第拾話 夢境(二)
3
その日の晩である。
博司は自室のベッドに寝転がり、クラスメイトから渡された紙きれを目の前へと持ち上げた。天井にある蛍光灯の明かりが遮られ、少年の顔に小さな影が落ちる。
「夢路占い、ねえ」
そうして口から零れたのはとても胡散臭げな声音だった。
物心ついてからこちら十四年の記憶をさらってみるが、占いなどというものに頼ろうとした経験は一度もない。
(そりゃ、女子は占いとか好きだろうけど)
ふと脳裏に昼の会話が呼び起こされる。
「ユメジ……てのは知らんけど、辻占なら俺も聞いたことあるぜ」
紅生姜のような色から生来の黒髪へと戻った恭弥より、意外なことにそのような言葉が飛び出したのだった。
「いつだっけな、姉ちゃんがハマってたことがある」
そう言って、彼は降りている前髪を鬱陶しそうに掻き上げた。
「たしか辻……ってのはさ、境界なんだってよ。道と道が交差している狭間の空間で、そこは人間以外にも神サマだとか霊だとかが行き交っているんだと。……ほら実際にさ、交差点っていえばわりと地蔵があるもんだろ。で、そういう神秘的な場所だからこそ、辻占のカミサマってのがふさわしい言葉を拾ってきて耳に届けてくれる……だとかなんだとか」
眉を顰めつつも滑らかな説明だった。星矢が「詳しいじゃん」と揶揄うが「うっせ」と一蹴される。
「とにかく、辻占ってのはそういうもんらしいぜ。……考えてみりゃあ夢ってのも辻と同じ境界ってやつじゃねえのかな。夢枕に先祖の霊がーとか、観音サマのお告げがーとか、よく昔話で聞くしな。そんな夢ん中で更に辻占までしようってんだから、たしかに効果高そうな雰囲気するわ」
「やっぱり詳しいじゃん」
「俺じゃなくて姉ちゃんがオタクなんだよ」
そんなやり取りを、椅子に座ったまま「へえ」と聞き流していたのが博司だった。
所詮は与太話である。
呪文の書かれた紙を受け取ったは受け取ったが、結局日が出ている間は然程気にすることがなかった。しかし夜、いざ寝る段になってみると途端に意識が行くというのも思春期特有の情動だった。
「……ま、やるだけやってみるか」
ひとり呟いて、「よし」と飛び起きる。小学生の頃から使用している学習机に向かえば、ルーズリーフのノートからページを一枚抜き取った。
貰ったメモ用紙を横に並べてボールペンの頭をカチリと押す。
「ええと、……なんて読むんだ。ゴ……われ? 吾おもふことの叶や否やをうらなふ――かな」
最初のその一文は彼にも意味が分かる。おそらくは、これから占いをするぞという宣言だろう。けれどそれ以降の文に関してはとんと理解が及ばなかった。
「うらの一の辻ってなんだよ。うらまさしかれ……?」
博司は首を傾げながらも手を動かし始める。
吾おもふことの叶や否やをうらなふ辻や辻四辻かうらの一の辻ゆめの辻うらまさしかれ辻うらの神――。
その文言を三度に渡って書き写した。
「あとは枕の下に入れる、と」
紙はA4サイズなのでそのままでは少し大きい。折るかどうか一瞬だけ考えた後、博司は呪文の書いた部分だけを切り取ると、ルーズリーフの切れ端を愛用している枕の底へと敷いた。
ちょうどそこで母親が部屋に顔を出す。
「あんた、いつまで起きてるの」
「もう寝るよ」
本当かしら、と言い残して去っていく背中に肩を竦めると、博司は頭上から下がっている電灯の紐へと手を伸ばした。
4
博司は見覚えのない路地に立っていた。
「あれ、ここは……」
寝起きのようなぼんやりとした心持ちで見回せば、すぐ足元に紙が落ちていることに気がつく。
拾ってみれば、それは自分の字でなにか書いてある。
「吾おもふことの……」
目を滑らせていくうちに、途端に意識がはっきりとなってくる。
「――あ、そうだった。夢路占い」
思い出した博司は改めて辺りを見渡した。
彼の格好は寝たときのままで、寝間着代わりのジャージに裸足だった。
足元はアスファルトで舗装されており、道の両脇には民家の塀が続いている。塀はコンクリートブロックだったり生垣だったりするものの玄関口や家々の間などの隙間がひとつも見当たらず、ただひたすら道に沿って真っ直ぐと延びていた。
身の回りはよく見えるものの、遠くの方は白い霧に覆われていて見通せない。全体は仄かに明るいといった感覚で、まるで早朝のような空気だった。
なんとなく振り返れば同様の道が後方にも続いている。
(こっちから来たんだ)
ふと、そう確信した。
理由なぞはなかったが、夢の中なのだから直感したことが全てだろうと考えていた。
「じゃあ、あっちか」
白く隠れた前方を睨むと、少しだけ逡巡したのち一歩を踏み出した。……
変わり映えしない光景をしばらく進み、やがて他三本の道と交差する場所に出る。
四つ辻だ、と博司は思った。
「……ここが夢の辻」
零れた声が、静かな空間に溶けてゆく。どこか余所余所しい響きだった。
(占いたいことを思い浮かべるんだっけ)
そう思うも、寂しげな十字路には彼の他には人っ子一人としていない。これでは声を拾うどころの話ではないのではなかろうか。……そもそも考えてみれば、自分の夢に自分以外がいるというのもぞっとしない話である。
そこでようやく博司は夢路占いなど関係なしに、ただ話題に影響されただけの夢を見ているという可能性に思い当たった。
(たしか明晰夢っていうんだよな)
枕の底に敷いた呪文が効いたという可能性よりはずっと信じられる話だ。どことなく身構えていた力が抜けて、ほっと安堵の息が漏れた。
とはいえ折角おあつらえ向きの夢なのだ。
ないとは思うが、最後まで夢路占いの話に則ってみよう。
(またあのひとに逢えますか)
心の内でそう問いかける。
脳裏に過ぎるのは夕焼けに染まった光景だった。現在にいるような住宅街の路地ではなく、もっと猥雑としたテナントビルの合間の暗い路地――地面に転がるゴミと血に自分。そして見上げた先で燃え上がる焔の柱……それを見つめる端正な横顔。
思い出に耽りながらそっと目を閉じたところで、博司は思わず息を呑んだ。
――視界を封じたその途端、周囲に気配が溢れかえる。
先ほどまで気味が悪いくらいに静まり返っていた十字路が、今や大勢の何者かが行き交う音で混雑していた。
衣擦れ、足音、息遣い……。一人二人どころの話ではない。少なくとも十数人はいるだろう。
それも音はそれぞれ一種類ではない。足音は靴や下駄のようなものもあれば裸足のようなものもあり、杖を突くものや装飾品が金属音を立てているものもいる。人間のような呼吸音もあれば、まるで獣だとしか思えない息すらある。
それらが全て、まるで音が爆発したかのように唐突に出現していた。
(な、あ……)
硬直する博司の耳へと、そして囁くような言葉が飛び入った。
「――四時――三高――前――」
ハッとして瞳を開くと、暗い天井が広がっている。
身を起こせばそこは慣れ親しんだ自室だった。
時計が示すのは午前五時。カーテンの向こうが薄らと明るくなっていた。
5
「それで今から三高に行くってわけか」
黒髪の恭弥が呆れたとばかりに声を張り上げた。
「う、うるせえな」
頬を染めて力なく反発するのは博司である。
「いやあ、昨日は占いなんて信じるかって豪語していた博司がねえ。いやあ、まさに恋は盲目というやつかい」
星矢もやれやれと首を振っている。井戸端会議の奥様がごとく「いやあ」を繰り返しているというのに、その爽やかさは少しも損なわれていなかった。
時刻は午後四時前である。
水曜日なので部活がない友人二人を引き連れて、博司は馴染みのない住宅地を歩いていた。
「俺だって半信半疑だし。揶揄うならついてくんなよ」
「……いや、ここまで来たんだし行くよ」
「うん。三高も一応は受験するかもだしね」
悪びれない二人に博司は嘆息した。
一行の向かう先は三浜市立第三高校である。砂川町と赤沼町の境にあるこの高校までは、途中で一度市内バスに乗る程度には彼らが通う砂川中学校の学区から離れていた。
夢の中で「サンコウ」という言葉を聞いたとき、真っ先に博司が思い浮かべたのがこの第三高校こと通称三高であった。
「四時に三高の前か……ということはさ、博司の想い人は三高生?」
「でも前のときは見覚えのない制服だったんでしょ。転校でもしてきたのかな」
「いや、前はコスプレしていたって線もある」
「ええ、それはさすがに」
「いやいや、充分あり得るぜ。なんたって祓い屋ナントカらしいからなあ。コスプレじゃなくてもさ、ゲームやマンガでよくあるみたいに仕事専用の装束だったのかもしれん……」
「セーラー服が?」
「セーラー服が」
馬鹿な会話を広げる悪友たちを背に、博司は努めてそれらの言葉を耳へ入れなかった。
そのうちに三人はとうとう第三高校の前までやってくる。
密集していた住宅がまばらになり、代わりに水田や畑、そして大きな敷地が現れた。
「思ったよりは校舎キレイだな」
「もう四時だけど、この感じだとまだ授業中みたいだね。部活してる人もいないや」
閉じている校門の前で鉄柵の合間から内側を覗くが、見える範囲に学生の姿はない。終始して暢気な様子の二人の横で、博司だけが落ち着かなそうにそわそわとしていた。
「まあ、四時何分かは分からないしな。道の向かいでしばらく待ってようぜ」
言う恭弥に皆が同意した。
国道を渡り、向かい側にある無人精米機が作っている日陰へと揃って避難する。
「しかし暑いね。近くにコンビニとかないかな」
「ちょっとなさそうな感じだなあ」
二人は各々にスクールバッグから水筒を取り出すが、それを余所に博司はただジッと道の向こう側を眺めていた。
「おまえも水分忘れるなよ」と注意する声にも生返事である。
恭弥と星矢は顔を見合わせると肩を竦めた。
やがて四時半を過ぎたところで校門が開き、ぞろぞろと制服姿の少年少女が現れる。
「お、ついにだ」
待つことに飽き始めていた恭弥が色めき立つ。
「さて、占いは当たるかな」
星矢も読んでいた文庫本を閉じて腰を上げる。
一方で博司もまた三人の中では最も早く飛び上がるように立ち上がっていた。
下校途中の高校生たちのうちで何人かが道の向かい側から視線を寄こす中学生に気がついて不審そうに、あるいは好奇心を刺激された様子で眺めてくる。
それらに友人二人が居心地の悪そうな顔をし始めたところで博司が「あッ」と声を上げた。――友人同士だろうか、男子三人に女子二人のグループがちょうど校門へと差し掛かっていた。




