第捌話 悪魔(五)
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「なる、ほど……」
陰陽師三人による怒涛の説明に混乱する脳内をなんとか整理すると、かろうじて慧は頷いた。
異界について、彼は「広げた妖力に付随した引力が時空間を曲げる」という説明で学んでいたが、たしかにそれだけの仕組みならば人類でも形成できそうなものである。実際に、数人がかりでの生成ではあるも大規模な結界を張る技術なぞは存在している。けれどそれら結界技術は、けして時空間を歪めたりはしない。
目の前の彼らが述べた通り、異界の本質が「肉体を超えて周囲を満たす精神・意識」であるというならば、それは人間が異界を形成できない充分な理由だろう。
妖怪の本体が精神であるのに対し、人間の本体は肉体である。人間の精神は、基本的にはその肉体の内側に留まるものだ。
「異界がどのようなものか、改めて私がまとめますと」
各々の反応を見せる少年らを眺めて、美幸が静かに語り出す。
「強大な第三種がその精神を体外に開放すれば、生じる重みで空間は位相がずれます。すると内部は一時的にイデアとの結合が緩んだ状態となり、存在を確立するために新たな拠り所を求め……結果、代替として第三種の精神と結びつき、それを反映することになる。そうして、異界と呼ばれる限定的な支配空間、隔離世界が構成されるわけです」
先程にどうにか噛み砕き、呑み込んだ理解が間違っていないと分かった慧が、ほっと息を吐いた。
「また補足するならば、異界が第三種の自己意識を基底とする以上は、形成される景観もそれに基づきます。すなわち彼らの原風景であり、心象風景です。この辺りは実際に体験した皆さんは納得できることかと思います」
葵が小さく頷いた。
トウヤサマの異界に囚われた際に、現実として彼女は同じような事を感じ取っていた。
異界は、おそらくはその支配者である怪異の根源的な風景を映し出している――。あのときに考えていたそれが、実際に正解であったことが判明したわけである。
「ここまでが、そもそもの前提となる第三種と、異界に関する認識の擦り合わせですね。よろしいですか」
視線を向けられ、慧と葵、柚葉は疎らに首肯した。
美幸は一度瞑目して一息置く。
そして再び瞼を上げて、
「異界原理とは、そのなかにあって異界主に特別に肯定された論理です」
本題を切り出した。
「大抵の場合、日常的な法則……いわゆる自然律は無意識に肯定されているために異界内でも同様です。しかしそれらに加えて、彼らが特別に肯定した……設定した法則が存在していることがあります。これが、異界原理と呼ばれるものです」
その説明に、ようやく慧は得心が行った。
異界とは妖怪が支配した空間であり、その中では独自の法則が存在する。これ即ち異界原理である――とは読書で知っていたが、今まではそれが具体的にどのような仕組みなのかは正直なところであまり分かっていなかった。
それが、ここに来て理解する。
異界とは妖怪の自己意識が表出したものである。つまりその内部はすべて、彼らの認識で左右される構造なのだ。
彼女が言うように、彼らが肯定する法則は例え荒唐無稽なものでも実現し、逆に如何に普遍的な法則であっても否定されると存続しないのだろう。
その予想を裏付けるように美幸は話を続けた。
「現代では異界持ち自体が稀有な存在ではありますが、過去には異界を保有するほどに強大な第三種同士が争ったという記録も存在しています。そしてそれらの幾つかにおいて、彼らが異界の支配を奪い合ったという攻防が記されていることがあります。
異界の支配を奪うというのは、その空間をより強い自己で塗り替えるということであり……あるいは異界を組成している第三種の精神体、その末端へ干渉して別の思想に洗脳すると言ってもよいでしょう。とにかくそのようにして異界の支配が奪われた場合は、それまでの異界原理は新たな支配者に否定されるため消滅します」
そこまで語ったところで、美幸は息を吐いた。
手元の緑茶で喉を潤す彼女に代わり、晴基が口を開く。
「先程も言ったように、二件目の事件で妖仙の登場と同時に嵐が止んだというならば、それはおそらく其奴が異界の支配を奪っていた可能性が高い。折角の自ら望んだ好条件であったはずを、異界主が態々嵐を止める訳がないからだ」
その言葉尻から繋げるように、浦木も述べる。
「君たちは、これがどういうことだと思う」
蛇のような視線が、慧たちの顔を一人ずつ舐めるように滑る。
「異界の支配が奪われたのちも、異界主は神言を操り、眷属を召喚……いや復活させていたそうじゃないか」
途端に察した慧と柚葉の顔が、サッと青くなる。
その横に一人だけウーンと唸る葵を見て、美幸が苦笑いで結論を述べた。
「つまり、その異界主……仮称ジンゴサンの操っていたという“神言”。それは異界内部のみに存在する異界原理では無かった……異界のみならず、外の通常世界でも行使できる可能性があったということです」
これには葵も合点がいった様子で顔を上げる。それを余所に、晴基が独り言を呟くかのように続けた。
「……最早それは、神々が持つ権能の領域だ。自然科学が台頭し、神秘や信仰が薄まったこの時代にあって、それほどに強力な第三種が新生するなど……異常事態にもほどがある」
その言葉の後半は、呻くような重いものである。
最初に彼らが何故色めき立っていたのか、その背景がこれで慧たちにも完全に共有された。
(たしかにこれは……思っていたよりも大事だ)
ひとり息を呑む。ちらりと見渡せば、部屋の全体が緊張した空気に包まれていた。慧の他の二人も表情が硬くなっている。
若干に顔を伏せた浦木が、なにやらペラペラと手帳を捲った。右手でそうしながら、眼鏡のブリッジを第一関節で曲げた左手親指の背で押し上げる。
「実はここ五年ほど、全国で妙な怪奇事件が増えている」
ぴくりと、誰も気づかぬほど微かに柚葉の肩が反応した。
「第三種の活動がいやに活発となっているんだ……まるで裏で何者かが扇動しているかのような印象すらある」
言う彼に、美幸も頷く。
「あなた方が遭遇した今回の二つの事件も、もしやすればその系譜かもしれません」
重々しい溜め息を吐いたのち、晴基がその鋭い視線を飛ばして話を締める。
「当事者となった諸君には警告しておく。くれぐれも注意し給え――この国で今、なにか良からぬことが起こっているのだ」
11
――かくして聴取会は終了した。
執行部の面々に頭を下げ、退座してから時計を見れば、もう殆ど正午であった。
三時間以上もの長丁場だったということになる。
「どこかで食って帰るか」
労わるように肩を叩く父親に、慧は空返事をする。
(どっと疲れたな……)
呆としながら社務所を出る。途端に夏の日差しが視界を焼いた。
手廂をしながら青空を仰ぎ、
(でもまあ、蓮のことは誤魔化せたから良いか)
そうひとりごちたところで、背後で声を荒げる者がいた。
振り返れば、葵である。
「ちょっとアンタ! うちに挨拶も無しでどこ行くつもりよ!」
社務所の出入口の前で、一人サッサと去ろうとしていた柚葉を呼び止めて睨んでいる。
「どこって……帰るんです。用は済みましたから」
葵の怒りもどこ吹く風なその言葉に、当の少女はむきーっと吠える。
幼子のように地団太を踏んで、
「アンタはうちに謝罪することがあるでしょう!? わたしに対する昨日の暴言もあれば、そもそも十年前に緋崎がしたこと、忘れたとは言わせないわよ!」
ビシッと突き差した人差し指の先で、柚葉は「はあ」と気のない声を漏らす。
そして興味なさげに葵の顔を見て、
「そうですか」
言って、そのまま反転して歩み始めた。
一蹴された葵は指差した格好のままで小刻みに震えてから、
「なにそれ! めっちゃムカつく!」
真っ赤になって後を追おうとして、颯爽と駆け付けた父親に羽交い絞めにされていた。
「おっと、落ち着きなさい」
「ちょっと清秋! 放してよ! 放して! アイツはうちに泥塗った、あの緋崎なのよ!」
暴れる娘を「どうどう」などと、馬に対するそれのような扱いで鎮める。
(正しくじゃじゃ馬娘だな……)
くだらないことを慧が思っていると、そのまま少女を御しながら清秋もまた、去り行く柚葉の背に声を投げた。
「祓い屋緋崎さん、ちょっと待ってくれないか」
その言葉に、何を思ったのか柚葉が足を止める。
変わらず暴れる葵を抑えつけながら、温和な微笑を浮かべて清秋は続けた。
「娘の言う事は気にしないでいい。因縁といっても、君からすれば先代のことだろう。ただ……それでも、二つほど僕からも聞きたいことがあるんだ。いいかな」
ゆっくりと振り返った柚葉が、小さく「どうぞ」と肯いた。
「ありがとう」
清秋は微笑むと、
「それじゃあ、まず一つ。君は十六代目代行ということらしいけれど……十七代目の彼女はどうかしたのかい」
ピタリ、と柚葉の動きが固まった。
「……というと」
表情の抜け落ちた顔でそう返す彼女に、清秋も不穏な気配を感じ取ったのだろう、戸惑ったように話す。
「十七代目。緋崎鼎さんのことだけれど……」
途端に再び反転して、柚葉は背を向けた。
そのまま、
「鼎さんは現在、消息不明です」
淡々とそれだけ言う。
その様子に、清秋は申し訳なさそうに頭を下げた。
「そうか……それは……。不躾なことを聞いてしまって、申し訳ない」
その間も、彼の腕の中では小柄な少女が大いに暴れている。
柚葉は背を向けたまま嘆息すると、
「それで、もう一つの質問は何ですか」
「……ああ」
清秋は頷き、
「当事者だし、本当なら鼎さんに連絡が付けばよかったんだけれど……しょうがない。もし君が知っていたらで良いんだけどね」
一呼吸だけ置いて、
「寄木細工の匣を知らないかい」
そのとき何か思い当たることがあったのか、柚葉のポニーテールが大きく揺れた。
「小さな、一辺十五センチくらいの正方形の匣で、結構古ぼけている。十年前に彼女が持っていってしまったんだが……その後は結局どうなったのかなと、ずっと気になっているんだ。何しろ使い方によっては、随分と凶悪な代物だったから……」
何かを思い出すように思案顔な清秋を、横目だけちらりと確認すると、柚葉はひそりと歩き出してしまった。
「あっ」と清秋が声を出したところで、
「そのご心配はいりません」
去りながら、少女は言う。
「その匣は、既に処理されています……二度と使用されることはないでしょう」
なおも暴れる娘を捕まえながら、彼はほっと息を吐く。
「そうか……。安心したよ、ありがとう」
「それでは。急用がありますので」
にべもなくそう返し、長身の少女はそのまま境内を立ち去って行った。
後にはひたすら猛獣がごとく吠える少女と、それをあやしている男。そしてそのそばで一連の出来事を傍観していた野次馬二名が残された。
「……じゃ、今度こそメシ行くか」
善治はひとつ頷くと、一緒に帰らないかと神谷親子に声をかけた。




