのは、ただ単純に気づかれていない、あるいは彼らの気分を害していないというだけなのではないか……。
そんな妄想を真実味のある懸念として思い浮かべる程度には、周囲の存在は正邪でいえば明らかに後者で違いないと博司は直感していた。
(……夢路占いの終わらせ方を、そういえば俺は聞いてない)
血の気の引いていく頭は、やはり夢の中だからかどこか回転が鈍い。
彼が知る「夢路占い」とは、呪文を紙に書いて枕に敷いて、夢の辻で願いを思うというそれだけの情報で完結している。
そこに中断する手段や、中断した場合の影響などは全く含まれていなかった。
このような事態に陥ったときは、どうすればいいのか……。
重い思考はぐるぐると同じ場所に留まって、考えは一向にまとまらない。
凝り固まった頭は、やがて諦観と絶望の色に染まっていく。
(――柚葉さんっ……)
いつしか恩人の顔を思い浮かべていた。
先月末にも、理不尽な存在から自分の命を救ってくれた年上の少女。
長い黒髪を後ろで束ねている、すらりと背筋を伸ばした、狐を連れた美麗の人……。
ここ暫くずっと探し続け、そして本日になってようやく知ることのできたその名前を胸の底で呼んでいた。
物静かな彼女の、けれど熱のちらつく瞳を思い出す。
初めて出逢ったとき、その眼差しに彼は強く惹かれたのだった。
(嗚呼、柚葉さんっ――)
このまま、もう二度と逢えないのかもしれない――そんな少女の顔を必死になって想起する。
もしもここで死ぬ定めというならば、もっとはやく出逢いたかった。
たった二度の邂逅だけでこれほど深く心を揺さぶられた経験など、彼の短い半生に今の今までは存在していなかった。
『恋は麻疹というけれどさ、君の場合はその一目惚れって吊り橋効果みたいなものだったりしないかい』
二週間前に相談したときの友人の言葉が頭を過ぎったが、ここに至って博司は確信を得ていた。
たぶん、これは違う。本物の恋だ――。
(……嗚呼、柚葉さんのことをもっと知りたかった)
意図せずして、最初に問いかけた際と同じ願いを思い描く。
そのときだった。
ざわり、と周囲の気配が一際大きく蠢いた。
粘液が後を引くような悍ましい音が断続的に響き渡り、
「――、――、――」
耳元で何かが囁いたと共に、触手のような感触がひとところに集塊して津波となった。
「え、――」
思わず声を漏らした博司をその内に呑み込んで、それらは何処かへと向かって流れ込む――。
11
「へえ、ここが夢の世界……夢境の入口かあ」
白く靄のかかった景色を眺めて、そんな暢気な声をこぼすのは蓮だった。
何処とも知れない路地である。
先刻に剣王鬼が着替えたものと同じ長襦袢に裸足といった格好で蓮は道端に立っていた。
現実の肉体と同じ格好というわけか……と瞬間に思った彼だったが、そのわりにはなぜか剣王鬼は掛けていないはずの眼鏡が顔にある。
まあ、どうでもいいかと気を取り直して改めて辺りを眺めていく。
全体として古臭い印象の道だった。
足元は剥き出しの土であり、左右に並ぶ塀も木造の古めかしいものである。
前後をくるくると見回して、「へえ」とか「ほお」とか声を上げていると、すぐ横から冷たい声が投げられる。
「呆けてないで、さっさと往きましょう」
そちらに振り返って、思わず蓮は「おわっ」と素っ頓狂な叫びを上げて仰け反った。
そうしてから、
「え、……もしかして白夜さん?」
目を円くして尋ねる蓮に、白髪の少女が鼻を鳴らした。
「ほかに誰がいるのかしら」
「……いや、でもそれ」
ずり落ちた眼鏡を直しながらも、蓮はひたすらに戸惑った声を出す。
彼の知っている白夜とは、二又に別れた尾を持つ白い毛並みの化け猫だ。
そうであるのに、現在に目の前に立っているのは少女である。
幼さの残る顔立ちは端正だが、その眼差しは鋭く蓮を睨んでいた。
切り揃えられた白髪は俗にいうおかっぱで、小柄な体を桜色の着物で飾っている。
年のころは高く見積もっても蓮と同年代くらいにしか見えないが、声は艶のある大人の女性で、それはたしかに蓮が聞き覚えている白夜と同じものだった。
「あ」
そこまで確認したところで、呆然としていた蓮の目がようやく彼女の頭頂と腰にあるものに気がついた。
白髪のなか紛れるようにして白い毛並みの猫耳が生えている。腰元にも目を遣れば白い尾が二本揺れているし、改めてよくよく見てみれば、黄色い瞳も獣のそれである。
「リアル猫耳っ娘だ……」
呟く蓮に嘆息すると、白夜はそのまま背を向けて歩き出した。
正気に戻った蓮が慌てて追いかける。
「ちょっと待って、置いてかないでよ」
少し駆けて横へと並び、しばし会話のない歩行が続いた。
そんな沈んだ空気の中でも蓮はやはり、どうしても隣の頭部にある獣の耳が気になってくる。
遠慮することなくしげしげと眺めていると。
「じろじろ見ないでくれる」
「す、すみません」
刃物のような視線に首を竦める。
それでも、気になるものは気になるのだ。蓮は気になることは放置できない性分である。
「あの……それで、なんで白夜さんはそんな姿なんです」
懲りずに問いかける蓮に、白夜は数拍置いてから諦めたように溜め息を吐いた。
じろりと再び蓮を睨む。
「たしか、坊やは夢境と異界の関係について知ってたわね」
「ああ、うん。剣王鬼に聞いて……」
「言ってみなさい」
促され、蓮は「ええと」と記憶を探る。
「たしか、ひとそれぞれに見ている世界は違う。世界とは、個々の精神が鏡となって初めて認識されるから……。自分と異なる他人の精神が映す世界は、当たり前に自分の世界とは異なる世界であって、だから他者の心とか夢、その精神のなかへと迷い込んだとき、人はそこを異界だと認識するのだ――だっけ」
たどたどしくも述べる彼に頷くと、
「その通り。だからこそ、夢境では自分の世界……自分の精神の姿が強く影響する。わたしの姿もそれ」
白夜は周囲を見渡して続けた。
「とくに此処は夢境の中でもそれらが交わる場所……個と郡との境界、その入口だからね」
蓮もつられて見回して、「はあ」と呆けた声を漏らした。
白夜は道の先を指さすと、
「この道は坊やの夢から外へと伸びている。夢路占いとやらが、これらの道が交わる場所で行っているなら……もう少しだけ先ね」
「なるほど」
分かったような、分かっていないような声音で頷く蓮を呆れたように眺めてから、白夜はひとつ嘆息する。
そして前へと向き直って、そこで突然に歩みを止めた。
「止まりなさい」
鋭い声に蓮が横を見れば、彼女は一層の厳しい顔つきで前方を睨んでいる。
「何かおかしいわ。あれは、まさか……」
白夜がそうこぼしたところで、蓮の視界が唐突に揺れた。――否、足元が揺れていた。
地面がぐらぐらと縦に横にと震え出し、二人は転がるようにして倒れ込む。
「じ、地震ッ!?」
慌てる蓮だが、直ぐに「違う」と白夜が否定する。
「前を見なさい。夢の辻から……なにか来る」
言われて顔を上げれば、蓮のすぐ前方、その向こうから黒々とした何かが押し寄せてきていた。
不明瞭な闇の群体が道を呑み込み、塀を圧し潰しながら此方へと迫っている。
「え、何あれ!?」
騒ぐ蓮の隣で白夜がすっくと立ち上がる。
路面は変わらずの大揺れだったが、さすがは猫というべき身体感覚のようだった。
「わからないけれど、……たぶん良くないモノの塊ね。辻神に近い……辻占の神を呼び出すはずが、誰かが間違えたのかしら」
そしてそれだけ言うと、ひとり後方へと走り出した。
「え!? あの、白夜さん! 僕は!?」
叫ぶ蓮に、ちらりと瞬間だけ少女が振り返る。
にっこりとした綺麗な笑みだった。
「――まさか」
察した蓮に彼女は告げる。
「気張りなさい」
「このクソ猫ォ!」
次の瞬間、倒れたままの蓮を黒い津波が呑み込んだ。
12
明るい陽光が顔を照らし、その明るさに博司は意識を取り戻した。
畳の上に敷かれた布団に彼は寝転がっていた。
掛布団にくるまったままでぐるりと寝返りを打って、枕の上で寝惚け眼をぱちぱちとさせる。
「朝……?」
夢の辻で気持ち悪い何かに押し流されたところまでは覚えていた。
なんとか無事に戻ることができたのだろうか……そう思ったところでハッとする。
博司の部屋は畳ではなくフローリングの床で、敷布団でもなくベッドである。
がばりと起き上がったところで、すぐ目の前に誰かが立っていることにようやく気がついた。
見知らぬ部屋のなか、窓際でカーテンを束ねていた少女が振り返る。
刹那の間を置いて、彼女を見上げる博司の胸が大きく高鳴った。
「え――」
博司と同年代だろう彼女は、その玲瓏な顔にくすりと笑みを浮かべる。セミロングの黒髪がふわりと揺れた。
「おはよう、奏多」
優しげに知らぬ名前を言うその少女は、どう見ても中学生で――けれどその面影は見間違えるわけがない。
「……柚葉さん?」
呆然と呟いてから、そこで博司は部屋の隅に置かれた姿見にふと気がついた。
鏡面に映っているはずの自分は――布団の上で間抜けな表情を晒す少年の顔は、彼の知らない人間だった。
 




