第初話 廻生(二)
3
山中にあるような古い階段の多くの例に漏れず、その小径の傾斜は急で、石段の段差も大きかった。のみならず、長い年月に渡って放置されていたそれは、湿った苔がびっしりと生えていて滑りやすいうえに、径の両脇から伸びている藪が事あるごとに服に絡んで、進行の邪魔をした。
のちに思えばそれは、この先に待ち受ける災厄から不憫な少年を守ろうとした土地神の僅かばかりの慈悲であったかもしれないのだが、残念なことに、このときの蓮にはそのような兆しを感じることは出来なかった。
四苦八苦しながらも蓮が階段を登り切ったとき、彼の額には大粒の汗が浮いていた。偶々に長袖のシャツとズボンだったので、枝葉で腕や足を怪我することもなかったが、それらにも汗の染みが滲み出ている。
「あっつ……」
シャツの襟をつまんでパタパタと扇ぎながら、蓮は大きな息を吐いた。
想定以上に時間が経っていた。空も夕焼けに染まっており、周囲も少しずつ薄暗くなってきている。入り口で覗いた際の印象よりも小径はずっと奥に続いていて、進んでいくうちに竹藪から黒い木々へと植生が変わっていく辺りで陽も沈み始めた。
普通ならそこで引き返すことを考えるものだが、生憎と蓮は頻繁に変人と称されるだけあって頑なだった。一時的な身の安全よりも好奇心のほうが勝っていた。背負ったカバンの中には常備してある安物の懐中電灯が眠っているという事実も、奥へ進み続けた理由を少なからず手伝っていたが、何より彼には「また明日に改めて確認に来よう」などという殊勝な考えは欠片も浮かばなかった。現在に気になっているのだから、現在に確認しなくては気が治まらない。蓮はそういう性質を持っていた。
「……さて」
一息ついた蓮が辺りを見渡せば、そこには開けた空間が広がっていた。黒々とした森の中で目前の数十坪だけがぽっかりと空いている。
とはいえども、その全体は背の高い雑草が生い茂っていて胸より下は殆ど見通しが効かなかった。
「おお……」
何とはなしに背後を振り返り、そこで彼は感嘆の声を漏らす。
石段を登り切ったことで、頭上を覆っていた木々が途切れている。蓮の立っている最上段からは、ちょうど夕陽に沈みゆく赤沼町の全景が望見できたのである。
「綺麗だ」
遥か西、湾を超えた向こうの山影に半ば溶け込む太陽と、そこから漏れ落ち、静かに町を呑み込む赤金の大気。海は鱗のように煌めいて、街並みや水田が宝石のような輝きを散らしている。
どれだけ歩いたのか定かではないが、町の北を囲む尾根へ連なる峰、この場所はそのどこかであろうとは理解できた。せいぜいが小高い丘陵程度とはいえ、実質的に山登りをしたわけになる。
なるほど疲れるわけであるが、この景色を眺めることができたと考えれば、それは割の良い対価だと蓮は感じた。
しばし絶景に見入る少年だったが、薄くなりゆく周囲に気付くと名残惜し気に視線を切った。
夕陽に背を向けて、改めてそこに広がる空間を眺める。
「ところで、ここは何の場所なのか」
呟きながら歩みを進めた。
一歩、二歩と歩いたところで、おやと足を止める。草を掻き分けて地をよく見れば、そこには草葉と土に埋もれた、古く罅割れた石畳。
気を付けて辺りを見回せば、空き地の空間は同様に整地された跡がある。何かしらの施設があったということだろうか。
思い、さらに歩みを進めたところで、今度は草叢の中で何かを踏みつける。
何だと見ると、それは黒く腐り落ちた古木の欠片である。
「これは……」
生え放題の雑草の中、すぐそばに連なるようにしてその欠片は落ちている。それも加工された、一抱えほどの木材だったように見える。
何か既視感を覚えて観察すれば、時間をかけずに思い当たった。
「鳥居だ」
とすれば――。改めて辺りを見渡しながら、蓮の脳内で推論がはじき出される。
もしやこの場所は、打ち捨てられた神社の跡なのか。
よくよく見れば、空間の中央には草で覆われて隠れているが、何かしら建築物の残骸らしき影が散見される。
「なるほどね」
納得を深めつつ、蓮は中央部へと足を向けた。
理解を得た瞳で再見すれば、この場所はたしかに神社の跡であった。麓から続く石階は参道であり、この石畳の空間は境内である。
どのような理由で廃されたのかはわからないが、過去、ここには何かの神が祀られていたのだろう。
町の全景に対するところを見るに、何かしら赤沼の地に縁のある存在だとは思うが……。
そこまで考えたところで、視界の隅――社の残骸の向こう、境内と森との境に木陰に隠れた祠が映る。
同時、蓮の足元で嫌な感触が在った。
腐った木材独特の、繊維を引きちぎるような柔い音が響き――。
「あ」
と思ったときには、彼の身体は暗闇の中へと落ちていた。
4
慧が帰宅すると、ちょうど出かけようとしていた父親と庭先で鉢合わせた。
「あれ、どっか行くのか」
声をかけた慧に、不死川善治は鷹揚に頷いた。今年で五十を過ぎた彼の顔には多くの皺が刻まれているが、人のよさそうな表情は生気に溢れている。剃り上げられた頭頂部は夕陽を反射してぴかりと光った。
「訃報があられてな……今晩は遅くなる」
言う善治は、僧衣に身を包んでいた。
慧もごく自然に相槌を打ち、
「気をつけてな」
と、軒先から原付スクーターを引き出す父親に言う。
「たしかに坊さんが事故ったら元も子もない」
善治は笑うと、そういえばと切り返した。
「今日はまた部活仲間と一緒だったのか」
慧は開きっぱなしの玄関に向かいながら肯定し、
「ただ、今日は蓮と二人だったかな。他の皆は都合が合わなくて」
「蓮君というと……ああ、例の子か」
善治は途端にどこか厳し気に眉を寄せた。
「彼はその、まだ赤沼の伝説を調べているかい」
玄関の内、引き戸の裏から慧もどこか案ずるような声音を返す。
「……そうみたいだ。まあ、そこが蓮らしいっちゃ、らしいんだけど」
「わかってると思うが」
善治の声は堅かった。
「その子は幸い、見鬼でないから大事になっていないだけなんだ。聞く直感を思うに、潜在的には霊的素養が高い」
「何度も聞いてる」
「あれは……我々以外は忘れ去ってしまって良い類だ。あまり深入りし過ぎないように注意していてあげなさい」
「だから、わかってるよ」
玄関から顔を出した慧は、呆れたような表情だった。その手にはヘルメットと巾着袋がある。
「そう何度も念押ししなくても大丈夫だって」
ほら、と突き出された荷物を受け取った善治は表情を崩し、苦く笑う。
「心配性なのは性分だからなあ、仕方がない」
そして被ったヘルメットのベルトを締めながら、
「心配といえば、お前らがよく行く心霊スポット巡り。あれも、やめてもらいたいものだが……」
「それこそ、蓮の性分だからね。仕方ない」
肩をすくめて見せる息子に、善治もまた脱力する。
「……ま、お前と金堂の子が付いてるなら、大丈夫か」
あの子は天才だからな、と続ける父に慧も首肯した。
「それじゃあ、行ってくる。戸締りだけ頼んだぞ」
「ああ」
手を上げる慧を背に、善治は僧衣をはためかせながら発進した。遠ざかるスクーターのエンジン音と、仄かな排気ガスの臭いだけが後に残った。
慧はひとつ息を吐くと、赤く染まる空を見上げた。茜色と言ってよいその色が、彼の目にはどこか悍ましい鮮血の色に被って映る。
脳裏には、話題に上がっていた蓮の顔が浮かんでいた。
高校でできたその親友が、直感するんだなどと嘯きながら力説する“仮説”を思い出す。
明確な論拠は何もなく、聞いたほとんどの者が失笑しているそれが、実のところ、非常に良い線を行っていることを、慧は知っている。
「……夕飯でも作るか」
翻って玄関へ足を向けた。
彼の背後、家の表にある大きな拵えの門。俗にいわれる山門の横には石造りの柱があって、「石泉寺」と彫られている。
慧の実家であるこの寺の名が、本来は赤泉寺であったことを彼は知っている。
そして、
「……このまま、平和が一番だ」
この世界が、親友の思っている以上に不思議で溢れていることを。
――なによりも、理不尽と血に塗れていることを、彼は知っていた。
5
「いつつ……」
呻きながら、蓮はゆっくりと身を起こした。辺りは薄暗く、そのうえで土やら木屑やらの埃が舞っていて視界が悪い。
吸い込んだそれらに咳き込みながら、涙の滲む目で顔を上げれば、頭上に不格好な穴が開いているのが見えた。そこから差し込む弱弱しい夕陽だけが、唯一の明かりとなっている。
「……あそこから落ちたのか」
穴までは目算で三メートルほどの距離があった。それだけの高さを受け身も取らずに落下したとして、怪我らしい怪我がないことは不幸中の幸いと取るべきか。
「床を踏み抜いたのかな……」
未だ痺れの残る身体を操縦し、伏して倒れていた状態から、なんとか腰を動かして座り込む。
「さて、どうするか……」
呟きながらも、背負っていたカバンを降ろして中身を漁る。薄闇の中、手探りで底に眠っていた懐中電灯を取り出すと電源を入れた。
ジジ……と音を立ててから白光が溢れる。細長い、単三電池を三本で使用する安物であるが、数時間ぶりに目にする確かな光源は、胸中を覆いかけていたものを少しだけ和らげた。
「まさしく火は叡智だな」
気づけば頭上から降る夕陽も随分と薄くなっている。比例して周囲の闇はより濃くなり……口数が多いのは、蓮も自覚しない不安の表れでもあった。
カバンを背負いなおしながら立ちあがると、蓮は懐中電灯の光を辺りへ向けた。
「ここは……地下室か何かか」
呟きながら見渡すも、薄白い人工光は一メートル半ほどの先までしか照らし出さない。四方をぐるりと見てみるが、結果としては、意外と広い空間であるらしいということと、床や天井が木組みや土の露出した簡易な建築であるということだけが判るのみである。
「……いや、そもそも神社に地下室なんて」
首を傾げる。蓮の記憶に地下室の存在する神社などは思い当たらない。そもそも、あれらの建築は地面に石を敷き、その上に柱を載せる。伝統的な日本の建築では、地面と床の間には床下や縁の下等と呼ばれる空間があるのみで、海外建築のように床と地面が接触しているわけではない。地下室を作るような文化的土壌がないのだ。
もちろん、ずっと遡れば竪穴式住居などは広義的な地下室と言えなくもないし、懸崖造りの建築だったりすれば下屋という一見して地下室のような空間もある。
けれどもやはり、このように完全な地階を掘るような建築は、少なくとも近代以降まで一般的なものではないはずだ。
「あるいは防空壕の跡……」
最も妥当性が高いのがその辺りだろうか。そう思う蓮だが、しかし山頂という目立つ場所に防空壕を作るものとも思えない。
「……ま、何はともあれ、まずは脱出か」
段々と暗さにも目が慣れてきた。この場所の謎は頭の隅へ置いておき、ひとまずは最優先するべき事柄へと思考を移す。
辺りを改めて見渡すも、どの方向からも出口らしき光などは漏れていない。
とはいえ、外へつながる道が、探せばどこかに見つからないとも限らない。生き埋めになったわけでもないし、出口が見つからなかった場合はなんとかして壁を登れば、天井の穴から脱出できる。
とりあえずとして、歩き出し――すぐに数歩ほどで歩みを止めた。
「あるじゃん、扉……」
思わずつぶやく蓮の前には、古い木造の観音扉がある。落下した場所から数歩進んだだけで、それは薄白い光に照らされ姿を現した。
「……でも、これは」
躊躇うような声を漏らす。
この先に出口がある可能性を思えば、ここで扉を開かない道理はないのだが――。
「妙に不気味だな」
漏らした声が、ぽつりと今度はいやに空虚に耳朶へ響いた。先ほどまで気にしていなかった辺りの静けさが、なぜか途端に気になり始める。
目の前の観音扉は、その黒ずんだ木肌に夥しい数の呪符が貼られていた。深い執念を感じさせるほどに、幾層も重なって貼り巡らされている。
それらに書き込まれた墨は、すでに薄くなってしまい判読できない。
ただ、そのように呪文が消え、紙自体も黄色く変色したとしても、未だに完全に風化せず封印を保っている点に、蓮は時を経てなお残る偏執を覚える。
自分を囲む闇が、じりじりとその色を濃くしてゆくような感覚に、知らず喉を鳴らしていた。
手元の細く軽い電灯が、妙に頼りない。
瞬間に到来したそれらの感覚は、まるで潜在的な部分で眠っている彼の全霊感が、その先の危険性を察しているかのようだった。
しかし、
「いやいや……」
慌てて首を振って、蓮は乱れつつあった息を整えた。
「なに怖気づいてんだか……」
第六感が鳴らす警鐘を、理性で以てねじ伏せる。
オカルトマニアの気質を持つ彼であったが、その本質は無神論者に近かった。根本のところでは、彼は心霊を信じてはいない。
信じていないからこそ、楽しめるのだ。
超自然的なものに浪漫を感じているのも確かである。だからこそ、信じてみたい。人知を超えたそれらが存在するかもと、思ってみたい。
そして、そう嘯いて楽しめるのは、やはり根っこでは「いるわけがない」と思っているからだろう。
ともあれ、理性的に考えて、目の前の扉を開かない選択肢はなかった。
出口を探しているのだから、その先に何があるのかを調べる必要がある。
蓮は生唾を呑み込むと、ゆっくりと扉に手を掛けた。
押し込めば、ぎちぎちと厭な音を立てて内側へと開いていく。
そして――。
「なっ……何だ、この……」
開いた先の空間からぶわりと雪崩れ込んできた臭気に、思わず蓮は鼻をつまんだ。
「生臭い……」
なにか腐りかけの生ものでも在るかのような臭い、あるいは凝縮された獣臭さとでもいうべきもので、扉の向こう側は満たされていた。
「……くぅ」
自然と涙の滲むのを感じながら、若干に躊躇しつつも蓮は足を踏み入れた。左腕の袖で鼻と口を覆い、出来るだけ後者で息をする。
数歩ほど闇の中に歩むと、右手の懐中電灯を左右に振る。
薄ぼんやりとした光線は四辺を区切った土壁と柱を闇から映す。どうも三、四メートル四方程度の小さな空間であるらしい。
その部屋の深奥に、なにか人工物らしい影がある。
ひとまずそれに狙いを定めて近づいてゆく。
一歩、一歩と歩くごとに、なにやら柔らかな感触が靴底にあった。
ぬちゃ、ぬちゃ、という音が耳を打つ。
この部屋の地面は、どういうわけかぬかるんでいる。
(地下水が溜まっているのかも……)
口元を抑えながら蓮はそう考える。この空間にどこからか湧いたか流れ込んだかした地下水が、きっとそのまま澱んで腐ったのだ。もしかすれば土竜や鼠などの動物の死骸もあるのかもしれない。
なんにせよ、衛生的に考えて碌な場所ではない。
はやく地上に脱出しなければ、という思いを改めて強く固めたところで、蓮の足は狭い部屋を横断しきった。
深奥に見えていた影が、電灯の明かりの中に――。
「――――ぃっ……」
浮かび上がったそれに、蓮は叫びにならない、ひくついた声を上げて飛びずさった。
そのまま倒れこみ、ぬかるんだ地面にべちゃりと飛沫を立てて尻もちを搗く。ズボンや背中が気持ち悪い感触の湿気を吸っていく。
「あ、あっ……」
パクパクと、金魚か阿呆のように口をただ開け閉めする。
声が出ない。
あれほど吸わないように苦心していた生臭い空気が、遠慮なしに口や鼻の孔を行き交うが、最早それらを気にしている余裕は蓮にはなかった。
放り投げられ、地面に転がった懐中電灯が、その悍ましい影を今もなお、彼の目の前に照らし出している。
――それは、床から一段上がった神壇の上にあった。
四隅に金製の大幣が飾られた神壇には茣蓙が敷かれ、一畳程度の広さである。そしてその中心に折り重なるようにして堆く盛られたそれは……。
「っ……」
蓮はたまらず、腹の底から込み上げてきたものを吐き出した。前のめりになり、胃の中のものを吐瀉する。
ビチャビチャと汚らしくまき散らし、胃液で焼けた喉で咳き込む。
そして無意識に口元をぬぐおうとして、涙で滲んだ視界の中に赤く濡れた己の拳が飛び込んだ。
ハッとして顔を上げ、そこでようやく気が付いた。
深奥にあった神壇の上のそれ……あまりにも無残な、人間であっただろうそれらに目を捕られていて、気が付かなかった。
なぜかぬかるんでいた、この部屋の地面。
地下水なぞではなかった。
異様な生臭さは、この部屋全体から放たれている。
――この場所は、黒々とした血色の液体で満たされている。
気づいた瞬間、蓮の脳裏で言葉が弾ける。
「血の沼……赤沼……」
そして掠れ震えた声で呟いたとき、彼の背後で気配があった。
『――よき哉』
○懸崖造り
崖の肌など傾斜の急な場所に建てる建築のこと。古き時代、多くは深山や海岸などに祭場として建てられたという。かつては「棚」とも称した。よって筆者が思うに、現在において家内の簡易神殿を指して神棚と称するのは、この名残である。
(四年七月十一日 あとがきにTIPS追加)