第漆話 如件(七)
15
湿った臭気。
――獣臭い。
意識を取り戻した蓮は、途端に吸い込んだそれに勢い咳き込んだ。
むせて涙目になりながらも、転がっていた体を起き上がらせる。
「な、なんだここ……」
周囲は非常に暗かった。
感触から地面は丸出しの土だとはわかるが、その他に一体どのような状況なのかがよく見えない。
「それにこの臭い……」
片腕の袖で鼻と口を覆う。
もう一方の腕で辺りを探ったところで藁のような感触と、そして木造の壁らしきものに気がついた。
ふと蓮の頭の隅で、近似した場所の記憶が蘇る。
湿った空気の籠った、獣臭い木造の……。
(……家畜小屋?)
一度そう思えば、もうそうだろうとしか思えなくなった。
湿った部屋に土に、この臭い。
いつだったか旅行で訪れたことのある、高原の牛舎のような感覚だ。
それにしては他に動物や何かの気配は感じないが……。
そこまで考えたところでハッとする。
(というかここ、異界じゃないのか)
部室の中、激しい耳鳴りと頭痛で膝をついたところが最後の記憶である。
そこから現状へと至る道筋としては、妖怪の保有する異界へとまた引きずり込まれたというのが最も可能性が高いだろう。
(僕ってわりと籤運が良いのかも)
暢気なことを思いながら、蓮は空中に問いかけた。
「どう思う?」
しかしその声は暗闇に溶け、数秒が経っても返事が来ない。
「……あの、剣王鬼さん?」
またしても反応はない。
周囲には、ただのっぺりとした闇が静かに広がっている。
さらに数度繰り返して、ようやく蓮は気がついた。
「まだ起きてないのか」
今までは例え昼間であろうとも、異界に放り込まれた時点で剣王鬼が目覚めていた。
彼いわくそれは異界に立ち込める「瘴気」の影響だということであったが……。
「……もしかして、僕って今やばかったり」
異界に放り込まれようと蓮が冷静でいられたのは、ひとえに剣王鬼という護衛が存在するという認識だったからである。
さすがに命の危険が迫れば彼も覚醒するだろうが、そこへ至るまでに痛い思いをするのは蓮としても御免被りたいところだった。
「はやく起きてくれよー……」
小さく呟きながら蓮は立ち上がる。
微妙にぬかるんだ地面に足が沈んだ。上履きのままなので、少し歩きにくい。
周りに気配を感じない点を見るに、今回は友人たちは巻き込まれなかったのか……あるいは「とうやさま」の時のように離れた場所にいるのかもしれない。
もし彼らも異界にいるのだとしたら、剣王鬼が眠っている今は蓮も早く合流したほうが良いだろう。
「さて、どっちに進むかな」
あての分からない闇の中、ぽつりとひとりごちたところで――軽やかなメロディーが響き渡る。
「えっ」
辺りを見回そうとして、そこでズボンのポケットの中で振動する物に気がついた。
取り出せば、掌の中で彼の携帯電話が震えている。
表面にある小指ほどの幅の小さな液晶画面には「着信中」と表示されている。
「……なんだ、ケータイか」
ほっと息を吐いて携帯電話を開く。
途端に漏れ出た明かりで、手元のあたりだけが薄ぼんやりと照らされた。
(よしよし、ケータイがあるなら懐中電灯代わりになるな……)
そんなことを考えながら、無意識的に流れるような動作で通話ボタンを押して耳に当てて――
(あれ、そういえば今の画面に「非通知」って……)
思考が追い付くより早く、耳元で声。
《見つけた》
「――ッ」
俊敏な動作で耳から離す。
蓮が見つめる先で電話のスピーカーから男の声が響く。
《それでは嘘つきな君に問題だ。私は今、何処にいるでしょう?》
ジンゴさんの声だ。
蓮の顔に焦りが生まれる。
先の部室で腕を祓い屋少女に燃やされていたが……。電話口のそれは、そんなことなど微塵も感じさせない余裕に満ちた声音だった。
大したダメージではなかったのかもしれない。
(まずい、ケータイを壊さないと――)
液晶画面から腕が生え出て来たのは記憶に新しい。
蓮は慌てて電話を地面へ叩きつけようとして、
(――あれ?)
ぴたりと動きを止めた。
(そうだ。たしか僕のケータイは……)
怪異の腕ごと燃やされたはずではなかったか?
(でも、え――)
混乱しながらも、再び手元を見やったところで硬直する。
彼が握りこんでいたそれは、黒く焼け焦げた残骸だった。
着信以前に、機能などするわけがない。
そんな少年の肩を、誰かが掴んだ。
「ッ……」
瞬間に走った怖気に息を呑む。
両肩を、骨張った冷たい指が強く握りこむ。
いつの間にか背後に気配がある。
それが、静かに耳元で囁いた。
「――答えは、君の後ろだよ」
16
「……またか」
目を覚ました慧が、最初に思い浮かべた言葉がそれだった。
ゆっくりと身を起こす。
先ほどまで室内にいたはずなのに、そこは野外の道端だ。
周囲は薄く霧がかっていて、あまり遠方は白くぼやけてはっきりとしない。
うっすらと見える範囲では、青い稲の植えられた水田がひたすらに続いているようだ。
そのなかを貫く、舗装されていない土丸出しの田舎道に彼は転がっていた。
と、そこで前方から人影がやってくるのに気がつく。
慌てて身構えた彼に、
「大丈夫、わたしよ」
霧の中から出て来たのは見知った顔ぶれだった。
霊符を手に持った葵に、そのすぐ背後を歩く文太である。
彼は慧の顔を確認すると露骨に安堵の表情を浮かべた。
「よかった、無事だったか」
慧も声をかけて合流する。
また変化だったりしないだろうか――ふと脳裏で懸念が過ぎるが、それより早く葵が問いかけてくる。
「蓮は見た?」
「……いや、俺は今気がついたたばかりで」
答えれば、彼女は「そう」と残念そうにうなずいた。
その様子は明らかに本人だが……。
(……考えすぎかな)
隣の文太にも目を向ける。どことなく弱った様子ではあるが、思っていたよりも落ち着いている。
「大丈夫か」
言えば、「ああ」と言葉少なに返ってくる。
なにか考えている風だったが、そこで気を取り直したように聞いてきた。
「これってさ、やっぱり前と同じ異界ってやつ?」
肯けば、彼はため息を吐いた。
「そっかあ」
そうなる気持ちは、慧にもよくわかる。
「本来なら、こんな頻繁に異界持ちが出没するわけがないんだけど……」
思わず零した。
(それもこれも彼奴のせいだ)
冷酷な鬼の瞳を思い出す。眉をしかめていると、苦笑が返ってきた。
「まあ、でも遅かれ早かれ……ってやつだよな」
意味が分からず顔を見れば、文太は補足した。
「なにせ、あの蓮だぜ。修学旅行で勝手に妖怪ツアー始めるような世紀のドアホだ。そんな奴に付き合ってたらさ、そりゃおれたちも巻き込まれるってもんだ……ようやく気がついたんだけどさ」
聞いて、慧は固まった。
(そうだった)
今更の指摘ではあったが……たしかに剣王鬼のことを抜きにしたとしても、当の蓮自身が相当な変わり者である。
そもそも常識的に考えて、好奇心を優先して短命を受け入れるなど……得体の知れない存在に肉体を明け渡そうなどとは思わないだろう。
今回のこれだって、元をたどると蓮が持ち込んだ厄介事といえる。
(剣王鬼を何とかしたとしても、蓮があのままでは……)
唐突な気づきに硬直する。
一方で文太はといえば、言葉のわりにネガティブな色は浮かべていない。
「……おれも、覚悟決めなきゃいかんかな」
どこか遠くを見るようにしてそう呟く。彼はこんな危険な目に合っているというのに、どうやら今後も酔狂な友人との縁を切らないつもりらしい。
(ひとまず、考え込むのは後だ……)
慧は頭を振ると、「そうだ」と思いついたように文太へ言う。
「なにかあったら、ひとまず阿毘羅吽欠蘇婆訶って唱えとけ」
「……アビラウンケンソワカ?」
繰り返す文太に頷いた。
「大日如来へ祈る呪文なんだが、俗信として広まった結果わりと万能な性質に変化してる。素人が唱えられる退魔法としては融通が利く」
「なるほど」
彼はアビラウンケンソワカ、アビラウンケンソワカと口の中でもごもご唱える。
「出来るだけ俺たちが守るけど、念のために一応な」
「いや、ありがとう」
会話が止まったところで、様子を見守っていた葵が言う。
「それじゃ、そろそろ行きましょ。蓮を探さないと」
「そうだね」
焦れている様子の彼女に二人して頷いて、――そこで慧はその背の向こう、霧の中に影を見た。
「待て、誰か来る」
葵と文太も振り返ったところで、霧のなかから少女が現れた。
同じ高校のセーラー服。
そういえばあの場にいたなと思い出す。
「あんたッ……」
途端に葵が牙をむくが、彼女はまるで目に入っていないかのように受け流した。
柚葉はその場の全員の顔を確認すると、
「渡辺さんはいないんですか?」
慧に向ってそう問うた。
「……ああ、俺たちも探してるところだ」
答えながら、考える。
(この子が緋崎ってことは……)
先週に蓮が遭遇した祓い屋で――そして剣王鬼のことを知っている呪術師だ。
知らず、慧の視線が厳しくなる。
(転校の目的は剣王鬼だろう……とすれば、まさか呪術協会が動いているのか?)
いや――と考え直す。
(動いていると考えるべきだ)
あれほど強大な妖気を持つ鬼を見て、呪術協会に報告しないわけがない。
災厄へ繋がりうる可能性を発見した場合、呪術師にはすべての報告義務がある。
慧のように特殊な事情がないならば、この少女もまた剣王鬼の報告を上げているだろう。
(まずいな……)
つまりこれから先に蓮を守るためには、剣王鬼や妖怪だけに注意するのでは足りなくなるわけだ。公的機関である日本咒術協会と、そこから要請を受けるだろう呪術師たちも警戒していかねばならない。
そうしてどこか剣呑になる慧の横で、小刻みに震えていた葵がとうとう爆発した。
「無視するな!」
文太が止める間もなく、少女は突貫し――
柚葉の背後から、何か小型の影が飛び出した。
「へぶッ!」
それは血気に逸る葵の顔へと勢いよく取りついた。更に固まる彼女の顔を蹴り上げる。
どさり、と尻餅をついた少女を余所に、その影は優雅な体さばきで転宙すると、とさりと柚葉の肩へ着地した。
「まあ、落ち着け」
老婆のような声でそう嘯くそれは、黄金色の毛並みのイヌ科哺乳類である。
二本の尾をふわりと揺らす。
堂々とした態度の妖怪に、三人は呆気に取られて固まった。
しばし置き、
「……狐が喋った」
文太が小さく呟いた。




