第漆話 如件(六)
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ずるずる……と、どこか湿った音さえ響かせながら。小さな携帯電話を底として、左右一対の腕が部室の床へと掌を突く。
そうして作ったMの字のまま、まるで狭い穴の中から抜け出そうとするように力みだした。
「……まじか」
慧の米神に冷や汗が流れた。
隣の葵も険しい表情で祝詞の奏上を続ける。
二人の背後では怯えも極まった文太が隠れるように身を縮めており、そして――
「本体が出てくるか!」
蓮がひとりだけ弾んだ声を出す。
「だから喜ぶなァ!」
泣きそうな声で文太が突っ込む。
その間にも、不気味な音を上げて怪異の動きは進展している。
心なしか、両腕の長さが先ほどよりも伸びている。
「あ」
誰かが声を漏らす。
気づけば腕の底、付け根の奥に――肩口が見えた。
ずる、ずるり……。
湿った音と共に腕の動きが激しくなった。狭い穴――液晶画面の向こうから、こちら側へ抜け出ようと一層にもがき始める。
遂には――うなじが、現れる。
「おお!」
蓮が歓声を上げるが、隣の文太には最早突っ込む余力がない。
「ひいぃっ……」
怯えた声を漏らして、更に体を縮みこませた。
背後のそんな対照的な二人を気にしながら慧は思考する。
(俺の攻撃は通じなかった……でも)
ちらりと横に視線をやったところで、拳を構えた少女が最後の一節を謳い上げた。
「……恐み恐みも白す――よしっ!」
彼女が握りなおした拳、そこに纏われた霊符の符籙が一際に白く輝いている。
「いけそうか?」
怪異を睨みながらそっと囁けば、
「勿論ッ!」
年頃の乙女らしからぬ獰猛な笑みが返る。
「あんなの、わたしがぶっ殺してやるわ!」
……顔のみならず言動も物騒だった。
そして、腰を落とした葵が脚に力を込めたところで――
――がらり。
扉が開く。
「……え?」
その場の皆の視線がそちらに向いた。
開け放たれた扉は彼ら四人の正面、現界しようと未だ蠢いている怪異を挟んだ向こう側だった。
そこに佇む影は一人。
逆光のなか、この学校の女子制服だろうスカートが揺れた。
その場所は、彼らよりもずっと怪異に近い――。
「危ないッ!」
慧が叫ぶ。
慌てた葵が飛び出そうと一歩を踏み出した。
しかし。
「――煩いですね」
静かな声と共に、振るわれるのは右腕の一閃。
手首の辺りで銀色の光が瞬いて。
轟ッ――と瞬間に炎が出現する。
「うぇっ!?」
怪異に殴りかかろうとしていた葵が、素っ頓狂な声を上げて寸でのところで飛びずさる。
突如として現れた焔の塊は床に居た怪異、それを丸ごとに包み込む。
《グ、グァ……》
炎の中から、何やら苦悶の声が小さく漏れる。
そしてアッと言う間もなく怪異の腕を燃やし尽くすと、僅かな灰と携帯電話だけを残して、あれほどの激しさが嘘だったかのように鎮火した。
「…………」
沈黙が落ちる。
誰もが呆気にとられた様子で固まって、ただ床の上を見つめていた。
先ほどまで怪異が暴れていたそこには、今や黒く焦げ付いた蓮の電話だけが転がっている。
数秒ほどして、ようやく文太がぽつりと呟いた。
「……終わった、のか?」
廊下に立っている少女がそれに答えた。
「ええ。退治終了です」
その声に視線を上げれば、その少女は部室へと一歩踏み込んだ。
呆然と見やる皆の目にその容姿がはっきりと映りこむ。
数拍おいてから葵が叫んだ。
「あ、あんたッ!」
すらりと伸びた170センチ台後半の、女性にしては高い身長。
後ろでポニーテールにした髪は黒く艶やかで、涼やかな目元は凛とした美貌を際立たせている。
全員に見覚えがあった。
なにしろ、今朝から散々と学生たちの話題に上がっている。
彼女の名は――
「……宗像さん?」
柚葉は呟いた慧を見て、次いで拳を構えたままの葵を、固まっている文太を、そして複雑そうな顔をした蓮を見てから再び慧へと視線を戻す。
「まったく、煩いですね」
そのまま、登場時と同じ言葉を繰り返した。
「な、何がよ」
珍しく気圧された様子で答えた葵へと、彼女は一転して冷ややかな視線を飛ばす。
睨みつけながら、刺々しい声音で少女は言う。
「呪術師が二人も……しかも一級巫覡がいながら、あの騒ぎは何ですかと言っているんです」
まるで詰問のような語調のそれを受けて、ようやく葵も普段の様子を取り戻した。
負けじと睨みつけ、険しい声を返す。
「あなた、一体……」
一拍置いてから、柚葉はこくりと頷いた。
「いいでしょう、お答えします。私の名は宗像柚葉――」
横目でちらりと、一瞬間だけ蓮のほうを見やる。
「――緋崎が一門、その十六代目代行を担う」
飛び出た家名に若干二名の目つきが変わるが、少女は臆することなく言い切った。
「祓い屋です」
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「……緋崎ですって?」
繰り返す葵に、「ええ」と答える。
まったく悪びれないその態度に、葵の額に青筋が浮かんだ。
「転校までして……緋崎が何しにきたのよッ!」
歯をむき出して怒鳴る。
そんな彼女に、柚葉の眉間にも皺が寄った。
「仮にも命の恩人にその態度……」
はあ、とこれ見よがしに大きな息を吐く。
「やはり、物見遊山気分の輩は駄目ですね」
たしかに、事実として彼らは助けられた形だった。同様に厳しい目つきをしていた慧も、さすがにバツが悪そうに目尻を下げる。
ところが葵は変わらず吠えた。
「べつに私一人でも、あのまま祓えたわ!」
霊能力者なら一応は慧もいるのだが、ナチュラルに勘定に入っていない。
「それに物見遊山って、一体何のことよ!?」
そのまま今にも胸倉をつかみに行きそうな彼女を、慌てて隣の慧が抑え込む。
気を取り戻した文太と蓮も、それに後ろから参戦する。
「ちょ、ちょっと神谷さ、落ち着けって」
葵はそうして両脇と肩を抑えつけられながらも、うがーっと暴れる。
その様子を冷めた瞳で眺め、柚葉は言う。
「聞きましたよ、この部活のこと」
ぴたりと動きを止めた彼ら四人の顔を、一人ずつ見つめる。
「地学部とは名ばかりで、実際は怪奇探偵団などと標榜しては心霊検証を繰り返しているそうですね」
「……それが、どうしたっていうんだ」
葵の首元にしがみついたままの蓮が、怪訝そうに答えた。
――赤沼怪奇探偵団は、遡れば彼が中心となって立ち上げた集まりだ。
それをまるで貶すように言われるのは、どうしたって気分が良くはない。
(……そういえば)
ふと蓮は思い返す。
(今朝も、僕がオカルト好きだって言った途端に冷たくなった気が……)
彼の思考を余所に、柚葉は告げた。
「愚かなことです。自ら危険に近寄るなど……しかも、ただの子供染みた好奇心で」
彼女の瞳が、刺すようにして葵へと向く。
視線の温度に反して、ひどく静かな声音で語り掛ける。
「あなた、神谷葵さんよね。金堂神社宮司、二級神職神谷清秋さんの娘さん。僅か十四歳で一級巫覡に任命された天才児……」
そこで視線を落とすと、柚葉は瞑目して頭を振った。
「いずれの特級巫覡筆頭だとお伺いしておりましたが、まさか素人と一緒になって心霊を弄んでいるとは――嘆かわしい」
あからさまな嘲りに、沈静していた葵が再び暴れ出す。
「何様よあんた!」
男子三人がかりで抑え込まれながらも、猛獣のように食って掛かるその様子に、柚葉は瞳を円くすると「まあ」とわざとらしく驚いた。
「情緒が不安定なところは、でもたしかに巫覡っぽいですね」
「――ぶん殴るッ!」
その言葉に、葵の目の色が変わった。より一層に暴れ始める。
彼女の右腕を抱え込んでいる文太が悲鳴を上げた。
「やべえ! 神谷の目が据わってるッ!」
左腕を抑えている慧も叫ぶ。
「宗像さん! 言いたいことがあるんだろうけど、ちょっと、ここは一度お互いに落ち着こう!」
しかし柚葉はなおも冷たい視線で、
「そう言うあなたも呪術師ですよね。ご実家が寺院だと聞きました。こんな馬鹿げた集まりを一緒にしている時点で、あなたも同罪です。なんと愚かしい……」
彼女の毒舌は止まらない。
慧の懇願は心に届かなかったようだ。
かくして男子を引きずりながら葵が喚き、それに柚葉が冷ややかに返す。
怪異の脅威が去ったと思えば、部室は途端に別種の騒がしさで満たされた。
(……葵が緋崎嫌いってだけじゃなくて、あっちもあっちでこちらが地雷なのか)
葵の肩を背から抑え込みながら、蓮はひとり達観の境地へと至ろうとしていた。
罵り合う少女二人の様子を見るに、犬猿の仲という言葉が脳裏に過ぎる。
(そもそも、なんで宗像さんは誹ってくるんだ。全くわからん……)
ともあれ、さすがに剣王鬼のことは話さないだろうが、これで昼に吐いた嘘が嘘だとばれるのも時間の問題になった。
柚葉が過去の同級生だという、あの出まかせである。
仮に緋崎を名乗る呪術師が本当に住んでいたことがあるならば、地元の宗教者である葵の耳にも入っていなければおかしい。
今はともかく、後に冷静になったときには彼女もすぐに気がつくだろう。
(いや、そういえば「とうやさま」の時に助けられたって話にしてたっけ。その時に知り合ったけれど、葵が緋崎嫌いだから黙ってた……これでいいか)
葵に抱き着いたままで今後の算段をつける。
そして相も変わらず暴れている少女に密かにため息をついたところで――ふと。
(……ん?)
蓮は何かに気がついた。
(何か……違和感が)
刹那、着信音が響き渡る。
「え?」
「は?」
「あれ?」
騒いでいた葵や、それを抑えていた慧と文太も一斉に動きを止める。
四重の着信音が部屋の中に響き渡っていた。
「これは……」
柚葉も身構えて辺りを見回す。
「出ちゃダメよッ!」
けたたましく鳴り響く自身の携帯電話を取り出した文太に、葵がぴしゃりと言い放つ。
「もしかして……」
眉を寄せた慧が呟いたところで、
――ブチリ。
新たに響いた音に蓮が振り向いた。
そこは、部室の端の角である。
そこには、備え付けの古いパソコンがあった。
電源を落としていたはずのその画面に、光が点っている。
酷い雑音と共に、アナログ放送時代に馴染んだ砂嵐が映っている。
どこか吸い込まれるようにして、蓮たちの瞳がそちらに集まる。
そしてその向こう側に、なにか、景色のようなものが……。
「うっ」
葵が呻く。その場の皆が頭を抑えた。
金属同士を擦るような耳鳴り。
同時にどこからともなく、あの声が降ってくる。
《――嗚呼、まったく。まったく、嗚呼……嘘は、善くないなァ》
耳鳴りが、一層に……立っていられないほどに酷くなる。
《ネ、そうだろう?》
次の瞬間。
全員の意識が暗転した。




