第初話 廻生(三)
6
脊椎反射のごとき俊敏さで蓮が振り向けば、彼の背のすぐ後ろ、息遣いさえ届くであろう近傍に、女が在った。
両手両膝を衝いてうずくまっている蓮に対し、それを見下ろすような格好で、そこにいる。
場違いなほどに、美しい女だった。
赤地に金の刺繍の、艶やかな着物を纏っている。
顔は人形のように端正で、艶のある黒髪は長く後ろに流されている。
肌はまるで透き通るようで、首元の白さが色香を放つ。
そして、女に見惚れるようにそこまで思考したところで我に返り、途端、蓮の背筋に怖気が走る。
明らかに異常だった。
惨殺死体と血の池、そして死臭が満ちた地下の一室で、知らぬ間に背後に寄っていた存在に、あろうことか見惚れるなどと……。
そんなことは、尋常ならばあり得ない。
それに気が付いてしまったからこそ、体中の産毛が逆立ち、背に氷柱を突き刺したかのような寒気――恐怖に襲われていた。
女はそんな蓮の様子を眺め、どこか満足げな声音で再び漏らす。
『――よき哉』
そして緩慢な動作で顔を寄せ、
『よき贄じゃ』
恐怖で固まる蓮の顔、そのすぐ傍まで迫った女の顔から、獣染みた異臭が呼気と共に放たれる。
それが蓮の前髪を撫ぜ、――女の口が大きく裂けた。
ニタリと厭らしく笑むように広がったその口内には、鋭い獣歯……牙が生え揃い、放たれる呼気の異臭が一際と濃くなった。
蓮の内で全直感が悲鳴を上げる。
――逃げろ!!
瞬間、放たれたように蓮は走り出していた。
先ほどまで金縛りのごとく固まっていた身体を必死に操縦し、我武者羅に出口を目指した。
血の池に足を捕られて一度滑り転ぶも、腕や脚、体中を使って慌てて起き上がり、脇目もふらず走りゆく。
もはや体中が血色の液体でビッショリと汚れていたが、そんなことにまで気は回らない。
思考は漂白され、生存本能のみに支配された体はひたすらに手足を動かした。
やがて血と死臭で満たされた小部屋から抜け、観音扉の中を走り出る。
また転びそうになるも、なんとか寸前で立て直す。
だいぶ暗くなった視界のなか、ただひとつ夕陽を漏らす、歪に空いた穴が視界に飛び込んだ。
一も二もなく、その傍まで駆け寄る。
そこで一度足を止め、なんとかよじ登るルートを見繕うために壁へ目を遣ったところで、唐突に蓮は血を吐いた。
(は……?)
咄嗟に口元を抑えた掌、そこに溜まった鮮血を呆然と見るも、続けてやってきた衝動に、一度、二度と咳き込み、地面に血が舞う。
脂汗を流しながら顔を上げた彼の顔は、目元からも涙のように止めどない血を流しており、それは末期の死病患者のようだった。
唐突な出来事に停止する蓮であるが、彼の耳に、己の荒い息の他の音が飛び込んでくる。
ひた、ひた、……と。
後方で、緩やかに近寄るそれは足音で。
気が付いたときには、彼は絶叫を挙げながら壁に取りついていた。
土壁に埋まった硬い石で肌を擦り切ろうとも躊躇せず、ただ我武者羅に手足を動かした。
ひたすら地上を目指し、息をする事すら忘れてよじ登る。
そして、爪の割れた傷だらけの指がついに穴の縁に届く。
(これで……)
助かる、そう思ったその時、蓮の背筋を糸が張り詰めるような感覚が走る。
直感に従って慌てて飛び避けるように体を穴の外へと放り出したが、それは一足遅かった。
ちらりと振り返った彼の目には、その背後、穴の底で巨大な獣の脚に変貌した腕を振りかぶる、あの女の姿があって。
次の瞬間、轟音と鮮血、そして想像を絶するほどの痛みと共に、蓮は空中を舞っていた。
女が伸ばした巨大な爪が脚を引き裂き、あるいは潰し、その反動で以て、まるで幼子に放られた軽い玩具のようにして蓮は地上の境内、その向こうへと飛ばされる。
空をゆき、林の手前、境内の深奥に拵えられた祠を叩き壊すようにして落地する。
「が、あッ……」
悲鳴ですらない呼気が鮮血と共に口から飛び出る。
痛みで霞んだ視界の中、己の状況をなんとか確かめようとする蓮だったが、彼の状態は絶望的なものだった。
視界に放られている腕はあらぬ方向へ曲がっているし、感覚のない下半身に至っては、半分の脚が千切れ飛び、もう半分は潰れて肉塊となっていた。
どくどくと、流れゆく血液が地面に広がり、染み込んでゆく。
そしてその向こう、沈みゆく夕陽の中、地に空いた穴より静かに這い出る女の姿が辛うじて目に入る。眼鏡は吹き飛ばされた際にどこかへ消えたため、視界も非常に悪かった。
(……嗚呼、死ぬのか)
血が足りぬからであろうか。事ここに至って、蓮は割合と冷静な意識で現実を俯瞰している己に気が付いた。
(こんな死に方は、厭だなあ)
霞んだ視界、赤金の大気のなか夕陽を背にして歩み寄ってくる女の影。それを静かに眺めながら、少年は生を想う。
(死にたく、ない……)
どこか胸の底のほうで熱い何かがひとつ脈打った。
(まだ……生きていたい)
薄くなりゆく意識の中、もう死ぬと予感していてもなお、生を渇望する。
そして女の影が色濃くそばまで寄ってきていることに気が付き、愈々もって「もうだめか」と思ったその時だった。
《――生きたいか?》
不可思議な声が、彼の脳裏で静かに波紋した。
7
蓮は気が付いていなかったが、彼が女怪に吹き飛ばされて落地した際、叩き壊された古い祠の中からひとつの遺物が転がり出ていた。
それは古く錆びついた一本の鉄剣だった。赤錆に腐食されたそれは、みすぼらしい鉄棒となったその身を祠の破片の中、地へと横たえた。
そして瀕死の少年の垂れ流した血液が、地を伝い、剣の下へと広がってゆく。
彼の血が到達し、刀身に触れたその瞬間、ただの鉄塊だったそれが突如として生命を得たかのように震えだす。
地に溢れた鮮血を、刀はするすると呑み込んでいく。
そうして、――その内で深い眠りについていた魂が、七十余年の時を経て覚醒した。
《――生きたいか?》
唐突に脳裏に響いたその声に、蓮はすぐには反応できなかった。
そもそもとして意識が朦朧とし始めていたこともある。だがなによりも、その声が、どうにも聞き覚えのあるものに思えてそちらに意識が飛んだのだった。
声はおそらく男のものだったが、低く重く、しかし滑らかなそれは、若人のようでもあり、老爺のようでもあった。
声は繰り返す。
《生きたいか?》
不思議なことに、蓮のぼやけた視界の中、すぐ傍まで寄っていた女の影は静止している。まるで時間が止まったかのように、周囲の音もすべてが消え去っていた。
そしてこの段に至り、ようやく蓮も反応を返した。
(生き、たい……)
掠れた思考で、そう応える。
聞き入れた声は《そうだろうとも……》と肯くと、まるで待っていたかのような声音で静かに語る。
《で、あるならば――》
どこか、胸の底で熱いものが一際大きく脈打った。
蓮がなにか疑問を覚えるよりも早く、声が脳髄の深くに波紋する。
《――ただ己を受け容れろ――》
それを最後に、蓮の意識は暗転した。
8
かつて地域一帯を縄張りとし、赤沼様と恐れられた祟り神は、数百年ぶりの地上を殊の外に楽しんでいた。
だから封印を解いたと思しき贄――久方ぶりの新鮮な贄が恐怖の儘に逃走したときも、敢えてゆったりと追い掛け回した。
夕焼けの中、かつての境内の端で虫の息となった贄のもとへと歩み寄る。
この夕陽も――誰そ彼の色も、実に気分を良くした。この色は鮮血に通じ、そしてだからこそ逢魔が時とは彼女の支配する時間だった。
久方ぶりに解放された妖力が、すでにこの山全体を呑み込んで異界化している。
万が一にここから更に逃げ出されようとも、贄は何処に行くとも出来ない。ただ女の無聊を慰める程度の鬼ごっこが行われ――それで終いである。
この新鮮な贄は、実に質が良い。豊富な霊質はされど自然なままに無着手で、おそらく生まれつきの状態のままここまで育ったのだと思われる。
この贄ならば、ある程度以上に衰えた能力を回復させることが可能だろう。
したならば――。
まずはそう、契りを破って封印なぞを行った、あの神官の一族を根絶やしにしなければなるまい――。
これから先の青写真を描き、祟り神は静かに嗤った。大きく裂けた獣の口から洩れるそれは、何処から見ても嗜虐的な悪意ある笑みだった。
『さあ――』
女の歩みが止まる。すでに贄のすぐ傍、手を伸ばせば届く距離にまで近づいていた。
『仕舞いかえ?』
愉悦の混じった声が、哀れな少年の上へと落ちる。
身動ぎひとつしない彼の様子を、そのまま足の先より頭髪の上までじろりと眺めてから、満足げにひとつ頷いた。
『なれば、――神饌の本懐を成すがよい』
女は身をかがめ、獣のそれへと変じた巨腕を伸ばし――
銀閃。
一瞬の後には、何尺も離れた後方へと一足で飛び退いていた。
女は――祟り神は、右腕を……斬り飛ばされた右肘より先の空間を、唖然とした様子で凝視する。
『……何じゃ?』
呟いたところで、さらなる異変に気が付いた。
夜の匂いだ。
深く静かな夜の匂い、濃密なそれが、先ほどまで虫の息だった贄の少年、その身体を中心にして渦巻いている。
異界として黄昏時に固定する女の妖力、その支配を振り切って、より強大な妖力がそこより溢れ出す。
流れいずる夜の暗闇を背負って、少年――の姿をしたモノが、緩やかにその身を起こした。
顔は伏せられ、表情は見えない。彼が右腕を伸ばせば、折れ曲がっていたそれは速やかに快復し、また千切れ、潰れた下半身も肉が盛り上がって再生する。
右腕をそのまま横に伸ばし、転がる鉄剣――みすぼらしい鉄棒を拾えば、それもまた闇が纏わりつくと共にみるみるうちに本来の姿を取り戻す。赤錆に腐食された鉄の棒が、立派な鞘と柄、そして金銀の装飾が施された神剣へと変貌した。
さらには装いも汚れ破れた洋服から、いつのまにやら黒い着物姿――闕腋袍に袴へと変わっている。拾い上げた大刀を指で撫ぜれば、その袖口からは紅の単が顔を出した。
そうして男は夜を纏い、宝剣を手に静かに立ち上がる。
それを睨めつけて、黄昏の女は誰何した。
『誰そ、かれ――』
女に目もくれずに茫洋とした様子でただ佇んでいた男が、その声でようやく振り返る。
ゆっくりとその瞳を向けて、
『――な、に?』
刹那の後、女の視界で天地が転がった。
かつて赤沼様と恐れられ、封印され、数百年の後に解放された女怪は、そして新たに何を成すこともなく、復讐も果たせず、呆気も無く――
――一刀のもとに斬り捨てられたのだった。
女の首が肩から落ちると共に、その身は傷口から黒い塵となって消えてゆく。同時に異界と化していた周囲が歪み、元の位相へと世界が正常化していく。
納刀した男は、ただ黙って境内の入口へと歩みを進めた。
やがて本物の夕陽が現れたところで立ち止まる。
彼の前には夕焼けに沈みゆく、赤沼町の全景があった。
「……ふ、ふふふ」
目前の世界を眺め、男の喉から低く音が漏れる。
そしてそれは時を置かずして哄笑となり、肩を震わせながら男は両腕を広げた。
「嗚呼――成功だ」
海の向こう山間に溶け行く太陽も、東より滲みゆく夜天の星々も、その全ての世界を抱え込むように――己の存在を誇示するように、男は吐息した。
「己は、帰ってきた――」
男の瞳は紅く染まり、瞳孔が縦に割れている。口内の犬歯は鋭くなり、その身体の隅々まで古き夜の気配、濃密な鬼気が湛えられている。
顔かたちこそ変化していなかったが、しかしそこに居る存在は、やはり先ほどまでの渡辺蓮とは異なるものに違いなかった。
――こうして、人知れずに古き魔王が復活を遂げる。
第初話 廻生 /了。
○あとがき
あまり長いあとがきは作品が敬遠される由縁であろうという点は作者も承知しておりますが、本作品に関わる注意喚起の意もございますので、この初話においてのみ掲載させていただくものといたします。
まず、タイトルにつきましては「もっけでん」や「もののけでん」、又は「ぶっかいでん」等、お好きなようにお読みください。湯桶読みではありますが、作者自身はもっぱら「もっけでん」と読んでおります。
また本作品は過去、今よりも輪をかけて未熟で考え無しな時期に一度書きかけ、プロットも物語の方向性も不明確なままで十数話ほど公開したのち、胸中に湧き溢れるコレジャナイ感に連載を中止した某二作品(本編と外伝的続編)の改訂版に当たります。
改訂作業やストック補充を突き進めようとしたものの、結局はプロットの練り直しや一からの書き直し等を幾度となく繰り返した結果、初出からは八年、休載からは七年越しでの再公開と相成りました。
とはいえ実際のところは断筆の期間が長期に渡っており、現在ストックは存在しておりません。リハビリを行いながらの執筆となりますため、多少の改稿が比較的頻繁に行われますことを先にお詫びいたします。
改稿につきましては、誤字脱字や微細な表現の修正等の「小さな改稿」はステルスで行いますが、描写の加筆や修正等の「大きな改稿」の場合は該当部分のあとがきに記録を残すほか、作者ツイッターにて掲示いたします。
作者のツイッターアカウントは本作の目次や各話の下部、作者マイページにリンクがございます。
なおツイッターでは更新の延期や休載に関する告知も行います。
これは、――作品タグに(不定期更新)と掲げつつも基本的には一週間ごとの更新を目指しているのですが――、完全な日曜作家なため、執筆時間の都合がつかない等のやむを得ぬ事情によって更新日の延期やその週の休載が間々あるためです。
最後に創作の定型句ではありますが、当作品はフィクションであり、実在の人物・団体・思想等とは一切関係がありません。
作中世界は独自の構造と歴史を持っており、実在する世界との間には当然のように剥離がございます事もご了承ください。
お伝えします事項は以上となります。
長々と書き連ねましたが、なにはともあれ、よろしければお暇なときにでも改めてお付き合い下さいませ。
令和二年八月 犬尾南北 拝
(同年十二月、三年十月、四年一月、追記編集)