第漆話 如件(一)
0
暗い場所。湿気がひどい。空気もこもっている。
ここは――何処だ。
目覚めた彼は、そしてゆっくりと身を起こそうとして、己が満足に動けぬことに気がついた。
おかしい。彼は思う。
そも、なぜ己はこんな場所に横たわっているのか。
記憶が混濁している。なにも、わからない。
――と、そこに音が響いた。
軽やかな曲が、重々しい静寂を引き裂く。
見れば、すぐ傍の闇が消えていた。否、小さな光源が出現していた。
彼はそれを目にするのは初めての筈だったが、しかしそれが何なのかは、見た途端に理解できた。
小さな、掌ほどの機械。これは――携帯電話、だ。
そして、同時に。
彼は己が何であるのかをも、思い出した。
――嗚呼。
――なんという、ことであるか。
彼は静かに、絶望した。
1
レースカーテンのままの窓辺から朝陽が漏れる。
洋風のシングルベッド、そこに放り出されていた蓮の顔に射し込み、仄暗い水底のような場所から彼の意識が浮上する。
「ぅ、あ……?」
うめき声をひとつあげて、少年の瞼が持ち上がる。
ぼんやりとした瞳が、ややあってから焦点を結ぶ。
「うわあっ!」
ようやく覚醒した彼が起き上がれば、そこは慣れ親しんだ自室であった。
「えっと……」
困惑している様子で見まわす。
最後に覚えているのは、たしか七夕夜市の後に機織淵に行って――。
「――ご機嫌はいかが?」
ひとまず記憶を確かめ始めた彼の視界一杯に、唐突に白猫の顔が現れた。
「うわあっ」
音も無く出現した妖怪に、蓮は再びの声を上げてひっくり返る。
昨日の着の身着のままベッドの端までのけぞっているその間抜けな格好を、傍の勉強机の上から呆れたように見下ろして、しかしそのまま少年を放置して白夜は語り始める。
「まずは、ひとつ。一応謝っておくわ……ごめんなさいね」
軽い調子で告げられる、けれど身に覚えのない謝罪に蓮は目を白黒とさせた。そして、やはりそれを気にしないまま猫又は続ける。
「わたしも暫くは彼に従って、坊やをどうこうしたりしない。……どうせ、すぐに解放されるのですしね」
何やら意味深な内容であるのだが、一方で肝心の蓮のほうは先ほどから全く話についていけていない。
「えっと、つまり……?」
寝起きの頭をなんとかフル回転させようとしている、素朴というより鈍感な少年に、改めて呆れた視線を向けてから猫は突き放すように言った。
「ところで学校はいいのかしら」
「――へ?」
瞬間に固まってから、蓮は錆びたブリキ人形のような稼働で首を動かし時計を見る。
二〇一二年七月八日月曜日、――午前七時五十分。
遅刻確定まで秒読みである。
悲鳴を上げた蓮が飛び上がったころには、部屋の中にはどこにも白猫の姿は無かった。
2
蓮が肩で荒い息をしながら登校すると、時計は八時半を回っていた。
普段なら片道で五十分以上はかかるところを、全速力で自転車を飛ばし、ついでに幾つかの交差点も曖昧な黄色信号で突っ込んでいくことで、なんとか遅刻を免れた自称・準優等生である。
余命を受け入れた以上はもはや内申点を心配するものでもないが、これ以上に生活指導の教員に目を付けられたくもない。
「ま、間に合ったぜ……」
ふらふらと教室に転がり込んだ蓮を、普段の喧騒が迎え入れる。
「やけに遅かったじゃない、何してたのよ」
なんとなく集まっていた友人たちが、疲労困憊の彼の元へとぞろぞろとやってくる。
「てっきり、また長谷センのお世話になるのかと思ったぜ」
そして、からかってくる文太の横に同じように寄ってきた慧の姿を見つけて、蓮は即断した。
「すこし寝坊を……それより慧、ちょっと」
だらだらと汗を垂らし、息も絶え絶えの状態ながら荷物を教室後方のロッカー手前へ放るなり彼を呼ぶ。その手は親指を立てて後方を示していた。
「おいおい、もうホームルームが始まるぞ」
素っ頓狂な声を上げる文太を、けれど呼び出しを受けた当の本人が手で制する。
今朝からどこか強張っていた顔のまま、慧は蓮に頷いた。
「なに? 内緒の話なの?」
そんな不機嫌そうな葵の言葉を背に、蓮と慧は連れ立って教室を後にした。
場所は変わって、先週にも使用した裏庭に続く非常階段である。
踊り場の錆が浮いた手摺へと寄りかかり、蓮は今朝における白夜とのやりとりを話す。
そして、
「それでさ、昨晩はけっきょく何があったん」
危機感なく、軽い調子でそう聞く彼に、始終黙っていた慧は思わず声を荒げた。
「暢気な話じゃない。君は殺されかけたんだぞ」
呆気にとられたように固まる蓮の顔すら如何にも暢気そうで、慧は苛立たしげに視線を空へ上げる。
「機織淵は、その音を聞く男を水の底へ誘い込むらしい。それを利用して、あの猫又は蓮の身体から蓮の魂だけを抜き取ろうとしたんだ」
睨みつける先は彼の心中と真反対に広々と青く晴れ渡っていて、それがむしろ神経を逆撫でする。
憤懣やるかたない様子の慧を恐る恐る覗き込みながら、蓮は「でも」と尋ねる。
「それじゃあ、僕はどうやって助かったんだ……君が助けてくれたのか?」
その言葉に、慧の脳裏に鬼の言葉が蘇る。瞬間に胸底で更に熱い怒りが沸き上がるが、それをひとつ深く息を吸い、吐く――肺の中身を入れ替えることで意識を落ち着ける。
「……いや、それは剣王鬼がな」
厭々にそう口にして、それからふと友人の顔に視線を戻して確認。彼は苦虫を嚙み潰したような顔になる。
胸に去来するのは「やっぱり」という心である。
蓮は、友人は安堵しきったような表情で――。
「――あんな鬼を信頼なんてするな」
気がつけば、そう吐き捨てていた。
「人外は、人外でしかない。どこまで行っても人間とは根本で決定的に違うんだ。いつまでも口約束を守るようなものじゃないぞ」
剣呑な雰囲気の友人に、蓮は瞳をぱちくりとさせて、ややあってから「ああ……」と得心したように頭を掻いた。
なるほど、彼は自分を心配してくれているのだと理解する。
しかし――
「まあ、そこはたぶん大丈夫だよ」
にへらと笑う。慧は思わず怒鳴ろうとするが、それより早く蓮が続けた。
「わかってる。あいつらは妖怪で、人間の僕らとは倫理観から何もかもがずれているってことは」
そんなことは、初めて剣王鬼と邂逅した際にすでに悟っていたことである。
今朝に謝罪してきた白夜が実際は昨夜に殺しかけたことを何とも思っていないだろうことも、……剣王鬼はその行為を察知しながら直前まで放置していただろうことだって、きちんと理解できている。
異種族の感性に今更怒りは覚えない。
「……じゃあ、なんで」
掠れた声を絞り出す慧に、蓮はあっけらかんと答える。
「わかるんだ」
それは同じ肉体を共有している関係か、それとも覚醒しつつある第六感の作用なのか。
「なんとなく、わかる。剣王鬼は、あいつは契約だけは必ず守る。そんな感じがする」
昨夜だって、結果として蓮は危なげなく助かった。
それに……と、彼は胸の内だけで呟く。
(なぜか剣王鬼には、どこか懐かしいような……妙な親近感を覚える)
根拠は勘である――と朗らかにきっぱり言い切った蓮を前に、慧はぽかんと口を開けたまま固まった。
呆けたまま、彼の中ではまず無知な友人に対する怒りが、次いでそれを通り越して呆れがやってくる。
「はは、は……ハア」
乾いた笑いが漏れて、最後に重い溜め息となった。
「そうだったな……蓮はアホだったな、そういえば」
意気消沈としながら失礼なことをしみじみ宣う彼に、なにかしら言おうとしたところで二人の頭上でチャイム放送が鳴り響く。
「あ」
と蓮が固まる横で、慧は気を取り直すように呟いた。
「まあ、いい。君はそういう奴だ。代わりに、俺が気を付ければいいか……今までと変わらない」
いかにも疲れた様子でぼやくので、悪いとは微塵も思っていない蓮も一応謝った。
「……なんか、ごめんな」
「うるせえ」
とにもかくにも、友人の尖っていた神経は治まりつつあった。それに蓮は一安心し、慧は慧で改めて使命感を胸に宿す。
日常の空気を取り戻した二人は、そうして頷き合うと、途端に教室へと猛ダッシュした。
3
蓮たち二人が廊下を疾走した勢いのまま教室のなかへと滑り込んだとき、まだ教壇には誰も佇んでいなかった。
「ぎ、ぎりぎりセーフっ……!」
上がった息のままそう嘯いた蓮の頭を、横の慧がはたく。
「さっさと席につくぞ」
まだ担任教師が来ていなくとも、すでにホームルームの時間であることには変わりない。自分たち以外は全員が席に座っており、その教室中の人間が教室後ろから飛び込んできた彼らに視線をやっている。
居心地悪そうな慧に急かされ、蓮も「へいへい」と呟いて自分の机へと向かう。
二人が着席したちょうどそのとき、まるで見計らったように教室前方の戸が開いた。
「はいはい、おはようさーん」
気の抜けた声を上げて、一人の男が入室する。
二年三組の担任であり、そして書類上は蓮たち地学部の顧問でもある地歴教師、独身三十二歳である。
定時帰宅を信条にし、「趣味の合間に人生」を声高らかに謳う人間で、おそらくこの高校で最もやる気のない教員だった。
「よしよし、今日は遅刻なしだなあ」
教壇に出席簿を広げて、彼はぐるりと教室を見渡した。
その目が、ふと蓮のものとかち合う。
「危なかった奴もいたみたいだが、まあ、俺が来るより先に座ってたなら良し、と」
そのまま何事も無かったかのように出席簿へと視線を落とし、何やらチェックを付けていく。上から下までクラス全員に出席の印をつけたところで、パタンと閉じる。
「さて、本日の連絡事項だが……」
わざとらしくためを作ってから、担任はにやりと笑って言い放つ。
「――なんと、今日から我がクラスに一人増えます。転校生がやってきました!」
ざわりと、教室中が騒がしくなる。
「キンちゃん、男!? 女!?」
お調子者の男子が早速とばかりに飛びついた。
惚けて「俺は男だぞ」と返す担任に、「転校生だよ!」と叫ぶ。
「うむ」
もったいぶって頷き、担任教師は再びクラスをぐるりと見渡して、
「喜べ男子諸君! 転校生は美人な女子だっ!」
途端に、野太い歓声で教室が揺れた。
「う、うおおおっ! 時期外れの美少女転校生だと!?」
「ラノベかな!? マンガかな!?」
「美少女、キタコレ!? ひゃっほーい!!」
喜びに飛び上がる彼らがいる一方で、何やら祈るように手を組む者たちもいる。
「どうか神谷さんみたいな感じじゃありませんようにっ!」
「せめて普通の性格でありますようにっ!」
「残念系じゃありませんようにっ……!!」
「あんたら、それどういう意味よッ!!」
謎の盛り上がりを見せる男子諸兄と若干一名。
担任はその様子をうんうんと頷いて眺め、……女子生徒の冷たい視線に気づいたのか、それからハッとして手を叩く。
「はいはい、そこまで! そろそろ転校生に入ってもらうから!」
段々と静かになっていく教室を確認してから、彼は廊下に向かって声をかけた。
「それじゃあ、宗像。入っていいぞ!」
がらり、と戸が開く。
ひた、ひた、と下ろしたての上履きで足音を立て、その少女はとても静かに入室した。
彼女が姿を現した途端に、あれほど騒がしかった教室が嘘だったかのように静まり返る。
誰かが喉を鳴らした音さえ、響く。
少女が歩くたびに、後頭部で纏めた長い黒髪が尻尾のごとくゆらりと揺れる。
教壇へと登れば、担任教師と肩の高さが並んだ。
奇妙な静けさの中、彼から受け取った白チョークで黒板に自分の姓名を書く。
――カツ、と最後に音を立ててチョークを置き、少女はくるりと振り返った。
綺麗な板書の前で、美麗な顔から涼やかな声が放たれる。
「福岡から転校してきました。宗像柚葉です」
一拍置いて、教室中が爆発した。男女関係なく歓声を上げ、歓迎の言葉を叫んでいる。
誰もが想像していた以上の美少女の登場に、否応なく浮かれ気分になっていた。
――けれどその中にあって一人、蓮だけは机に顎杖を突いたまま硬直していた。
彼の視線の先、その少女の黒い瞳が、教室の奥に座る蓮のもとへと真っ直ぐに注がれていることは、おそらく彼の気のせいではない。
「よろしくお願いします」
軽く頭を下げる少女、彼女こそ以前に異界で出会った呪術師――。
祓い屋緋崎を名乗った少女であった。
 




