第弐話 侵蝕(一)
1
ふと目覚めると、渡辺蓮は布団の中にいた。がばりと起き上がれば、そこは家の自室である。
「あ、れ……?」
毎朝の目覚めで見慣れた景色のはずだったが、しかし蓮は違和感を覚えて首を傾げる。
「僕は、たしか……ッ」
なにかを思い出そうとしたところで、頭痛が走る。咄嗟に額を押さえたところで、脳裏を昨日の記憶が次々に過ぎってゆく。
「あ、ああ……そうだ、僕は――」
身体ごと、声が震える。
異様な女怪に殺されそうになった辺りまでを思い出し、しかし……そこから先がどうにもあやふやだった。
なにか声を聞いた覚えがある気もするが、……それ以前に、この記憶が事実であったならば、現状は明らかにおかしな事態である。
――あのままであったならば、まず自身は死んでいるはずであった。
「夢……だったのか?」
身体を見下ろす。折れ曲がっていたはずの腕や、千切れ飛んだはずの脚まですべてに傷一つ存在しない。五体満足の身体がそこにはあった。
そのまま、念のために頬をつねる。
「痛い……現実、ということは夢……」
そう呟きながらも、腹の底の方では一向に納得しない自分がいた。
――本当に?
だって、なぜならば昨日の記憶はあまりにも鮮明で、リアルだった。
「いや、でも……そうだな」
だが、それら内側の声を敢えて無視する形で蓮は声に出す。
「夢だったんだ。……あんなことは、ありえない」
そうして息を吐いたところで、唐突に気が付く。
昨日が日曜日で、一晩経って今が朝ということは……。
「――学校!」
慌てて枕元の時計をひっつかむが、時針は九時を過ぎている。すでに一時限目が始まっている時刻であった。
「やべえ!」
慌てた様子でベッドから転げ落ち――そこでようやく、相棒たる眼鏡が見当たらないことに気が付いた。
「あれ、失くした? どこいった!?」
掛布団をひっくり返すも、普段のように出てはこない。
「あー、いや、時間……仕方ねえ!」
蓮は予備の眼鏡を棚から引っ張り出すと、慣れた手早さで寝間着から学生服へと着替え、洗面所へと直行した。
そうして最低限度の支度だけ整え、朝食も取らずに、そのまま慌ただしく家を出るのだった。
2
昼休憩のチャイム放送が鳴り響くと、途端に三浜市立第三高校の各所は息を吹き返したように喧噪に包まれた。
二年三組の教室も例外ではなく、四時限目を担当した数学教師がまだ退散するかしないかの内から騒めき始める。
生徒らが思い思いに会話を始め、その内の多くの者は昼食の弁当箱を取り出すか、友人と連れ立って購買部へと道を急ぐ。
「しかし蓮が遅刻とは、珍しかったな」
不死川慧が机を寄せながらそう言った。声を掛けられた当の本人は、己の机にて突っ伏している。
そうしたままで、蓮は覇気のない声を出した。
「なんかさ、変な夢を見たみたいでね……」
「変な夢?」
復唱する慧に、蓮は肯く。
そこに新たな声が参入した。
「なんの話?」
自身の座席から椅子と弁当だけ持ってきた小柄な少年が、机を並べた二人の中に割って入る。蓮と慧もごく自然にそれを受け入れる。
千田文太。彼らの共通の友人であった。同じ部活動と、そしてある集りの仲間でもある。
明るいくせ毛に、元気のよい朗らかな態度。交流が広く、誰とでも仲良く話せる彼はムードメイカーの才能を持っていた。
「蓮の大遅刻の話」
「ああ」
慧の言葉に頷くと、からかうような声音で文太は言った。
「長谷セン、激おこだったね」
長谷というのは生徒指導の教員のことで、非常に厳しいことで有名である。
今朝に蓮がなんとか登校したときには、すでに二時限目が始まっていたうえ、校門は施錠されていた。これほどの大遅刻をやらかした経験のない蓮は咄嗟に対処がわからず、しょうがなく裏門そばの柵をよじ登って侵入したのだが、その現場を、あろうことか長谷教員に見つかったのが運の尽きであった。
結果として蓮は、三時限目と次の休憩時間ぎりぎりまで、生徒指導室で説教と反省文を相手に格闘することとなった。
「守衛さん探して開けてもらえばよかったのに」
そう言うのは慧である。
文太は「アホだねえ」と言って、笑った。
ぐうの音も出ない蓮は、ただ突っ伏したまま恥辱に耐えるしかない。
「……だって、焦っていたんだ」
言い訳がましくそう呟きながら、蓮はもう忘れようと思考を切り替える。
なにか別のことを考えようとした彼の耳に、ふと姦しい声が飛び込んだ。
「あっ、“陛下”出てる!」
「え……ほんとだ、朝仁さま!」
腕の合間から顔を上げれば、教室の中心で数人の女子生徒がスマートフォンを片手に、きゃいきゃいと騒いでいる。小さな端末の画面には、おそらく昼のニュース速報が流れていた。
蓮の視線に気づいた文太が呆れたような声を出す。
「仮にも天皇が、ありゃまるでアイドルだな」
彼の言うように、朝仁というのは今上天皇のことだった。遡ること二十四年前、前天皇の崩御に伴って弱冠二十歳の若さで戴冠した、平成時代の天皇である。
本来ならば、おそらく戦争を経験していない平成の若者にとっては、政治的に形骸化した天皇という存在はそれほど印象に残るものではないはずだったが、この朝仁という男は従来の時代とは異なる側面で国民の関心を寄せていた。
美貌である。
朝仁は幼い頃から「ハッとするほどの美男子」として有名であり、そして二〇一二年現在、実年齢は四十四歳であるにも関わらず、まるで二十代のままに時を停めたかのような若々しさを保っていた。
皇族という身分に加えてのその容姿は、とりわけ若い女性の人気を大きく集め、まるで男性アイドルであるかのようにファンダムが形成されているのが現実である。
少女たちが呼ぶ“陛下”という呼称も畏敬の念からではなく、ただの愛称としての扱いであった。
「まあ、立場的に象徴というのは間違いではないかな……」
苦笑を漏らしつつ慧が答える。
「所詮、男は顔ということか」
文太は顎杖を突くと、擦れたような様子でそう呟く。
「いや、一概にそうとは……」
「君は顔が良いからそう言えるのだ」
「いやいや、待って待って」
蓮の目の前で、友人二人が何やらじゃれ合いを始めた。冗談交じりに食って掛かる文太に、慧は「でもほら、現に目の前に……」と蓮の方を眺めながら囁き、文太も文太で「それは変人二人だから特殊な事例なのだ」と返す。
なにやら声を潜めているが、何しろ傍なので蓮にもすべて聞こえている。……が、残念なことに内容についてはさっぱりと理解が及ばなかった。
どうにも貶められているような気配もするが、突っつくと逆に面倒くさそうな気配がするので取り合わない。
そして、二人の様子をぼんやりと眺めている彼の内で、ふと思考が朝に舞い戻る。
(……どこからが、夢だったのだろう)
昨日の出来事――すなわち夢と断じた記憶に関するあれそれだった。
遅刻に加えて生徒指導に、四時限目は苦手な数学の授業であったことで、良い塩梅に思考の外に放置できていた問題が、友人らと日常のやり取りをしている中で気が緩んだからか、フッと再びその姿を現した。
(少なくとも、廃神社のくだりは夢だろうと思うけど……)
しかし改めて思うに、夢であったとして、ならば本来の実際的な記憶はどこにいってしまったのかという疑問もある。
昨日のものらしき記憶は夢も含めてそれだけで、ならば己は記憶喪失か夢遊病者ということになるが、かといってやはりあの記憶が現実であったとは常識的に考えられない。
なかなかに難儀なパラドックスである。
「なあ、慧」
唐突に声を発した蓮に、二人はじゃれ合いを止めて振り返った。
「どうした?」
尋ねる彼に、蓮は問う。
「僕は昨日、君と図書館に行ったよな」
不可思議なそれに、慧は戸惑いながら頷いた。
「ああ、そうだけど……どうかしたのか?」
「いや、なんでもない」
訝し気な友人から視線を逸らして、蓮は心の内で呟いた。
(ひとまず、放課後に確かめるしかないか……)
このまま有耶無耶にしておくことは座りが悪い。そもそも、気になったことは必ず確かめずにはいられないのが、渡辺蓮という人間だった。
○日本国の天皇
作中世界においても、西暦二〇一二年時点で日本国は象徴天皇制をとっている。しかし現実世界と明確に異なる事実として、作中世界において神話の多くは実話と判じて良いのである。よって彼らのみが保持する権威が実効的な能力として存在し、国事に含まれる行為は現実世界のそれと必ずしも一致しない。
(四年七月十一日 あとがきにTIPS追加)