第玖話 野槌(六)
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昭和期に未確認動物として広まる遥か以前より、槌子や野槌などと呼ばれるそれは日本の各地で伝承されてきた。
とりわけノヅチという呼び名は古い。
例えば日本最古の歴史書とされる日本書紀には、野槌の呼称が現れる。草の祖神である草野姫の別称として記されるそれはすなわち野つ霊、古語から現代語へ直せば野の神という意になる。
転じて妖怪のノヅチもまた本来は山野の神であったという主張がある。
野槌と混同されやすい怪物に野守虫という妖怪がいるが、全長三メートルで六本の脚をもつこの怪蛇もまた伝承では山の神であると語られる。実際のところ、古事記にて三輪山の神が蛇体を示すように山野の神が蛇である伝承は全国で数多く語られており、妖怪野槌に神性を発掘する提案もそれほど不格好なものではない。
一方で、妖怪としての野槌に関しては古い記録に鎌倉時代成立の沙石集がある。
梵舜本ではいわく、
“野槌と云は、常にもなき獣なり。深山の中に希にありと云へり。形大にして、目鼻手足もなくして、只、口ばかりある物の、人をとりて食ふと云へり。”
ここでは手足どころか目鼻すらない口だけの器官の大きな怪物が、山の深奥で人を襲って食ってしまうと語られる。
では、果たして――現在に少年たちを追う存在は、どうか。
なんとか木々を避けて斜面を駆け降りながら、ふと背後を確認した慧が叫んだ。
「おい、なんかデカくなってるぞ!?」
つられて蓮たちも振り返る。
その途端、ちらちらと垣間見えていた追跡者、黒い鱗の怪物が木々の合間から飛び出した。
横槌が転がるようにしてゴロゴロと追いかけてくるそれは、相変わらずその身を地に打ち付けるたびに雷音を轟かせている。黒くねらねらと照る鱗に覆われたその身体は巨大な頭部から尾の先までが殆ど変わらぬ直径で、――その特徴は変わらずに、ただ体躯だけが当初より明らかに増大していた。
先ほどまでは三十センチメートル程度だった全長はもはや一メートルを超えて二メートルへ迫っており、その胴の直径は大人でも一抱えするほどに太く固くなっている。
それはすでに、大蛇――と称すべき姿である。
そんな怪物が眼を爛々と光らせて、しかし身をくねらせるでもなく、まるで棒が転がり落ちるように縦に横にとその身を地に叩きつける――という奇怪きわまりない所作で追いかけてくる。
文字に起こせば奇妙なばかりの光景も、実際に目にして追われてみれば、まずおかしさより先に理解できないものへの恐怖が沸き起こる。
現に今、振り返った者のうち慧と文太はすさまじく肝を冷やしていた。
「あれじゃあ咬まれるとか毒があるとか以前に、丸呑みじゃねえか!」
悲鳴を上げる文太の隣で、蓮が「たしかに!」と場違いに明るい声を張り上げた。背後へと迫る大蛇の威容を目にしてもなお変わらぬ陽気さだ。
子供染みた無邪気さすら感ずる声音に目眩を覚えるのが慧である。蓮は……以前からその気配はあったものの、最近に至ってどうにも頭のネジがいっそう緩まっている感覚がある。そしてやはりそれは、剣王鬼に取り憑かれて以降の変化だ。
溜め息をつきたくなる気持ちを抑えて、同じく叫ぶ。
「どうする! どこまでも追ってきそうだぞ!」
「わたしがなんとかする!」
足を止めた葵が、両腕を構えた。その拳には腰のポーチより取り出した呪符が薄い燐光を伴って巻き付いている。
「いい加減、鬱陶しいのよッ!!」
高らかに叫ぶと、佇む彼女へこれ幸いと突っ込んでくるその鼻先へと拳を打ち込む――が、怪蛇は思わぬ繊細な動作で首を振る。鋭い拳は空を切り、鱗にすら触れられずにスルリと避けられる。
「って、うそぉ!」
慌てて態勢を立て直そうとするが、晒してしまった隙は大きかった。
すぐ傍にまで迫った大蛇の眼が冷たく輝き、牙のある巨大な口が開かれた。チロと長い舌が伸び、赤い口腔が薄暗い世界へくっきりと浮かび上がる――。
「――伏せなさいッ!」
刹那に差し込まれたその声に反応したのは咄嗟の神経だった。
背中から倒れ込むように飛びずさった彼女の目の前で、蛇の顔が忽然と炎に包まれた。高音域の悲鳴が森へ響き渡り、ジリと熱気が葵の頬を撫ぜる。
葵は受け身を取るなりバッと機敏な動きで立ち上がると距離を取った。
そのすぐ横へと蓮たちも駆けつける。
「大丈夫か」
尋ねる慧に頷いたところで、森の奥からまたも声が飛ぶ。
「早くこちらへ! 坂を登るんです!」
見やれば、大蛇を越えた向こう側、逃げた蓮たちが下ってきた斜面の先で佇むのは柚葉である。
「そうか!」
彼女の言葉に蓮がはたと手を打った。
「登るのは苦手……そういう話もあったなあ」
「そういう大事な話はもっと早く思い出してくれ!」
暢気な蓮に文太が噛みついたところで、野槌の顔を覆っていた炎が途切れた。赤い火が細かい粒子となって雲散するが、その下から現れるのは無傷の状態の鱗である。
大きく頭を振っているその怪物の様子からは、然程の痛手を与えたようにも思えない。
「さっさと行くぞ!」
慧の叱咤を号令として、探偵団の面々は一斉に斜面をもと来た方へと駆けあがる。
すぐ横を抜き去る少年たちに気づいた大蛇が眼を光らせた。ゴロリと倒れたかと思えば身を屈ませ、次の瞬間には伸び上がるようにして最後尾の文太へと飛び掛かる。
「うわあッ!」
彼は驚くと拍子に足を滑らせてしまう。その絶好の好機を逃さず、尻餅をついた無防備な体へと鋭い牙が迫った。それに文太は咄嗟に両手を突き出すも、まさか掌で牙を取り押さえられるわけはない。
――ところが、そこで怪物はまるで何かに気がついたかのように一瞬間だけ硬直する。
「このッ」
これに葵の拳が間に合った。
寸でのところで鼻先へと叩き込めば、手元でバチリと呪符の符籙が火花を散らす。次いで、そこに前方から再び柚葉の炎が飛び込んだ――が、こちらは横へ転がって避けられる。
しかしその隙に文太も立ち上がり、葵と二人で他の面々が待っている地点へと登り切った。
「やはり火はこれ以上使えませんね……」
柚葉が静かに零す。その視線の先では、今ほどに避けられた炎塊が着弾したことで炭化した草葉がある。
彼女の炎術は制御を離れた時点で高温度の燃焼現象でしかなくなる。そのためこのような森の中でいたずらに使用すると山火事の懸念があった。
「逃げるしかないね。場所が悪い」
彼女の肩の上へといつの間にか現れていた妖狐がそう諭す。
「行きますよッ!」
なんだか未練がありそうに野槌を振り返る蓮と葵に、叱りつける勢いで声をかけると柚葉は急いで斜面を駆け上がり始めた。
慧や文太に肩を叩かれ、二人もしぶしぶその後へ続く。
残された大蛇もまた、逃げ去る少年たちへ威嚇の音を上げるなり、ぐるりと前転して追跡を再開するが――斜面を登る速度は明らかに鈍く遅くなっていた。
山の上方へとひたすら駆け上がる少年たちの背後では、地に巨躯を打ち付けるドン、ドン……という雷のような音と、体の何処から発しているのか分からないワハハ……という不気味な低い嗤い声がしばらく続いていたが、走れば走るほどにどんどんと遠くなり、やがて完全に聞こえなくなった。
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「ここまでくれば、もう大丈夫でしょう……」
息も絶え絶えにそう零した柚葉に、ようやく周囲の空気が弛緩した。
森の木漏れ日の中で足を止めた一行は、思い思いに体を休ませる。一人を除いて全体が疲労困憊の様子である。
何しろ舗装などされていない山腹を二十分ほども駆け上り続けたのだから、疲れない方がおかしいというものだった。
少なくとも、傍目に鍛えているのがわかる慧ですら慣れぬ山行に息が上がっているというのに、見るからに筋トレと無縁そうな蓮だけが多少の息の乱れすらないのは明らかにおかしな事象である。
(なんか知らん間に体力、すげえ上がってんな)
そうひとりごちる蓮のそれが剣王鬼による侵蝕が進んでいる影響だというのは疑う余地がない。
そもそも先日には三階建ての校舎を飛び越えすらしたのだから、今更の気づきというべきである。
このまま侵蝕が続いていけば、やがて少年の身体は完全に剣王鬼のものへと最適化されるのだろう。
大抵の人間ならば自身の肉体が異物へと変化していくそれに耐えられぬと感じるものだが、ここに居る当の本人はといえば内心変わらず暢気なことを考えている。
(うーん……超人的な力を得てしまった)
アメコミのヒーローを思い出すぜ、そんなコメントまで添えている。
そんな彼の安気な態度を感じ取ったのか否か、息を整え終えた柚葉がきつい眼差しで彼へと向き直った。
「少しは懲りましたか」
「へ?」
きょとんとして呆けた顔を晒す蓮に、尋ねた少女は頭が痛いとばかりに眉間を指で揉んだ。次いで視線をすっと滑らして、気まずそうな表情の慧、文太……と過ぎたところでもう一人の少女へと固定する。
「あなたはどうです?」
むすっとして顔全体で不機嫌を隠そうともしない彼女の瞳をジッと逸らさず見つめた。
「先ほど私が介入しなかったら、まず間違いなく命の危険だったはずですが」
そのまま睨み合いが一秒、二秒と続いて五秒が過ぎたところで葵のほうが顔を背けた。
あらぬ場所を眺めながら、ぼそぼそとかろうじて聞き取れる程度の声量で呟く。
「……助かったわ。ありがとう」
耳ざとく聞き取った妖狐が鼻を鳴らし、柚葉もひとつ息を吐いた。
「まあ、いいです。ひとまず危機は脱しました。――そうですね、あかり」
「感じられる範囲内に気配はないよ」
柚葉は頷くと、周囲の面々を見渡した。
「あなた方の危険行動に関しては、今は置いておきましょう。現状は山を下りるのが先決です」
慧と文太の二人だけが肯いた。
「その後で山狩りを要請しなければ……」
難しそうな顔で呟く柚葉に、「それで」と慧が恐る恐る声をかけた。
「……ここってどの辺りか分かるか?」
途端、問われた少女が呆気にとられたように固まった。
彼女以下の全員が窺うように周囲を見回すが、ひたすらに上方へと斜面を進んできただけであったため、誰も光景に見覚えを持っていない。
青々と茂った草木が唯々静かに彼らを囲んでいる。
何かを察した狐が、少女の肩の上でそっと視線を何処かへ逸らした。
すがるような慧の目がぼけっと突っ立っている蓮へと向くが……
「さあ」
彼の口から発されたそれが、状況を端的に説明していた。
「下りていけば、どこかの麓に出ますよ」
焦った様子でそう答える柚葉だが、
「……いや南ならそうなんだけど、もし北の方へ行っちゃうと山脈側に出ちゃうぜ。あと、置きっぱの荷物も回収しないと」
非情な現実が慧の口から語られる。
続いて葵も真剣な表情で言う。
「さすがに日が暮れる前には、よね……」
ここまでくると、さすがに蓮も会話へと入る。
「そもそも僕たちって、どっちから登ってきたっけ」
――全員が全員、全く別々の方向を指差した。
「マジか」
誰ともなく呻き声を上げた。
昼間の断層観察の際に使用した方位磁針や地形図が手元にあれば良かったのだが、生憎と他の荷物と共に元の場所へ置いてきてしまっている。
「あ、そうだ。ケータイはどうだろう」
「……ダメ、圏外」
「俺のも」
「私のも、ですね」
各々に携帯電話を頭上へ掲げてみたりするも、液晶画面のアンテナは一向に立つ気配がない。
「……うーん。どうしよっか」
腕を組む蓮の横で葵が柚葉へと声をかける。
「アンタ、緋崎なら陰陽師でしょ。方角確かめる方法とか知らないの」
「そう言われましても、枝で空も見えませんし……」
喧々諤々と意見を交わし合っているところに、先ほどから一人離れていた文太が声を挟む。
「……あー、ちょっといいかな」
皆の視線が集まったところで、人差し指で頬を掻きながら言う。
「おれさ、たぶん分かるよ」
あまりにもさらりと言い放つので、蓮たちは一瞬何を指してのことだか分からなかった。
「え、なにが?」
「帰り道。もといた所まで戻れると思う」
少しだけ自嘲の混じったような声音で続ける。
「――昔から、山で迷ったことがないんだ」
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果たして文太の先導に従って森の中を下りていくと、やがて目の前に砂利の広場が現れた。
「すげえ、本当に戻ってこれた!」
感嘆の声を上げる蓮の隣で、「やるじゃん。助かった」と慧が文太の肩へ拳を当てる。
「たまにはチビタも役に立つのね」
賞賛なのか揶揄いなのか分からない言葉を吐きながら、葵が荷物を置いている場所へと向かう。
「だからチビタ言うなって!」
森を帰る道中に再び野槌へ出遭うこともなく、こうして無事に戻ってこれたことで探偵団一行はすっかりと普段通りの空気となっていた。彼らがわいわいと騒ぎながら歩いていくその後方で、肩に式神を乗せた少女はひとり静かに続く。
「……ねえ、あかり」
前方の集団に聞こえないよう呟いたそれに、肩口へ顔を寄せた妖狐が答える。
「ああ、気づいてる」
眼を細めて見やる彼女らの視線の先にいるのは文太だった。
「あの坊や――行きとは完全に異なる道で案内したね」
その言葉に、やっぱり……と柚葉も頷いた。
彼女たちは帰り道がわかると主張する文太の案内でこの場所まで戻ってきたわけなのだが、その道中で通った場所というのが明らかに痕跡の無い道筋だったのである。
帰路がわかる……というのにも種類があるだろう。
例えば、記憶力がいいだとか。
通ってきた道の痕跡が見つけられる、だとか。
その程度が常識的に考えたときに浮かぶ手段だと思うのだが、――では、全く異なる道筋で、しかし確実に目的地まで案内できる方法というのは、一体どのような手段なのだろうか。
「きっと、あの子もなにかあるんだろうね」
囁く相方の言葉に、柚葉は思わず空を仰いでしまった。
先日に彼女は渡辺蓮とその友人たちを、類が友を呼ぶ――蓮を中心に引き寄せられたはみ出し者の集団だと考察したが、いやはや全くもってその通りのようだった。
剣王鬼に取り憑かれた蓮をはじめとして、揃いも揃って裏の方向性で問題を抱えているのが垣間見える面々ばかりだ。
西の空で薄らと紫雲が棚引いている。
いつか何処かでの光景が脳裏で重なって、ふと柚葉は気がついた。
(あるいは、私も――)
第玖話 野槌 /了。
○野槌
赤沼町郊外の山中にて出没し、蓮たちを襲った怪物。異様な風体の大蛇である。その後、柚葉の報で地域の呪術師たちによる「山狩り」が行われたが、行方は掴めなかった。
(四年七月十一日 あとがきにTIPS追加)




