第玖話 野槌(一)
1
「ひとまず、これを読んでおいてください」
言って差し出されたのは大判の古ぼけた雑誌だった。
受け取った蓮は、胡乱気にそれを眺める。
『季刊カダス(平成三年一号)――こわいぞ! 現代妖怪編』
表紙にデカデカと踊る文字はポップなフォントである。その背景には安っぽいお化けのイラストが印刷されていた。その筆致はまるでフリー配布のイラストがごときで、今どき児童書にも描かれないようなチープさである。
「あの……もしかして僕、馬鹿にされてる?」
顔を上げて問えば、柚葉はにこりともせずに小首を傾げた。
「なんのことですか」
「あ、いや……」
あまりに冷たい声音だったので、蓮は口ごもりながら視線を落とす。
(なんだって僕は、こんな朝から何十年も前のオカルト雑誌なんて渡されてるんだろう……)
しかも校舎の屋上で。
そう付け足して、蓮はそっとため息をついた。
通り悪魔と対峙したあの昼から一晩が明けて、本日は翌水曜日の朝である。
午前八時過ぎ。
始業のたかが三十分前とはいえ、この時間に登校するためには普段よりも早起きをする必要があった。
だから今朝は、早く起きることが苦手な蓮にしては頑張って起床した。
それもこれも現在、目の前で無愛想に睨んできている少女に呼び出されていたからである。
あの日に張り手された後、更に柚葉は蓮を指して「指導する」などと言い出した。慌てて止める狐も何のその、どうも何やら憤慨しているらしき彼女は恐ろしい剣幕で、思わず日和った蓮は言われるがままに連絡先を交換して、そして呼び出されるがままにこうして朝の屋上にやってきている。
――蓮の頭の中で、ふと昨晩の会話が蘇った。
『なるほど……己の力を引き出したか』
自宅のソファで寛ぐのは蓮の身体を乗っ取った剣王鬼である。陽が落ちて目覚めると、途端に彼は蓮が説明せずとも事の次第を把握した。
しかし意外なことに、剣王鬼は咎めることをしなかった。むしろ何故だか面白そうな声音で蓮に感想を求めるまでする。
楽しかった、と返せば彼は珍しく哄笑した。
『この程度では懲りないか!』
居間の中心で可笑しそうに大口を開ける彼の姿は、もはや完全にその家の住人と化していた。我が物顔で利用する剣王鬼によって、いたるところに蓮の身に覚えがない代物が転がっていたりするのが最近の渡辺家である。更に言えば夜になる度に剣王鬼が長襦袢に着替えるので、蓮も今では着物の着心地に違和感を覚えなくなってきている。
その夜もまた、一体いつ家に持ち込んできたのか分からないワインをグラスの中で揺らしながら、彼はくつくつと喉を鳴らした。
『しかし……それにしても、まさか緋崎の門人から指導とは』
言って嗤う剣王鬼は酒精が入っているからか、やはりひどく楽しそうである。
味覚を共有していても全く美味しいとは感じられない蓮は渋い気持ちを抑え込みながら聞き返す。
(あんたと緋崎って、なんか関係があるのか)
以前から多少なりとも気になっていた事柄であった。
初めて柚葉と遭遇したとき、剣王鬼は明らかに緋崎という名前に反応を示していた。
『ああ。少しばかりな』
あからさまに何かあるという物言いをしながら、彼はグラスに口をつけると感慨深そうに言うのだった。
『まあ、しばらく付き合ってやれ。女子に応えるのも男子の務めというものだ――』
記憶と一緒にワインの味まで思い出してしまった蓮は、思わず顔をしかめる。
そんな暢気な彼の前で、柚葉は真剣な表情で言葉を連ねていた。
「――ですから、それで危険性を勉強してください。あなたは怪異に関わることへの危機感を持たなければなりません」
言う彼女に、蓮は「はあ」と生返事をする。
似たような雑誌なら、彼だって沢山所蔵している。そのほとんどが実在性不明の怪しげな記事のオンパレードであり、それらで学習できることがあったとしても昔から親しんできた蓮には今更な気がしていた。
そんな気持ちで、手元の雑誌をペラペラと捲ってみる。
けれど日焼けしたページにぎっしりと印刷された活字は意外としっかりとした文体だった。途中途中に挟まるイラストは相変わらずのチープさであるが、内容を流し見た限りではまるで専門の事件集染みている。
「これ……」
驚く蓮に、柚葉が心なしか自慢げな声で語る。
「それは執筆も編集も呪術関係者の雑誌です。あなたのような一般出身者に向けた内容になっていますので都合がよいでしょう」
「……そんな雑誌があったのか」
固まる蓮に気分を良くしたのか、柚葉の眼から圧が減る。
「それから、こちらにも目を通しておいてください」
言って新たに取り出された雑誌もまた同じシリーズである。
受け取ってからタイトルを見れば、
『季刊カダス(平成元年特集号)――霊力を感じよう! 初級編』
いよいよもって怪しげなフレーズが躍っている。
それでも、たぶん中身はマトモな感じなんだろうな……と思って眺めていれば、こほんとわざとらしい咳がある。
顔を上げれば、意志の強い瞳が彼を見つめていた。
「……おそらく、あなたには退魔師としての才能があります」
突然の言葉に「えっ」と声を出すが、少女は取り合わずに話を続ける。
「例え呑まれかけたとしても……あれ程に強大な妖怪を相手にして一時的にでも力の主導権を握った事実は、間違いなく驚異的なことです」
それに、と語る。
「仮にもしあの鬼の力を自ら制御することが出来たなら、いずれの封印も容易になるでしょう」
冗談を言っている声ではなかった。
「ですから私があなたを指導します。怪異に魅力なぞを覚えるその危険思想を矯正し、そしてその身の内の鬼を制御するための術をお教えします」
再び冷たさを得た視線が蓮へと突き刺さる。
「これからは私の言いつけを必ず守っていただきます……いいですね?」
そう言うその瞳は、全く反論を許していなかった。
2
「なあ蓮さ、転校生となにかあったのか」
尋ねてきたのは文太だった。
「……いや、別に。なんで?」
昼食の総菜パンを呑み込むと、蓮は努めて冷静に言葉を返した。
昼休みである。
教室の片隅で机を合わせ、いつもの面子で食事をしていた。
「いやだって、なんでもなにも……」
歯切れの悪い彼に代わって、それまで黙々と弁当を片していた葵が唐突に口を開いた。
「今朝、一緒に登校してきたじゃない」
その言葉はなぜか刺々しい。
「仲良さそうに話しちゃってさ」
軽く睨みつけてくる少女から目を逸らし、「……え、仲良さそうだった?」と不思議そうな顔で男友達を見る。
対して文太と慧は、小さく頷いた。
「えー……いや、ホントに仲良くなったわけでもないんだけど」
むしろ脅されている――そう心の内で続ける蓮に、「いやいや」と反論するのは文太である。
「転校生……宗像さんさ、最初は引っ張りだこだったけど、結局は誰とも仲良くなろうとしなかったじゃん。話しかけられれば会話するけどそれも最低限で、基本的に遊びの誘いも断るし。昨日なんかは欠席だったしさ」
語るそれは真実だった。
転校初日の朝では物珍しさからか学年中の注目の的となった彼女だったが、しかしその応答が形ばかりのものであることが分かってくると次第に人垣も薄れていった。
自ら関わろうとしない彼女に対し、「ひとりが好きな子なのかもしれない」という印象がクラスメイトの中に早々に植え付けられたのである。
けれどそんな少女が、突然の欠席を挟んで一日あけた途端に同じクラスの男子と共に登校してきたという事実は、多感な高校生の好奇心を改めて刺激する結果になったらしい。
今朝に屋上から降りてきた途端の周囲の反応を思い出して、蓮は辟易とした気分になった。
思えば柚葉は転校初日においても、唯一蓮にだけは自身から話しかけていたし、さらに蓮は誤魔化す手段として「昔の同級生」という嘘八百な設定を持ち出していて、それを彼女が肯定するのをクラスメイト達も聞いていた。
『渡辺が昔の女に乗り換えか!?』
そう叫んだお調子者の顔と、それに合わせて女子たちが上げた黄色い声の合唱は今に思い出しても頭痛がする。
「本当に何もなかったのか?」
とうとう慧まで探るような視線を寄こしてきた。
「本当に何もなかったよ。あれは、偶々その辺りで一緒になっただけ。朝もそう言ったじゃん」
まさかこんな場所で剣王鬼云々の話をするわけにもいかない。
誤魔化すしかない蓮は嘘を重ねた。
「……そうか」
あまり信じてなさそうな顔で言う慧に、なんだか居た堪れなくなって蓮は食べ終わったパンの包装紙を結んだ。
「ちょっと飲み物買ってくる」
逃げるように立ち去った背中が見えなくなるまで眺めてから、ぽつりと葵が呟いた。
「……なによ、わかりやすい嘘ついちゃって」
不貞腐れるように言って、また黙々と食事に戻る。
普段らしからぬその様子に文太がぽそりと隣の慧へと囁いた。
「神谷のやつ、なんであんなにしょげてるんだ」
それに慧は「あー……」と何やら言葉を濁すと、ちらりと横目で少女を確認してから囁き返す。
「たぶん、いまさら名字のこと気にしてる」
「名字?」
言ってから、ああと文太は頷いた。
「そういえば緋崎だったっけ。因縁があるっていう」
「いや」
慧は首を振ると、
「そっちじゃなくて、宗像のほう」
文太はきょとんとして首を傾げた。
「え、普通に地名じゃないの。他になんか意味があったり」
慧は再び濁した声を上げてから、更に声を落として囁いた。
「日本神話では宗像三女神と呼ばれる三柱の女神がいるんだけど、彼女たちは道を守護するとして航海安全の神と祀られているんだ。それで……」
「ああ」
今度こそ文太は納得の声を出した。
「蓮はそうか、渡辺ってたしか水軍の」
「……そういうことだ」
肯いた彼に、「しかしなあ」と呟く。
そうして名字を並べてみると、成る程たしかに相性がよさそうな二人に見えてくるが……。
「いくらなんでも急に女々しすぎない?」
それに苦笑いを返そうとして、慧の表情が固まった。
文太の後ろに影が立っている。
「あんたら……聞こえてんのよッ!」
理不尽な暴力が彼らを襲った。




