第漆話 如件(九)
19
頬を打つ冷たい感触に、蓮の意識が浮上した。
瞳を開ければ、視界一面の黒雲がある。
時折に光と轟音が漏れるそこから、激しく雫が降ってきていた。
雨だ。
(僕は……)
思ったところで、心臓を抉り出された光景が閃光のように蘇った。
(ッ――……あれ?)
瞬間に思考が強張るが、どうにも痛みがやってこない。どころか、全くとして身体が動かせなかった。
それにそもそもとして、先ほどまでとは明らかに場所が違う。
(これはつまり……)
蓮の理解が至ったところで、脳裏に響く声がある。
《ようやく気がついたか》
老爺のようでもあって若人のようでもある、不思議な感覚の低い声――剣王鬼だ。
(……それはこっちの台詞だ。そっちこそ、随分と起きるの遅いじゃんか)
憮然とした声色となる蓮である。
前回と同様に、今回も剣王鬼が早く目覚めてくれていれば心臓を抜かれる痛みなど経験する必要が無かった。
そんな少年の不機嫌を、しかし当の本人は全く気にしない。
《瘴気が満ちていればな》
むしろ、蓮の誤認識の方をこそ指摘するような声音であった。
(いや、異界ってのは瘴気が満ちているもんだって言ってたのもアンタだぞ)
《大抵はそうだがね》
思わず反論するが、剣王鬼は静かに続けた。
《どうも此処は瘴気が薄い。無い訳じゃないが……妙な感覚だ》
微妙に面白がっているような雰囲気がする。
(まあ、いいや)
蓮は心の内でため息を吐いた。
ともあれ、護衛も無事に覚醒した。心臓は抜かれたが、それだけだ。こうして生きている以上は大丈夫な怪我だろう。なにしろ剣王鬼にかかれば千切れた足すら瞬く間に再生するのだ……流石の魔王様である。
――ひとまずこれで、僕はまだ楽しめる。
蓮は気分を入れ替えると、
(それじゃあ、折角だしこの世界を探検するか)
言って起き上がろうとして――動けない。
(……あの、動けないんですけど)
相変わらずビクともしない身体に狼狽える少年に、呆れた声が返ってくる。
《実に汝は大虚けだな……無理に決まっているだろう》
(でも今までは……)
《心臓だ。腕や脚とは訳が違う。面倒な傷を作りおって……》
溜め息をつきそうな気配。どうも少し憤慨している。
そういう物なのか、と蓮も納得せざるを得なかった。
たしかに心臓は古くから重要な器官として神聖視されてきた経緯がある。精神と直結しているとして近代まで医学的にも心臓手術は忌避されていたし、アステカ文明で神への供儀は生きた人間の心臓だったことは有名である。エジプト文明でも心臓は魂の座であると考えられており、ミイラに加工する際にも心臓だけは体内へ残していた。……
更に剣王鬼が説明するところによれば、抉られた心臓が取り込まれた――つまり奪われたという事実が良くないらしい。
ただの欠損ならば細胞の増殖で補えるが、実存を奪取されるとそれでは修復できないという。
(それじゃあ、僕は今後は心臓無しで生きる心臓ナシ人間に……?)
怪人系のUMAっぽくて、それもチョットいいかもしれない……などと考える蓮だが、剣王鬼は嘲って否定した。
《そんな人間が居るものか》
そして再び説明を始めるが、どうにも難しい言葉ばかりだ。極小の結界を生成して疑似的な異界原理を組成して……なぞと連ねられても理解に困る。
(とにかく、一応は心臓が治るのね)
胸の内で首を傾げながらのそれに剣王鬼は肯いた。
ただし、故にこそ多少の時間が掛かるのだという。
噛み砕けば、蓮の欠落した魂魄を無から修復するに等しい大作業であるらしい。
どちらにしても、なんだかよく分からない物言いである。
以前に口裂け女と対峙した際に魔法っぽいものを詠唱していたが、やはり彼はそういう技術にも通じているようだった。
改めて見るに、この剣王鬼という存在の底が全く知れない。
(そもそも、まだ出会ってそんなに経っていないか……)
先月の末に取り憑かれて、そこから今日でようやく二週間である。そして和解してからは一週間、だが先週は白夜の妨害で殆ど会話すらしていない。
実質的な触れ合いは合算しても数時間程度だろう。
それにしても、実際として蓮が剣王鬼に対して知っていることは非常に少ない。
まず神代から生きていて、年齢が少なくとも二千六百歳以上。親しい知り合いに猫又の白夜が居る。白夜は人間嫌いだが、剣王鬼はそうでもない。
剣の王と名乗るだけはあって剣技は素人目にも冴え渡っていて、更には海外製の魔法を扱える。……これについては後にうろ覚えの単語をインターネットで検索した結果、どうもラテン語のようだと蓮は当たりを付けていた。
(あとは……)
七十数年前の戦時中に魂だけの状態で神剣に封印されて、現在に至るまで赤沼の山の廃神社裏手の祠に祀られていた。
(これくらいか)
しかし最後の事情……そこがまた、謎なのである。
剣王鬼に取り憑かれた直後の一週間では、蓮は解放を望んで行動していた。勿論あの廃神社についても調査している。
結論として廃神社に対しては、ある程度の当たりは付いていた。
町誌にて「町名の由来は諸説あり不明」と書かれている箇所に、調査当時の古老の覚えとして「かつて、ずっと以前には赤沼という名の神社があった、と聞いたことがある」という言説が触れられていた。しかし記述された文書は無く、実在性は不確かであると……。
それだと蓮は思った。
あれこそがその赤沼神社であって、封印後数百年、人々の記憶から風化して消え去った。蓮が何年も予感していた赤沼の血塗られた過去、それこそがあの廃神社で、そして祟り神であったのだ――。
けれど問題は――何故、そこに更に剣王鬼までが改めて封じられていたのだろう、ということである。
剣王鬼に関しても調べてみたのだが、古代や神代にまで遡ろうとも「剣王鬼」と称される存在が出てこない。郷土資料を中心に調査したのだが、一つも説話が無かった。こうなってくると、どうにも彼は赤沼町の近辺に縁を持つ存在というわけではないらしい。
わざわざあんな場所に新しく祠まで建てているくせに、おかしな話である。
……そう、廃神社自体は確かに百年以上を放置された朽ち具合であったが、比して剣王鬼の祠は明らかに新しかった。
原形のまま崩れていなかったし、精々が数十年程度の放置である。
つまり、剣王鬼が剣に封印された後に安置するために新設した祠なのだ。
……一方で、その剣もまた謎の一つである。
剣王鬼が封印されていたというそれは、金銀の細工と房飾りという豪華な装飾が施された美しい直刀である。おそらく日本刀の類ではあるのだが反りが無く、一見の雰囲気としては歴史の講義資料で見た覚えのある古代の刀剣に近しい。
復活以後、剣王鬼はその剣を腰に吊るして使用しているが、そのあまりに自然な様子を見る限りでは元からの愛刀であるようだった。……封印されていたのに、である。
何をどうしたら、自分の刀の中に封印されるのだろう。
全く考えつかない。
ともあれ、なぜか仄かな親愛すら覚え始めている蓮であるが、実のところ剣王鬼に関しては知らないことばかりなのだった。
そこまで考えて、蓮は逸れた思考を戻す。今に考えなきゃいけないことでもない。
現状を確認すれば、心臓の再生に時間が掛かる……それまで蓮の身体は動かせない、ということだったか。
つまらないな――そう浮かべてから、そういえばと思い至る。
(動けない間にアイツに襲われたらどうするの?)
自分の心臓を奪い取ったばかりの怪異を想起して――いや、そもそも動けないのに、剣王鬼はどうやってあの場から抜け出したのだろうか。
《転移の術だ》
簡潔な返答だった。あまりにあっさりと述べられたそれに(へ?)と呆ける蓮に、加えて剣王鬼は続ける。
《異界の主に関しても問題はない。千里眼で見張っている》
数秒ほど置いてから、蓮は素っ頓狂な声を上げた。
(転移って……瞬間移動ってこと!? それに千里眼!? マジで!?)
興奮する彼を、剣王鬼は面倒そうに受け流す。
けれど変人奇人の称号を欲しいままにする少年が、その程度で追及を諦めるわけも無かった。
なにしろ身体が動かせなくて暇なのだ。
(ねえ、是非僕にも千里眼の視界ってやつを見せてよ!)
強請る彼の声は諦めを知らない。……以前にもウザ絡みをされた剣王鬼である。その経験からか、割合とすぐに折れた。
無言のまま、千里眼の視覚情報を蓮の神経へと流す。
(おっ、これが有名な――え?)
曇天を眺めていた視界がぶれたかと思えば、霞が晴れるようにして唐突に別な景色が立ち現れる。しかしその光景に、はしゃいでいた蓮が固まった。
視点は空中にあるようで、稲の枯れた水田が広がった農村、その広場を見下ろすように俯瞰している。
そこには争いがあった。
雄牛の頭をした筋骨隆々の怪物……妖怪の牛鬼だろうか、あるいはギリシア神話のミノタウロスにも似ているが、下顎が無い。それが四体、縦横無尽に暴れている。
怪腕が唸って空気を裂き、泥水が跳ねて、殴られた地が割れる。
鋭い角のある頭を振り回し、血走った瞳をグルグルと回して、尾を激しく鞭のように放つ。
そして――それらの渦中には、見知った顔ぶれがあった。
四人の少年少女。
二人の少女が攻勢で、二人の少年が守勢である。
小柄な少女が駆け回り、拳を光らせて殴り掛かる。
長身の少女がそれに続いて火の玉を放つ。
長身の少年は経典を広げて、何やら手と指で印を結んで読経している。
小柄な少年がその陰で、ひたすら何かを唱えていた。
(これ、は……)
呆然とした声を漏らす蓮を余所に、剣王鬼は淡々と言った。
《未熟なりによくやっているな。坊主が毒を防ぐ結界を紡ぎ、神女二人がそこを拠点に守り通している。森の小僧の呪いも一応は介助しているか》
言葉の内容自体はけして悪し様ではなかったが、蓮は剣王鬼のその言にひやりとした物を感じ取った。
まず友人たちが巻き込まれていることを知って動揺している、そして思った以上に派手に戦っていて驚いて、だけれど一番は……素人目に見ていても彼らの状況があまり良いとは思えない。
恐る恐る、口に出す。
(でも、このままだと……)
《まあ、長くは保つまい》
あっさりとしたそれに、蓮は叫んでいた。
(なら助けないと!)
しかし、
《無理だ》
剣王鬼は冷たく言い切った。
(なんでさ! 契約は友達も守ってくれるってッ――)
《落ち着けよ。単純に間に合わないのだ》
蓮は、自分が激昂するのと反比例するようにして剣王鬼の声から熱が引いていくのを感じ取った。
《今、汝の身体は己が紡いだ結界で微妙な精度で制御している。心臓の再生が成るまでは微塵も動くことは出来ない》
(ならッ――)
聞いた途端、蓮は心のままに吐露した。
(なら、心臓なんていいから、だからッ――)
蓮は自分の寿命と好奇心を天秤にかけて、その末に好奇心を選ぶような男で、一般的な社会通念的には異端者である。が、しかしだからこそ人並み以上に友情を重んじていた。
幼少の頃からどこかずれていた自分の世界に、暖かなぬくもりを加えてくれたのが彼らなのだ。
《――……本当にいいのかね?》
数秒の後に、そんな声が剣王鬼から漏れた。
どんどんと冷たくなっていた声が更に一周廻って、なんだかゾッとするような響きになっていた。
《……黙していたが、一つ、すぐにでも恢復する術もある》
その言葉を、数拍置いてから蓮は呑み込む。
(じゃあ、なんでッ――)
《いずれは至る事ではあったが、されど此処で己から提案する事は契約違反だったのだ》
叫ぼうとする言葉を、剣王鬼が静かに遮った。
そして、
《――己の心臓で補填しよう》
後に思えばそれは、悪魔の囁きだった。
だけれど、同時にひどく誠実な悪魔だった。
剣王鬼は言う。
《汝は虚けだが、度胸がある。酔狂に過ぎるが、それでも理想に殉じる覚悟がある……》
静かに語る。
《己は人間存在が抱く、その精神にこそ敬意を抱いている》
おそらく、いっそ優しさすらそこにはあった。
《我が心臓を持つという意味は重い。以降は侵食が早まるだろう》
《それでも――友情の為に、汝は短命を更に削ると、そう言うのかね?》
果たして蓮は、――。




