第捌話 悪魔(二)
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慧と葵たちが改めて案内された場所は、廊下をより奥へと進んだ先の部屋であった。
その手前、どことなく薄暗い廊下に別な若い男が控えていて、案内役と合流すると二人して襖の横へ並び片膝をつける。
そうして頭を下げると、ひどく畏まった様子で言葉を掛けた。
「神谷葵、不死川慧。両名と付添人二名が到着いたしました」
一拍して、内側から低い声が響く。
「入れ」
途端に左右の神職が戸を開き、中の様相が現れた。
構造は、よくある座敷である。先ほどの待合室よりかは幾分も広いが、部屋自体の差異はそれほどに無い。
そこに長方形の平机が置かれている。
座敷の奥にどん、と在るその向こうには三人の人間が一列して着席し、此方をじっと見つめていた。そのずっと手前に座布団が三枚並んでいて、内ひとつには見覚えのある少女がすでに座っている。各家の正装をしてきた慧たちと異なって、真新しい第三高校の制服姿である。
机の中心で両腕を組んでいる男が、重々しく喉を震わせた。
「出頭ご苦労。そこへ座りなさい。付添人は端の席へ」
先ほど襖越しに聞こえた声と同じものである。執行部だろう三人は揃って黒いビジネススーツ姿なのだが、この男だけ全身の盛り上がった筋肉で生地がはちきれんばかりに張りつめている。背丈も高く、おそらく立てば百九十センチを超えるのではなかろうか。角刈りに太い眉、猛禽類のような鋭い眼光と三拍子揃っていて、もはや一昔前のヤクザ者にしか見えない。
思わず唾を呑みこんだ慧の肩へ手を置いてから、善治と清秋は部屋の隅に並んだ座布団へと歩いていく。
隣の少女もさっさと前へ進むので、慌ててそれに続いた。
「失礼します」
一度頭を下げてから、慧たちも着席する。左端の柚葉に対して葵が右端へと座ったので、出遅れた慧は自動的に少女二人に挟まれる形となった。
「あら、両手に花ですね」
柔らかい声が掛けられた。
慧がハッと顔を上げると、大男の右隣、机の左端に座る女性がにこやかに笑みを浮かべていた。
「事情聴取といっても、ただお話を聞かせていただくだけです。そう緊張なさらないで、どうぞ楽になさってくださいな」
言って、上品に微笑む彼女は隣の男とは別の意味で胸元が窮屈そうである。思わず向いた視線をそっと逸らしたところで、机の反対側に座る男が声を上げた。
「時間は有限だ、さっさと始めよう」
神経質そうな細面で、銀縁の眼鏡を掛けている。成人男性としては平均的な体格なのだが、隣の男と並ぶとどうにも頼りなさげに見えてしまう。
そこまで観察して、慧は気が付いた。三人ともが非常に若い。おそらく二十代の半ばを越えた者はいなかった。
一般的な社会人を基準とするならば、大学を出たばかりの新入社員といったところか。ちょうど慧の実姉と同年代だろう。
(執行部といっても、そのうちの新人というわけかな)
そう思えば、なんだか緊張もほぐれてくる。
そうだ、左の女性も楽にしろと言っている。事前に文書で報告した内容を、念のためにもう一度話すだけなのだ……自然体で良い……。
そんな心の内を見計らってか、彼が落ち着いたところで当の女性が両手を合わせた。
「それでは自己紹介からしましょう。私は大春日美幸。気軽にミユキちゃんと呼んでくださいね」
軽快なウインクを飛ばす彼女に、慧は曖昧な笑みを返す。ふと気になって視線をやれば、横にいる巫女服の少女はしらーっとした顔で興味なさげに座っている。もう一方の少女はといえば、こちらも澄ました表情のまま微動だにしていない。
「続いてそちらの、見るからに偏屈そうな方が大津浦木さん」
眼鏡の男が鼻を鳴らした。
「そして、こちらの無駄に逞しい方が……」
美幸が中央の男へ掌を向けるなかで、慧は小さく息を吐いた。
卯花の大春日家に山鳩の大津家、とするならば裏八色のなかでは中流だ。どうやら本当に新人が遣いに寄越された形らしい。
そのように思い込み、安堵して――
「土御門晴基だ」
だから響いた男の低音に、知らずビクリと肩を揺らした。
(――土御門だと!? エリート中のエリートが何故!)
晴基は表情の固まる慧の顔をジロリと睨め付けると、
「何か?」
言った彼と慧とで、途端に蛇と蛙が如き見つめ合いが展開される。
少年の胆がキュッと縮まり、遠く笑い声のような耳鳴りが頭の奥でして……しかし、数秒もせずに美幸の言で打破された。
「こら、セイキくん! そうじゃないでしょう。彼が不思議がるのは当然です」
幼子を叱る若母のような言葉を吐きだす彼女に、ぎょっとして空気が揺れたのは慧と葵、柚葉に付添人の父親二人だけだった。
浦木はウンザリしたように眉を顰めているが彼女の言動を正そうとする素振りはなく、そもそも当の本人である晴基はなんら動じぬ顔で座っている。……その様子が美幸の言葉と相まって、叱られるも開き直った童子にしか見えなかった。
「ごめんなさいね。この人は極端に口下手なんです。それに本来なら私と浦木さん二人だけのはずだったんですが、……なんで付いてきたんでしょう」
美幸はそうして頬に片手を当て、心底に不思議そうな声を出した。その顔を見やる晴基はというと、どことなく複雑そうな面持ちである。
「全くだ、どうせ気づいてもらえんくせにな」
追い打ちのように吐き捨てた浦木の言葉で、とうとう晴基も肩を落とした。
「……なるほどね」
隣で葵が呟いた。
慧も頷きたいのを我慢して、改めて目の前へ並ぶ三人を見る。
(だいぶ気安い関係みたいだな……)
いくら三人が若いとはいえど、実に意外な驚きであった。
日本咒術協会の執行部、それはつまり天皇の膝元で護国を担う一級の呪術師であると共に、対妖怪、対呪術師の戦闘におけるエキスパートである。生半可な人間では拝命なぞ望めるはずもない要職だ。
職務者に要求されるものは才能は勿論のことながら、最も重く見るべきは祖先から継承してきた技術である。それは歴史ある血筋や伝統を持つことでもあり、大抵の場合において、すなわち裏八色の門人であることだった。
転じると彼らの生家である裏八色は、いわば全国五十万人を超える呪術師の上に立ち、それを監督する側の特権階級的な身分すら持っていることとなる。
そんな、古臭く封建的であろう環境で育ったはずの彼らが、まさか家や性別の垣根を超えた繋がりを持っているとは……。
(どうにも、先入観が強かったか)
ちらりと左隣に座る少女へ視線をやる。
昨日に緋崎であると名乗った彼女は、しかし目の前の三人と異なって緋崎の姓を持ってはいない。それはむしろありふれた事柄で、血統を重んじる一門ほどに直系以外は名を隠す傾向がある他、裏八色は単純にどの家も正統血族より門弟の方が多いという現実がある。
とはいえ妙に攻撃的な柚葉の態度は如何にもな「らしさ」があった。ただの門人な可能性が高い彼女までもこのような性質だとすると、やはり名家というのは驕り高ぶるものなのだろう……と、今朝までの慧は考えていたのである。
(この三人が特殊なのか……それとも緋崎が特殊なのか)
そのようなことを思ったところで、短い茶番劇が終わる。
「いい加減に始めるぞ」
突き放すように言って、浦木が鋭い視線を慧らへ寄越した。
硬質な声が言葉を紡ぐ。
「君たちの報告書は読んだ。そこで改めて、単刀直入に訊くのだが」
眼鏡を透かして冷たく見える瞳が細まる。
「――本当に異界だったんだな?」
知らず背筋を伸ばしていた慧は、素早く首肯した。
「はい、たしかに異界でした」
その横で、ふてぶてしく葵が続ける。
「位相がずれてて、それにすごく気持ちわっるい空間だったわ。あれが異界じゃなきゃ、他に何だって話よ」
「ちょっ、おい」
慧が慌てるが、浦木は特に気にする素振りを見せなかった。
「そうか」
素っ気なく呟いて、ふむと顎に手を当てる。
「面倒だな」
眉を寄せる彼の隣で、腕を組みなおした晴基が問うてくる。
先ほどまでの悩める若者はすでに鳴りを潜め、入室当初の厳格そうな貫録を早速に取り戻していた。
「最初の一件。暫定名称トウヤサマの異界は」
強面の男の瞳が、意味ありげに柚葉へと注がれた。
「君が対処したんだったか」
「はい」
静かに頷いた彼女の横で、慧だけはその虚偽に気が付いていた。
(たしかに俺と神谷は蓮から聞いたままにそう書いた。……でも実際は剣王鬼だ。それを宗像さんは知っているはず)
動揺を外に出さないよう努めながら、慧は頭脳を回す。
(まさか、緋崎も剣王鬼のことを隠している……? 何故だ)
そんなことはいくら考えても分かろうはずがない。しかし同時に確かなこととして、これは僥倖でもあった。
昨日からずっと慧を悩ませてきた最大の問題がひとつ片付くのである。――呪術協会は、まだ蓮と剣王鬼の関係を知らない。
つまり、協会への警戒はある程度解いて良いということだ。
その思考が慌ただしい間にも会話は続く。
「ひとつ訊きたい」
晴基と柚葉の見つめ合いは、いつからか睨み合いへと変じていた。
彼の瞳がどこか剣呑な色を宿す。
「緋崎の犬が、そんなところで何をしていた」
ぴたり、と慧の考察が停止した。
(……緋崎の、犬?)
視線を上げれば、葵も怪訝な顔で柚葉を見やっていた。
当の少女はというと背筋を伸ばした綺麗な姿勢のままで動じていない。――否。膝の上の拳が、一瞬間だけ微かに震えたのを慧は見た。
「任務がありました」
落ち着いた声音で答える彼女に、晴基はすかさず言葉を返す。
「どのような」
「……家門の秘事に当たります。お答えできません」
更に何かを言い募ろうとしたところで、またも美幸が遮った。
「セイキくん、ひとまずそれ以上は不必要でしょう」
途端に口を噤んだ晴基を横目に、続ける。
「それに問題は別にあります」
頷いて、浦木が引き継いだ。
「昨日の二件目。異界持ちだけならず、同格以上の三種が乱入したということだが……本当か?」
「本当よ」
葵が答える。変わらず失礼な物言いだったが、なぜか誰も気にしていないので慧だけがソワソワと気がかりなばかりである。
「……妖仙天城真君」
気を取り直した晴基が、どこか呻くように呟いた。
「聞き覚えのない名だ」
美幸も「ええ」と同意する。
「現在、資料室が大陸の文献を中心に調査していますが……」
彼女の瞳が、す、と慧たちへ滑る。
「改めて先日のあらましを、いえ、一件目から順にご説明いただけませんか」
また口を開こうとした葵を手で制して、慧が答えた。
「まず、どんな願いも叶えてくれるという交霊儀式が、噂話として近郊の小学生の間で流布していました――」
先週と、そして昨夜に報告書へとまとめた内容をそのまま口に出す。
そうして時折に挟まる質問へ答えながらも、慧は客観的な事実だけを並べた。剣王鬼や蓮の名前は欠片すら出さなかった。
先週における「とうやさま」の事件から始まり、ついには昨日の事件へと至る。そして異界主である「ジンゴさん」が刺殺されたことで異界から解放された、という最後の下りを終えたところで口を閉じる。
じっと瞑目して聞いていた美幸が、瞳を開けると少女二人の顔を見た。
「お二人とも、以上の話に相違はありませんか」
葵と柚葉が各々に頷く。
「そうですか……やはり、特徴に聞き覚えはありませんね」
困ったように眉尻を下げる彼女の二つ横で、「ともあれ」と浦木が言った。
「本日はご苦労、聴取はこれで終わりだ。三人ともに報告書と語りで差異はなし。異界持ちの続けての出現は異常だが、相互に関連性はなく原因は不明なうえ、どちらも既に討滅されている」
手帳にメモを取っていた手を止めて、彼は顔を上げた。
「あとはもう、昨日以降は行方知れずというその三種、それについて各地に情報提供と警戒を呼び掛けるくらいだろう」
そして息を吐く。
ふと、黙ったままで身じろぎ一つしない隣の男へと声を掛けた。
「土御門。君からは何かあるか」
言われた男が、伏せていた視線を上げた。
「嵐が」
それだけ零して、しかし躊躇うように口を閉じて……一拍置いてから慧を見た。
突然の眼光に肩が跳ねる。
「例の第三種が登場したとき、嵐が止んだといったな」
問われたと思った慧が肯くが、晴基は繰り返す。
「実際、出現と同時に嵐が止んだのか」
何かを執拗に確認しようとする物言いだった。
物理的圧力すら覚える眼力にひるみながらも、再び肯く。
「……そうか」
彼は目を伏せると、重々しい溜め息をついた。
そして、
「異界の支配、奪われていた可能性があるな」
そう言い放った。
どきり――と慧の心臓が跳ねたが、すぐに(いや、蓮とは繋がらない)と理性が落ち着かせる。
「オイオイ」
浦木が机へ身を乗り出すようにして、
「待てよ、異界主はその後も眷属を召喚していたんだぞ」言ってから、「まさかお前……」
愕然とした顔を晒す彼に、晴基は頷いた。
「異界原理ではなかったのかもしれん」
途端、音を立てて美幸が腰を上げる。
「そんな、それでは……大事ですよ!」
俄かに騒ぎ出した三人を前に、けれど慧たちは首を傾げていた。
(たしかに剣王鬼は異界を奪えるほどに強大だけれど……)
どうにも、それだけで騒いでいる風でもない。
振り向けば、部屋の隅で傾聴していた父親二人組も厳しい顔で固まっている。
「ねえ!」
しびれを切らした葵が立ち上がっていた。
「異界原理じゃなかったら、何か問題なの?」
ハッとした風に美幸がこちらを向き、
「いえ、それは……そうですね」
呟いてから、彼女は残りの二人を見る。
目と目で会話するように頷き合ってから、浮かせていた腰を下ろした。
姿勢を正すと、葵へも座りなおすように勧める。
そしてそれを確認すると、
「まず、お聞きしたいのですが」
一転して落ち着いた声で語り掛けてきた。
「そもそも第三種……第三種生命体と我々が呼んでいるものたち。怪異を為す妖怪な存在を、あなた方はどのように認識していますか」
静かな瞳が慧たち少年を見据えた。




