第漆話 如件(八)
17
曲がりなりにも灯りとなっていた携帯電話が幻と消え、周囲は再び闇の中に閉ざされた。
その暗黒の底では、少年の両肩を掴む骨張った手の存在感だけが明晰な輪郭を得る。
背後の何者かが生暖かい吐息を漏らし、蓮のうなじを撫ぜた。
硬直する彼の耳元で、あの声が囁かれる。
「嘘は駄目だナァ……嘘は駄目だ。噓つきは大嫌いだ」
ねっとりとした低い声が鼓膜を揺らすたびに、ザワザワと体の内側が震える。まるで臓腑の表面を蟻の群体が走り回っているかの如き不快感が彼を襲う。
「君たちは私に質問し、私はそれに答を与える。そして私からの問いに対して君たちは正直に答えなくてはならない。そういう取り決めだっただろう?」
ギリギリと、肩に指が食い込んでいく。
痛みに呻く蓮の片耳に、まるで口づけするような近さで声は続ける。
「私はそういう存在だ。私はそういう妖怪なのだ」
平淡な台詞が耳を打つ。
「だから」
一拍。
「最後の部位を君から貰おう」
――その瞬間、ぞわりと背筋に電流が走る。
(逃げッ……)
腕の中から駈け出そうとした蓮の右肩が、しかしグイと異常な力で引っ張られて強制的に反転させられる。
そして、――赤熱の如き痛覚が神経を焼いた。
「――ッ」
蓮の口から絞められた鶏のような悲鳴が飛び出る。
闇色の視界はまともに機能を果たしていないが、その他の全ての感覚が状況を刹那にして脳へと送る。
(い、痛ェ……ッッ)
右肩を骨ごと握り潰す具合に掴まれた彼は、そのまま無防備な胸元へと何かを突き立てられていた。
体の正中線に沿ったそこに刺さった何かが、体内で蠢く。
噴き出す血潮のなか、グチグチと五指が臓腑を探る感触――。
(あ)
腕を入れられている――そう悟ったときには体内の侵入者は目的の物を探り当てていた。
何か、致命的なものを握り込まれる気配がして。
躊躇なく腕が引き抜かれる。
伴ってブチブチと血管が引き千切られる音がする。
見開いた蓮の視界が、唐突に暗順応を果たした。
薄闇のなかで目の前にはボロボロの布を纏った一人の男がいた。
骨と皮ばかりが浮き出た、痩せぎすの不健康そうな……しかし長身で若い男だった。
髪と髭は伸び放題で、だから詳しい年齢と顔の相は分からない。
けれど一点だけ、瞳だけがギラギラと光る。
それは確かな狂気に満ちていた。
男が構えるように持ち上げている右腕は鮮血に塗れて……拍動する何かを掴んでいる。
赤くヌラヌラと光るそれは、脈を打つたびに新たな血を吐き出している。
(僕の心臓だ――)
思った蓮の身体から、唐突に力が抜け落ちる。
崩れるようにして倒れる彼の視界の隅で、男は持ち上げた心臓をそのまま口元へと持っていく……。
蓮の意識が遠くなり……。
《知らぬ間に、何を死に掛けている》
何処かから懐かしい声が響いた。
数秒後、口元を血で濡らした男が見下ろしたときには床に少年の姿は無かった。
残された血だまりには、微かに夜の気配が染みついている。
「……まあ、いいだろう」
呟く男の瞳は変わらず狂気に光っている。
けれど一方で、どこか奇妙な色も宿していた。
男は瞑目すると、一拍置いてから背後を振り返る。
その視線の先、厩の出口の向こうで複数の気配が近寄りつつあった。
「これで完成した。私は、私の役目を全うしなければ」
18
「我々に思うところがあるようだが、今はそんな事をしている状況じゃないだろう」
何処からか現れて、柚葉の肩の上に定位置の如く腰を下ろした妖狐はそう嘯いた。
「お友達を探して、……元凶を潰さなければね」
何か声を上げようとした葵を、彼女は鋭く視線を飛ばして期先を制する。
「此処は異界、つまり敵の腹の中だ。悠長にしている暇はない」
改めてその場にいる少年たちの顔を眺めて、ゆったりと述べた。
「そうは思わないかい」
それらの言葉は正論だった。
……結論として、葵は口を噤んだ。
むすっとした顔ではあるが、それ以上は何も言わずに反転し、そのまま先を急ぐように歩き出す。
残された慧と文太は顔を見合わせて、そこに柚葉が声をかける。
「行きましょう」
淡々とした台詞に背を押され、彼らも歩き出す。
慧もまた、この場では追及することでもないとひとまずの視線を納めたのである。
そして柚葉も後に続いたことで、つい先まで睨み合っていた四人の奇妙な同道がそこに成った。
しばらく歩いているうちに、ぽつりぽつりと霞の向こうから建築物らしき影が現れる。
近寄っていけば、それらは平屋の木造家屋であった。
「誰もいない」
戸口から中を覗いていた文太が報告した。
別の棟を覗いていた慧も振り返って頭を振る。
「こっちもだ」
この異界は、霧で閉ざされた中に水田が広がって民家が点在している。全体としては一昔前の農村にあっただろう景色なのだが……。
慧は周囲を見渡す。
稲は青々と育ち、民家はつい今頃まで住人がいたような面影を残しつつ、何処にも人の気配が無い。
慧の脳裏で、かつて友人が嬉々として語ってきた都市伝説が蘇る。
メアリー・セレスト号事件。
たしか無人で漂流していた船のなかは直前まで人が生活していた様子で、手つかずの食事や暖かいコーヒーが机上にあったという。
これらは実際は事件後の後世に創作された怪談的味付けに過ぎないが、この現状はその話を想い起すに十分なものを持っていた。
「この前の廃墟も不気味だったが……これもこれで嫌な空気だ」
呟いた彼に、近寄っていた文太も同意するように頷いた。
と、そこで。
「ちょっと! こっち!」
薄く霞んだ向こうで葵の声が上がった。
慌てて彼女の影へと近づけば、彼女の顔は厳しく引き締まっている。
その視線の先を辿れば、そこには大きな平屋の建物があった。
民家ではない。傍には乾いた藁が山と積まれている。
「家畜小屋でしょうか」
知らぬ間に背後に立っていた柚葉が呟いた。
ぎょっと振り向く文太の横で、慧は唾を呑む。
「どちらにしても……」
気配が在った。
少年の持つ全神経が、その場所に何かを予感している。
彼が視線を滑らせれば、葵は獰猛に歯を剥いていた。
「あかり」
静かに問う柚葉に、肩の上の狐が目を細めた。
「……間違いないね。あそこが異界の中心だろう」
「しかし」と彼女は言葉を続ける。
「隠れもしないとは……こうまであからさまなのは怪しい。気を付けろ」
素直に頷く少女の横で、もう一方の少女が腰のポーチから幾枚もの霊符を掴み取る。
「ごちゃごちゃ言わずに、ぶっ倒せばそれで終わりよ」
そして一歩を踏み出そうとして――止まる。
「……あいつ、誰だ?」
文太が呟いた。
全員の視線の先、怪しげな小屋の前に一人の男が立っていた。
薄い霧の中、妙に細長い影は異様に長身だ。
ボロボロの布切れを身に纏い、見える体は骨と皮ばかりが浮き出ている。
ぼさぼさの黒髪は垢に塗れ、地面に届きそうなほどに長い。
素足で佇むその男が、一体いつからそこに居たのか誰もわからなかった。
けれども髪で隠れて見えぬその双眸が、自分たちへ向いているのだろうという確信があった。
「誰かって……決まってるじゃない」
葵がそう漏らし、柚葉も「ええ」と続く。
「……やっぱり?」
顔を引きつらせる文太の肩を、慧が叩く。
「下がってろ。戦闘だ」
そう言うか言わないかというところで、少女が一人弾丸のように飛び出した。
「死にさらせえッ――」
乙女とは思えぬ掛け声と共に、霊符を纏って光る拳を振りかぶる。――が。
「嘘っ!?」
ぱしり、と乾いた音を立てて。その拳は、男が無造作に上げた片手に吸い込まれるように収まった。
手元の霊符からは常なら妖魔を傷つける清浄な光が変わらず漏れ出ているが、しかし受け止めた男に変化はない。
慌てて身を引いた葵と入れ替わるように、駆け寄っていた柚葉が右腕を掲げた。
手首の腕輪が銀色に輝き、炎の塊が出現する。
だがそれも、男が鏡写しのように腕を振るったかと思えば、途端に霞のように消え去ってしまう。
目を見開く少女に、ゆらりと男が顔を向けた。
髪の隙間から、泥のように澱んだ瞳がのぞく。
「柚葉、一度下がれ!」
叫んだ妖狐に、彼女は飛びずさるように離脱した。
……懸念すべき追い打ちはされなかった。
最初に立っていた場所へと、少女二人が後退する。
一方で男は変わらず、ただ小屋の前で佇んでいる。
「……攻撃してこないのか?」
不気味な静けさを保つ男に、怪訝そうに慧が呟いた。
その横では葵が改めて祝詞を諳んじはじめ、柚葉が肩の狐と小声で相談している。
文太は彼の背にへばりつくようにして身を縮めていた。
彼らの視線の先で、男は先ほどに振るった腕をただ眺めていた。
緩慢な動作で掌を開いて、閉じる。
もうひとつの腕も上げて調子を確かめて……そこで、ようやく顔を上げた。
髪で隠れた双眸が、改めて慧たちに向けられる。
そして、
「――成る程」
発されたその声は、静寂のなか響いて少年たちへと届いた。
「あの声……」
文太が反応し、慧も「やっぱりな」と頷いた。
ジンゴさんとして電話を掛けてきた、あの怪異な声だ。
男はゆっくりと足を踏みだした。
そのまま、一歩一歩と少年たちに向けて歩みだす。
「それでは確かめよう――」
同時に響き渡る声の質が、変わる。
それまでのがらんどうな印象のそれに、不気味な圧が加わった。
「柚葉!」
狐が叫び、少女が腕を突き出した。
幾つもの焔が発生し、火の粉を散らして男へと撃ち放たれた。
男は足を止める――けれど。
「――節理を逆に」
次々に着弾し、炎の壁が立ち現れるも……
「因果は反転し、此処に神の言葉が顕れる」
その向こうから、変わらずに声が響き渡る。
「即ち我が言の葉は、その全てが真実である――」
柚葉が息を切らし始めたところで果敢な攻撃が止まり……炎が晴れたその向こうから、静かに佇む男の姿が現れる。
「無傷、だと……」
慄くように狐が零す。
少年二人が息を呑み、もう一人の少女は睨みつけたまま最後の仕上げに掛かっている。
男はそんな彼らを一瞥すると、
「手始めに」
腕を掲げた。
天を指さすように伸ばした手に反して、距離が近づいたことで判別できるその顔は無感動に固まっていた。
一見して平凡な物だったのだろう顔つきは頬がこけて目が落ち窪んでいるので、まるで餓鬼である。
話す間もピクリとも表情筋が動かぬその顔は、人間味を表すあらゆる色が抜け落ちていて悪趣味な能面にしか見えない。
しかしその中にあって、汚泥を固めたような瞳だけは静かに狂気で光っていた。
そして、男が声を発する――。
「雨が降り」
――途端に周囲が暗くなった。
先ほどまでは昼間のように明るかったのに、まるで夜だった。
反射で顔を上げた慧の目に、いつの間にか頭上を覆う暗雲が映る。
ポツリ……と、彼の鼻先に雫が降ってきた。
「雷鳴轟き」
見上げる彼らの目先で、立ち込めた暗雲から光と轟音が漏れ始める。
ポツリ、ポツリと降り始めた雨が勢いを増して肌を打つ。
「そして供儀たちが黄泉返る」
何処からか、生暖かい風が吹いた。
「うっ」
思わず慧は鼻を抑えた。――獣臭い。
その背後で文太が叫んだ。
「マジかよ、おい!」
振り返って、そこで慧も目を剥いた。
ゴボゴボ……と、様々な箇所の地面から泡が立っている。
民家の庭や道の辻から、明らかに雨とは異なる泥水が湧き出て、気泡が弾ける。
どぼり、とその中から腕が生えた。
鋭い爪に硬い皮……そして図太いそれは異様に盛り上がった筋肉で出来ている。怪物の腕が次々に土中から生え出て、次いでその身を地上へと表す。
「牛鬼……」
眺めていた柚葉が言葉をこぼした。
泥水と共に地中から湧いて出た――這い出て来た怪物たちは、総勢して四体。
皆が皆、その頭部が角の生えた牛であり――どういう訳なのか下顎が無い。
血走った瞳が、少年少女を睨みつける。
溢れた獣の臭気が風となり、気がつけば一帯の水田の稲が枯れ果てていく。
慄く彼らの背後で、男が静かに告げた。
「サテ、実験だ」




