第玖話 野槌(五)
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現代人がツチノコと聞いてまず思い浮かべるものは、その多くが昭和後期にマスコミによって周知された由来の情報であろう。
当時の日本は高度経済成長期の直中であって、社会の全体に不明な熱気があった。衰える気配のない好景気、毎日のように現れる新商品……発展を繰り返す機械に囲まれて、国民が自然科学や工学の技術に最も恩恵と希望を感じていた時代だった。
そして焼野から目まぐるしい復興を遂げる経済成長のその一方で、オカルトやスピリチュアルと呼ばれるものが最も流行した時期でもある。……このように経済成長と共に隆盛するオカルト現象に関しては、例えば南アフリカを調査地とする某人類学者夫妻が実際に理論を展開しているように全世界的に珍しい話ではない。――然もありなん、というところである。
何故ならば怪異な現象、言説というものは人の心の奥底から自然と湧き出てくるものなのだから――、例え日々を照らし出す科学技術というものに信頼を預け、古来の伝承を尽く迷信と断じたとしても、理性と心性は剥離を起こす。その隙間を埋めるように、怪異現象は新たな性質で立ち現れる。
昭和期日本では、それが心霊、占い、超能力、宇宙人、UMA……といった形で現出したわけである。
ツチノコブームは、それら潮流の内の一つとして起こった。
この流行で共有されたイメージは大体次のようなものである。
一つ、ツチノコは太い胴に三角の頭を持つ怪蛇である。
一つ、ツチノコは蛇のように蛇行せず、尺取虫のように屈伸するか、横に転がる、あるいは真上に跳躍することで移動する。
一つ、ツチノコの跳躍力は非常に高く、また動きは素早い。……
槌子や野槌、槌転び、五八寸、ギギ蛇などと全国の各地で呼ばれて伝承されていた妖怪たちに通ずる特徴を残しながらも、マスコミを通じて右のような形で統括されたのが、昭和期にブームとなったツチノコである。
今回に文太の弟が目撃の噂を聞き、そして蓮が想像していたツチノコもまた、そのような特徴を持つ怪蛇であった。
そうして訪れた裏山で、果たして彼の前を通過した影はというと――
「ダメ! こっちはいないわ!」
藪を掻き分けた葵が叫ぶ。
「なんもいないぜ」
「こっちもだ」
同様に拾った木の枝で足元の繁みを突く文太、慧が声を出す。
「いや、たしかに見たんだ! 絶対にツチノコだった!」
四人のうち一番に林の奥へと進んでいる蓮が叫んだ。
先ほどから興奮しきりの彼は、言い放つなり更に向こうへと一人ずんずん進む。
「ようやく面白くなってきたわね!」
見るからにうきうきした様子の葵がその背を追いかけて、残った少年二人が顔を見合わせた。
「どうする」
荷物を置いたままの背後を見やって文太が言った。
慧は少しだけ逡巡してから、「追いかけよう」と答えた。
「宗像さんいないけど」
「まあ、どうせそんな奥にはいかないさ。すぐ戻る」
「……それもそうか」
互いに頷いて、そのまま二人の後へ続く。
周囲の草影を見つつ歩きながら「そういえば」と文太が言った。
「ツチノコって見つけると賞金出るんだっけ」
慧も付近を見回しつつ答える。
「たしか……一番低いやつでも百万だったかな」
「百万かあ」
わざとらしく両腕を組んで文太が唸る。
「百万円あったら何ができるだろう」
「中古なら車が買えるな」
「免許ねえよ」
そうしているうちに前の二人に追いついた。
「なにバカなこと言ってんのよ」
振り返った葵がきつい視線を飛ばす。
「出たとしても、賞金は探偵団の更なる躍進のため活用されるわ! 当たり前でしょう! さあ、くだらないことくっちゃべってないで手を動かしなさい!」
常と変わらぬ団長発言に「うへえ」と文太が零したところで、
「――居た!」
我関さずと進んでいた蓮が、叢の向こうで声を張り上げた。
三人も慌ててそちらへと向かう。
伸び放題の草葉を掻き分けて辿り着けば、蓮は身を屈めてジッと前方を眺めている。
「どこ、どこ」
駆け寄った文太に「シッ」と人差し指を立てる。その様子に察した面々が、そっとその場で同じく腰を落とす。
「どこ?」
潜めた声で改めてそう問えば、蓮はそっと視線の先へと指を差した。
「あそこの叢で、さっき跳ねた」
示された所を確認すれば、その場から五六メートルほど向こうで丁度ユサユサと葉が揺れる。
ごくり、と誰かが喉を鳴らした。
「どうやって捕まえる?」
すっと身を寄せた葵が囁いた。
「勿論これさ」
蓮が虫取り網を持ち上げた。ツチノコを見かけるなり林へと飛び込んだ彼だったが、事前に用意していたこれだけは荷物からきちんと抜き取ってきていた。
「じゃあ、俺たちが反対側から回り込む」
文太の肩を叩きながら慧が言った。
「気づかれるなよ」
「わかってるって」
苦笑いで蓮に返し、一度下ろした腰を再び浮き上がらせて――
「あッ!」
思わず叫んだのは誰だったか。蓮だったかもしれないし、文太だったかもしれない。全員が呆気に取られて固まった。
視線を向けていた先の藪から、突如として弾丸のように飛び出した影があった。
黒く、太く――。
それは危険な鋭さで少年たちへと飛来する。
次の瞬間、立ち尽くしていた慧を咄嗟に文太が押し倒す。
「おわっ」
驚く声を上げた慧のその頭頂のすぐ上を、風切り音と共に影が突き抜けた。
「ひぃっ」
文太も一緒になって悲鳴を上げる。
先ほどまで慧の頭があった空間を齧り切って、影はその先の叢の中へと飛び込んで行って姿が消える。
ガサガサ、ガサ……と音が遠のいていった。
「……今のは」
硬直から戻った蓮が、ぽつりと呟いた。
「まさかとは思うけど」
その横で葵も囁く。
「ツチノコ……?」
「はあ!?」
がばりと立ち上がった文太が目を円くして叫んだ。
「え、なに今の? めっちゃ危険じゃんッ!」
続いて身を起こした慧が「ありがとう、助かった……」と礼を言うが、それすら目に入らない様子である。
「あ」と蓮が気付いたように声を出した。
「そういえば、猛毒を持っているとか凶暴だとかいう話もあった気が……」
「オイィッ!」
絶叫する文太だが、途端にその口をふさぐ掌がある。手の主の葵が「静かに」と囁いた。
「……なにか聞こえない?」
言われて各々も口を閉じれば、彼らの耳にも微かに響いてくる音がある。
「雷……?」
怪訝そうな声を慧が出す。
ドン、ドン……と雷鳴のような響きが、何処からか鳴っている。
「待って。もしかしてこれ、近づいてきてない?」
血の気の引いた顔で文太が言った。
蓮はちらりと頭上を確認した。
重なり合った枝葉の隙間、その向こうに広がっているのは変わらない青空である。雷雲などあろうはずがない。
……視線を下ろせば、辺りは密集した木々のために昼間なのに薄暗い。
木陰で涼しい、と暢気に考えていた自分が遠い過去だった。
夏の大気にジットリとした湿気が滲みだす。
先ほどまで親しみを覚えていた森の景色が、急に余所余所しくなる。
「この方向って」
ハッとした顔で葵が振り向いた。
自分達の他に生物の気配が消え去った薄暗い森中、段々と大きくなっていく怪音は夜中の背後にそっと忍び寄る足音のような……そんな不気味さがある。
そしてその音は――先ほどに黒い影が消えていった先から聞こえてきていた。
ドン、ドン……という音が草藪と木々に隠れた斜面、そのすぐ向こうから漏れ響く。
「……もしかして」
何かに思い至った蓮が顔を上げて――そこで、パチリ、という光と共に黒い影が目の前に飛び出した。
山の斜面をゴロゴロと転がり落ちてきたそれは、黒い鱗に覆われた生物だ。
そのずんぐりむっくりとした寸胴の体が地面に触れるたびに、ドン、ドンと雷鳴のような重々しい音が響き渡る。
(「横槌のような体」……)
いつかどこかで読んだ一文が脳裏で弾けるのと、その黒い生物の冷たい眼球に目が合ったのは同時だった。
背筋を走った悪寒に蓮が身をよじれば、その生物は刹那の差で足のあったところへ飛び掛かっていた。
毒液の滴る牙が空を切る。
そのまま突っ込んでいった先で、またパチリと火花が散った。と思えば、姿が消えている。すると何処からともなく不気味な笑い声のようなものが響いて……パチリ、という三度の光と共に今度は文太の目の前に現れた。
「うわあッ!」
慌てて逃げる彼の足元へ向けて、ゴロゴロと勢いよく転がって追いすがる。薄暗い中でもはっきり爛々と輝く蛇眼と牙が、明らかに彼の柔そうな皮膚を狙っていた。
「――逃げろッ!」
転びそうになった文太の腕を引き、慧が叫んだ。
皆で一丸に固まったまま、背を向けると一目散に斜面を駆け降りる。
その後方ではワハハハ……という笑い声と共にドン、ドンという異音が響き渡る。
どこまでも追跡してきそうなその怪音に、彼らは我武者羅に足を動かして木々の中を駆け抜ける。
次々に行く手を阻む枝葉や藪木がその手足に細かい傷をつけてゆく……。
そんな切迫した状況のなかで、蓮は(とんだ失態だ)と唇を噛んだ。
勘違いしていた。
「UMAじゃなくて妖怪だったかあ!」
何処となく楽しげに聞こえるそれに、「勘弁してくれ!」と文太が叫んだ。
 




