第玖話 野槌(二)
3
廊下へ去ってゆく少年を見送ると、柚葉はそっと席を立った。
教室を出て、ひとり歩く。
窓際や水道のそばで何人かずつの学生が屯していて、あちこちで誰かが騒いでいる。
昼休みの喧騒が広がるそのなかで、ふと世界が遠くなる。
(――あの子はどうも、お友達にはまだ隠すつもりのようだ)
腕の魔具が鈍く輝いて、脳裏で相棒の声が静かに響いた。
(みたいだね)
(……それで、本当にこれから毎朝続けるのかい)
妖狐が諦観の滲んだ声音で囁く。
(当然)
肯く少女に、ため息が返った。
(なあ、あのジジイに釘を刺されているんだろう? だから何回でも言うけどね……入れ込む必要はないんだよ)
柚葉の足が止まる。
(あかり、忘れちゃいけない)
彼女は目を細めた。
この数年間に受け続けてきた威圧と恐怖、それを思い出しそうになるが拳を強く握り締めることで耐える。
(たしかに私たちは犬になったけれど、でも……魂までは犬じゃない)
瞳の奥で、チラリと暗い炎が揺らめいた。
(私たちは私たちの願いのために歩いて、今ここにいる。アイツへの復讐と、そして二度と悲劇を生まないために……。そうでしょう?)
息を呑むような音が響いて、次に沈黙があった。
やがて絞り出すような言葉が返る。
(ああ……そうだったね)
その声に「それに」と柚葉は続けた。
(だいいち、私たちは緋崎じゃない。私たちはあくまで鼎さんの――祓い屋緋崎の弟子なんだ)
そう言い切ると柚葉は止めていた足を前へ出す。
廊下を進み、角を曲がった先で階段そばの女子トイレへと入っていく。
そしてその先で、クラスメイト数人とばったり出会った。
「あ、転校生ちゃんじゃん」
先頭に立っていた少女が親し気な声を出した。
明るく染めた髪は毛先でパーマが掛かっていて、制服胸元のリボンは開いた第一ボタンのところまで緩められている。
「あなたは、たしか……」
見覚えはある。転校初日に質問攻めにされた際にも、クラスの女子たちの中心にいた人物だった。
「ミキでいーよ、アタシたちの仲じゃん」
そう言って彼女は笑い、柚葉の二の腕を叩いた。
快活な声が部屋のタイルに反射する。
「あ、ありがとう」
柚葉は目をぱちくりとさせながら、この少女がなんという名字だっただろうかと思考する。
少し気圧されていると、ずいと身を寄せてきた少女が肩を組んでくる。
「ところでさー、ふふ」
流し目で窺ってくる彼女の目尻は何やらニヤニヤと歪んでいた。
「転校生ちゃんさ、もしかして渡辺党に入るのー?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……渡辺党?」
おうむ返しに復唱すれば、途端に少女はたまらないとばかりに手を叩いて笑う。
首を傾げるばかりの柚葉に、周りを囲む形になっていた他のクラスメイトが声をかける。
「ほら、渡辺君のグループだよ」
言われて、ようやく彼女も「ああ」と納得する。
件の地学部……もとい、赤沼怪奇探偵団などと標榜する集まりのことだろう。
「そうそう、渡辺クンたちのあのグループ!」
柚葉の首に変わらず腕を回している少女が大きな声で同意する。
先ほどからの笑みに何か意気地の悪いものを感じて、思わず眉をひそめながら柚葉は問うた。
「でも、なぜそんな話に?」
変化したその表情も気に留めぬ様子で、あっけらかんと少女は答える。
「だってさ、今朝とかすごい仲良さそうだったジャン」
柚葉は思わずつきそうになった溜め息を、すんでのところで抑えた。
「あのですね、……」
呆れながら否定の言葉を言い掛けるが、肩口で張り上げられた声で遮られる。
「悪いこと言わないからさ、やめときなよ! ね!」
明るいその言葉には、しかし明らかな侮蔑の色があった。
口を閉じて、すっと静かな視線を遣った柚葉に少女はにんまりと笑む。
「転校したばっかだから知らないと思うけど。あいつらってさ、変人の集まりで有名なんだよね」
その言葉に周囲の女子たちも同意する声を上げた。
「この時代にオカルトとか幽霊とか信じちゃってるヤバイ奴らだよ」
「地学部乗っ取ってさ、なんか怪しい儀式やってるってウワサ……」
「とくに神谷さんとかハナシ全然通じないし……あの子って、正直その、ちょっと変よね」
「それ言うなら、渡辺君こそ一番なに考えてるかわかんないし」
「昔、暴力事件起こしたって誰か言ってたね」
「千田君は童顔で可愛いんだけど……」
「えー、むしろ不気味じゃない。あれ、絶対小学生か中学一年くらいで時間止まってるでしょ」
「いつも思うけど、なんで不死川君が一緒にいるかわかんないよね」
「いや、それは不死川君が優しいから」
口々に貶める彼女たちを、隣の少女は満足そうな目つきで見ている。
「……あーね」
口のなかで聞こえない程度に呟く。
細まる視線を自覚しながら、柚葉は改めて周りの面々を見回した。
つまりこの子たちは、取り巻きか。
隣の少女が嫌っているから、同調して渡辺グループを嗤っている。……彼女たちは、そういうグループなんだろう。
そう判断する一方で、柚葉は気づいていた。
リーダー格の少女だけでなく、取り巻きの子たちもまたある程度には言葉に本気の意思が混じっている。
……おそらく、実際として彼らを除け者扱いする風潮は、個人を超えて全体にあるのだ。
(ある種の爪弾き者の集まり……そういう側面があるわけか)
しばらく黙っていたあかりが静かに囁いた。
同じことを考えていた柚葉の脳裏でふと「同類相憐れむ」という言葉が浮かぶ……が、すぐに否定した。
(――いや、ここは「類は友を呼ぶ」と言うべきでしょう)
彼女らが言うところの「渡辺党」。その面々の観察を始めてから未だ僅か三日目であるが、それでも見えてくる関係性はある。
(あの人たちは、渡辺さんを中心に集まっている)
一見すると神谷葵の声が大きいが、しかしよく見ればグループ全体の流れは渡辺蓮の意思に沿って動いている。
転入して数日の柚葉にも分かったのだからすでに数か月をクラスメイトとして過ごしている彼女たちにも当然分かるだろうことで、であるから「渡辺グループ」だとか「渡辺党」と揶揄するのだろう。
ともあれ、彼らは渡辺蓮を中心に据えている。
オカルトマニアの渡辺蓮、感情の起伏が激しい神谷葵、異様に幼い容姿の千田文太、そして文武兼備で人当たりも良いのに、その彼ら以外には一線を引いている不死川慧。
各々がそれぞれの理由で遠巻きにされているわけだが、その彼らは別になんとなくだとか、傷の舐め合いだとかのような感覚で一緒にいるわけではない。
蓮を中心に――彼に吸い寄せられるようにして共にいる。
ひょっとするとそれは一種のカリスマかもしれないと柚葉は思った。
何にしても、彼らはたしかに爪弾き者の集まりかもしれなかったが、けしてネガティブな絆ではないことを柚葉はとっくに察しているのだ。
彼らのそれは、ごく普通の友情だった。
そんなわけだから、柚葉の答えも決まっていたのである。
「……くだらん人らやなあ」
ごく自然に口から洩れたその言葉に、肩を組んでいた少女の耳がぴくりと動いた。
「え、なに? なんて?」
にこやかに顔を覗いてくる彼女に、柚葉は今度はあからさまに溜め息をついてみせる。
「くだらないって言ったんですよ」
首に回されていた腕を軽く叩いて落とす。
「付き合いくらい、自分で決めます」
固まる少女の目を真っ直ぐに見つめ返して、言い放つ。
「きさんに指図されとうない」
そしてそのまま踵を返した。
用は足せなかったが、校舎内は他にもトイレがある。不愉快な気分になってまでこの場所に留まる必要はない。
柚葉はむすっと黙ったまま出入口の扉へ手を掛けた。
――結局のところ、彼女が立ち去る最後までその背に声は掛けられなかった。
4
帰宅すると、蓮は崩れ落ちるようにして自室のベッドへと倒れ込んだ。
「つっかれたあ……」
その格好のままで本日の出来事を振り返る。
結論して、妙に気疲れのする一日であった。
まずは昨日からの続きではあるが、朝一から柚葉に呼び出され、なにやら分からぬ宿題と共に指導の宣言を改めてされる。
彼女は転校してきた初日の時点で「剣王鬼の監視をする」と言っていたが、現在では加えて明らかに蓮自身の所作すら監視されていた。
ほとんど常と言っていいほどに付きまとうその視線が、本日の気疲れの内訳を二分したところの一方である。
残りの片方はといえば、葵であった。
「……なんでか一日中機嫌悪かったよな」
朝に柚葉と共に教室へと入って以来、放課後に帰路で別れるそのときまでの正しく一日中の時間を刺々しい態度で接してきた少女を思い起こす。
「慧や文太は僕のせいだって言うし、ワケわからん」
ハアと息を吐いてから、蓮はゆっくりと身を起こした。
色々とあった一日だったが、……まあ、人生そんな日もあるだろう。
そんななかで唯一の収穫といえるものを彼は学生鞄の中から取り出した。ベッドの上で胡坐をかいたその膝の上に、大判の古い雑誌が二冊転がり出てくる。
「宿題だとか言われたけど。こういう勉強なら大歓迎だな」
宿題だとか勉強の二文字には本能的に拒否反応を覚える蓮であるが、今朝に柚葉から課されたそれらに限っては苦になる物ではない。
実際の学校から課された提出物に関しては意識の彼方へと放り去り、蓮は早速とばかりに興味津々な様子で二冊を見比べた。
どちらも表紙に踊るのは、同程度に胡散臭い題字である。
「……よし」
しばし悩んでから、ひとまず「霊力を感じよう! 初級編」を手に取った。霊力なぞという不思議パワーが感じ取れるというならば、それほどに興奮することも無い。
ペラリと開いて目次を飛ばす。
第一章の文字で指を止めれば、そこには大きく「瞑想」と書かれていた。段組みされた本文の下に座禅の組み方が図解で示されている。
「なになに……霊力とは、精神を源流とするものであり――」
面倒な事は全てほっぽって、蓮はひたすらに文字を目で追った。渡してきた柚葉の思惑がどうであれ、この資料が興味深いことには変わりない。次第に熱が入って夢中になる。
彼女に関してはこれら「課題」の他にも学校での監視という問題があるが、こちらも気がナンダカ滅入る程度で実害といえるものはない。
剣王鬼が言うように、しばらくは放置でいいだろう――というのが一日を過ごした蓮の結論だった。
それに柚葉と関わるのも朝礼前の時間だけだ。毎朝に屋上で「指導」を受けるようにと言い含められたものの、その他は遠目に観察されているだけである。とくに放課後は部活仲間に緋崎を毛嫌いする葵がいるからか、殆ど視線は感じなかった。
だからそれほど気にする必要もないと、蓮はそう思ったのである。
――しかして、翌木曜日。
言いつけ通りに朝の屋上へとやってきた蓮へと課題の進捗を聞いたのち、けれども柚葉は思い出したように言い放つ。
「本日から、私もあなたたちの部活動に参加させていただきますので」
それは彼女の監視を離れ、部活の間だけは学校で羽を伸ばせる安息の時間である――そう高を括っていた蓮の思惑が一晩で崩れ去った瞬間だった。




