第陸話 七夕(二)
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かつて日本では、川や湖沼の深淵に湯河板挙という懸崖造りの小屋――たなをつくり、神の嫁となる処女を住まわせた。彼女たちは村を離れてひとり、深山の棚で機を織りながら神の来訪を待ち生涯を終える。
この古き神事はやがて水神に対する生贄の処女という形で伝説化していくことになるが、ともあれこの神女のことを棚機津女といった。棚で機を織る女という意である。
――すなわち、これこそが後世に七夕として中国の伝説と習合することになった、日本古来の習俗である。
またこの記憶は、淵や沼から機を織る音が聞こえる――その水底に機を織る女がいるという形で伝承されることにもなった。
これが、機織淵あるいは機織池と全国の各地で呼ばれるものである。
水辺から音が聞こえるという点では小豆洗いの妖怪とも通ずるが、その民俗学的に大変興味深い特徴から、単純な音の怪異とは一線を画す説話といってよい。
それが――この町にも存在している。
生まれ育った故郷にそのような場所があるとは露ほども知らなかった蓮がそれを聞いて、そのうえ「案内しましょうか」と提案する猫に対し、果たして首を縦に振る以外の選択肢を持ち得なかったのは彼の性分からすれば当然の帰結だといえた。
かつては半信半疑で怪奇趣味を楽しんでいた少年は、剣王鬼に始まる一連の出来事からそれらが実際に存在しているということを知った。そして知ってしまった以上、彼の知的好奇心はより深度を増していく。
これまで育んできた嗜好が更なる熱をもって稼働するのだ。それは、この熱に存分に浸れるならば一年で死んでもよいとすら考えるほどで――。
だから、そんな耳寄りな情報を聞いた以上は、例えいくら怪しくとも蓮には断るすべがなかった。
そう――とても怪しい話だった。
この白夜という存在に対して、蓮が持っている情報は非常に少ない。
彼女は五日前の夕刻、蓮の自宅の前で剣王鬼を待ち構えていた化け猫である。
どうも剣王鬼の古い知己であるようだったが、この妖怪がどのような身の上なのか、何をしに此処へと訪れたのか、全てが不明瞭だった。
剣王鬼と彼女の会話は、蓮の意識が起きている際には殆ど行われなかったからである。
というのも、剣王鬼はともかく白夜のほうが蓮を部外者として認識しているようで、敵視とまでは行かないのだが、剣王鬼の内で彼の意識が未だ覚醒していて聞き耳が立てられていると見るや否や、黄色い瞳を白く輝かせて睨みつけてくる。
それが、いわゆる魔眼と呼ばれる類のものなのか、それとも別種の何かしらの妖術なのかは蓮にはわからない。
ただ確かなことは、剣王鬼の視界を通してそれを視認すると、途端に彼の意識は深い眠りの中へと誘われ、気がついたときには夜が明けているのだ。
以来の五日間、白夜は蓮の家へと居座っている。
昼間に蓮が話しかけようとすると彼女は煩わしそうにどこかへ姿を消す。そして夕刻になると現れて蓮を眠らせる。
そういう訳なので何日経とうとも全てがよく理解できないままで、またすぐ眠らせられるので剣王鬼に問いただすこともできず、蓮は悶々と過ごしていた。
その白夜が、唐突に蓮へと自ら話しかけてきた。
それも――何やら彼の好物な餌をこれ見よがしにぶら下げて、である。
怪しまないほうがおかしい。……のだが、そう思っていたとしても、ついていってしまうのが渡辺蓮という男である。
知ってしまったからには、きちんと知るまで彼の好奇心は治まらない。
そういう事情をすべて話した結果、慧もまた同行すると主張した。
白夜も興味なさそうに肯くと、二人の先頭に立ってそのまま林のなかへと入っていく。
呆気に取られて残されそうになった少年たちは、慌ててそれに続いた。
獣道ですらない山中を、猫の見失いそうなほどに小さな背中を追いかける。
――その一方で、とうに日はすっかりと落ちている。
月と星々が頭上に昇り、完全な宵の闇が訪れている。
であるにも関わらず、蓮のなかで剣王鬼が起きるような気配は一向に感じられなかった。
そのことに、すっかりと機織淵の話で頭が一杯な蓮はまったくとして気がつかない――。
彼らの足は、どんどんと山の奥深くへ進んでいく。
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晴れ渡った星空は思いのほかに道を照らしてくれる。
先導する猫又が揺らす二本の尻尾を視界に入れながら、月明かりが魔力をもつという俗信を、あるいは月光は怪物の正体を暴き出すという伝承を蓮は思い浮かべていた。
いつのまにやら、彼らの足元は踏み固められた獣道に変じている。
この先に淵や沼があるならば、なるほど動物たちの水飲み場なのかもしれない。
「あとはどれ位なんだ」
彼のすぐ後ろを歩く慧が、肩越しに前方の猫へと問いかけた。
かれこれ、三十分以上は歩き続けている。
「もう着くわ」
白夜が静かな声で返答した。
果たしてその言は確かだったようで、そこからそう間を置かず目の前に月光が溢れる。
鬱蒼と茂る林の奥から、一行は開けた場所へと飛び出した。
「おお……」
感嘆の息を吐いた蓮が誘われるように一歩、前に出る。
ぐるりと周りを木々に囲まれて、穏やかな水面が口を広げていた。
全周で三十メートルはあるだろうか。
山頂側の向こう岸に小さな滝があるところを見れば、これは沼ではなく滝壺、つまり淵なのだろう。
視線を上げれば零れんばかりの星々が瞬いている。
天から降る星光のなかで、まるでそこは静かに眠っているかのようだった。
「こんなところに」
慧もまた驚嘆の声を出す。
白夜がさも心外そうにつぶやいた。
「言った通りでしょ」
そして、景観に見入る蓮へと顔を向ける。
「それよりも――ねえ、坊や」
振り返った彼の瞳をじっと見上げて、化け猫は問いかけた。
「聞こえない?」
蓮は目を瞬かせた。
「え……」
耳に意識を向けてみるが、遠くで岩肌を流れる滝の水音に、蟲や鳥の声――静かな夜の音しか入らない。
そばの慧の顔を見るが、彼も首を振った。
「何も聞こえないぞ」
そんな少年たちを無視するように、白猫は囁く。
「ほら、もっとよく耳を澄ませて――」
月明かりがあるとはいえ夜の暗がりの中なのに、その猫の姿は奇妙なほどにはっきりと白く映えている。
獣の瞳は冷たく輝き、囁くたびに赤い舌が顔をのぞかせる。
「――ね、聞こえるでしょう?」
蓮は言われた通りに、もう一度聴覚に集中する。
妖怪の言葉に愚直に耳を傾けている友人の姿に、苛立ちを隠さず慧が言う。
「だから何も聞こえない……蓮も、もう耳を貸すなって」
しかし、
「――いや、聞こえる」
ぽつりと、けれど明確に蓮が呟いた。
「え?」
白夜を睨んでいた慧が顔を上げれば、耳に手を添えた蓮が淵のほうを凝視している。
「本当だよ、聞こえる……機を織っている音だ」
そのまま、ふらふらと夢遊病者のような頼りない足取りで水際へと近づいていく。
「お、おい……」
慧が慌てて声をかけるが、まるでそれが耳に入っていない様子で彼は歩き続け、ついには足首までが水に浸かった。
「すごい……本で読んだ通りだ。機織淵の伝承は、本当だったんだ……」
ぼんやりと熱に浮かされたような声音で呟きながら、蓮はそのまま水面をのぞき込む。
「なら……やっぱりこの滝壺の奥には、竜宮乙女が……水神の生贄となった棚機津女が――」
淵の顔は穏やかに凪ぎ、天上の河が映り込んでいた。
鏡となったそれをぐっと身を乗り出して覗き込む彼の耳には、先ほどから静かな音が響いている。
かたり、ことり……かたん、ことり……。
機織機の音が、ただただ穏やかに続いている。
いつのまにか蓮の脳裏には、手弱女がひとり手織り機の前で座っている情景が浮かび上がっていた。
簡素な麻の衣を纏った美しい少女が、糸を手繰り寄せては織り込んでいく。
かたり、ことり……かたん、ことり……。
丁寧に、丁寧に……神へ捧げる布を優しい手つきで織っていく。
そして、――ふと。
想像上のはずの少女と蓮の視線が、ぱちりと合った。
泣き黒子のある寂しげな瞳が、驚いたように円くなる。
「え――」と驚きの声を上げる間もなく、彼の意識はそのまま暗転する。
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糸が切れた人形のように、唐突に顔から水面へと倒れこんだ友人の姿に慧は悲鳴を上げた。
「蓮っ!」
濡れるのも厭わず急いで駆け寄って持ち上げる。
腕の中の少年は、息はしているが意識がない。
「おい、おい! しっかりしろ!」
頬を叩くが、完全に無反応の状態だった。
「おい猫、どういうことだ!」
翻って岸辺に居る白夜に叫ぶが、彼女は木々の下の暗がりに座り込み、瞳を黄色く輝かせているのみである。
何の動揺も無く、ただ淡々と呟いた。
「成功かしら」
その言葉が届いた途端に――慧のこめかみで青筋が浮かぶ。
「お、お前ッ――」
やはり、何かの罠だった。
視界が赤く染まるも、ぐったりとした少年を抱きかかえているため動けない。
「諦めなさい」
双つの尾をゆらりと波立たせ、猫は静かに語る。
「ここは機織淵。若い身空で生贄となった乙女が、いつまでも誰かを待ち続ける場所……きっと寂しいのね、筬の音が聞こえる男を時折こうして引っ張り込むの。坊やの魂は肉体を離れ、今頃はきっと淵の底の竜宮で哀れな少女の相手をしているでしょう」
そこに罪悪感などは何もなく、ただひたすらに穏やかな声だった。
「さあ、その手を放してちょうだい。坊やの身体はもう、彼の物なのよ」
蓮の肉体を受け渡せと要求する化け猫は、そうしてゆっくりと前足を踏み出した。
慧は腕の中の身体を強く抱きしめる。頬に冷や汗が垂れた。
妖怪だ、やはり妖怪だ――。
目の前の猫は、やはり理解し合うことなど出来ない、人間とは根本で相容れぬ存在なのだ。
友人を抱えたままで、じりじりと水中を背後へ下がる。
それを追いかけるようにして、白夜もまた緩やかに寄っていく。
互いに睨み合ったまま、静かな鬼ごっこが無言で始まる。
だが、そのうちに慧はとうとう瀬の終わりまでたどり着いてしまった。慌てて後ろ足で方々の水中を漁るが、そこより先はポッカリと足場がない――淵だ。
すでに胸元まで浸かっている。
服も水を吸って重くなり、そしてなにより脱力した同年の男を抱えている……。
このまま更に後進したとして、果たして蓮を抱えたまま泳げるかが判断できない。
対して、白夜は余裕綽々と水面の上を歩いている。
「ね、諦めなさい」
慧の様子を見て足を止め、白猫の怪物が囁いた。
「大丈夫よ……あなたには興味がないわ、何もしない」
冷たい瞳に反して優しげな声音で、静かに重ねる。
「さあ――」
けれど、慧が一か八かで淵に飛び出そうとしたそこで、その場に新たな声が割って入る。
「――いや、失敗だ。白夜」
その声は――慧の胸元からであった。
彼が抱えた少年、その唇が動き、その喉から友人よりもずっと低い声が紡がれる。
「な、あ……」
固まる慧が見下ろす中、瞼がゆっくりと開き――紅に輝く鬼の瞳と視線が交差する。
「ご苦労」
剣王鬼はそう一声述べて、慧の腕の中から抜け出した。浅瀬に足を付けた彼は、そこからまるで階段を上るように水面へと登る。
白猫と同じように水上に立てば、瞬間に何処からか湧き出てきた暗い気配がその身を包み込む。黒い霧のようなそれが晴れたときには、彼は乾いた着物装束へと変じていた。
その瞳が、ふと足元にいる少年を見下ろす。
「……剣王鬼」
ようやく気を取り戻した慧が、かろうじてその名を絞り出した。
友人の肉体を乗っ取り、いま再び目の前に現れた魔王。
一度目に出遭った際には何も動けなかったが、二度目までもそのままではたまらない。彼は、その強大な気配に怯える身体をなんとか精神で組み伏せながら、全ての元凶たる男へと鋭い視線を向けた。
「――そう睨むな、小僧は眠っているだけだ」
剣王鬼は鼻で笑うと、ただそれだけ言って視線を前方の猫へと移す。
「確かに連れていかれそうだったがな、己が引き戻した」
静かに紡いだその言葉に困惑したのは、足元の慧だけではなかった。
「どういうこと?」
剣王鬼と向き合う形で水上に立っていた化け猫が、心底に不思議そうな声を出した。
「あの坊やさえ居なくなれば、もう貴方は――」
「白夜」
びくりと、まるで怒られた幼子のように猫がその身を縮めた。
「己は、此奴と契約を交わした――渡辺蓮が己を受け容れる代わりに、其の時まで己は此奴と輩をあらゆる障害から守護し、そして一年間は魄を完全に奪わない……」
静かに語りながら、剣王鬼は両腕を広げた。
「渡辺蓮は身命を賭して契ったのだ。約定は、守らねばならない」
細めた瞳が、より紅く輝く。
「余計なことはするな――」
月光の下、滝壺に佇む二体の妖怪はこうして見つめ合う。
そして――
「……わかった、わかったわよ、もう。貴方のためにしたことなのに……相変わらず頑固者なんだから」
ため息を吐き、化け猫は肩を落とした。
へにゃりと、二本の尾も水面へ垂れる。
「それでいい」
剣王鬼もひとつ満足そうに鼻を鳴らすと、一歩、二歩と水上を歩き出す。
そのまま白夜の横を過ぎ、彼女も彼の背に続く。
……何やら一件落着したかのような雰囲気で去ろうとする妖怪二人組のその背に、先ほどから蚊帳の外となっていた少年が叫んだ。
「――待てよッ!」
水の中でひとり濡れている慧が、苛立ちを露わにして睨んでいる。
「その体は、蓮の体だ! 蓮が、蓮の人生のために使用するべきものだッ!!」
身体は相変わらずに剣王鬼の発する濃密な鬼気に反応して怯え震えそうになっているが――それ以上の怒りがあった。歯を食いしばり、水の底を踏みしめる。
先ほどから聞いていれば、何なのだ。
やれ「その体はすでに彼のものだ」やら、「契約により一年間は奪わない」やら……。
元々の持ち主は剣王鬼ではなく渡辺蓮であるというのに、こいつらは――。
(――ふざけてやがるッ……)
慧は生まれつきの霊能力者であり、人ならざるモノとの付き合いは非常に長い。
つい最近に霊感が覚醒しつつある当の友人は、どういうわけか剣王鬼に対して親しみすら覚えているようだが――慧は断言する。
そんなものは、幻想だ。
人外は、文字通りに人外でしかない。
先ほどに剣王鬼は「既に契約を結んでいるから」として白夜の策に嵌まった蓮の魂を救出したようだが、それだって、ただ単純に「今回は偶々にそういう気分だった」だけでしかないだろう。
いつ何時に気分が変わり、あっさりと契約を反故にするか分かった物ではない。
人外は、妖怪は――言葉を操り、意思があり、まるで人間と同じような存在にすら見える。
しかし、違うのだ。
やつらは、根本的に違う生物なのだ。
人間と同じように感情があるように見える。喜怒哀楽があり、義理人情すらあるように見えることだってある――だが、慧は繰り返して断言する。
そんなものは、幻想だ。
幻想なのだ。
いつの間にか剣王鬼は足を止めていた。
そして、ゆっくりと振り返る。
鬼の瞳と、人の瞳がかち合った。
「……ッ」
キモチが悪い。
友人と全く同じ顔かたちなのに、それなのに何を考えているのか、まったくとして理解できそうにない――やはり妖怪だ、化物だ。
この男の瞳は、そこに映る色は、精神は――。
――まるで、爬虫類のようだった。
「汝は――そう。確か……」
温度を感じぬ瞳で、しかし言葉だけは落ち着いた柔らかい声音で剣王鬼が語る。
「問うが、なにをそこまで憤る必要がある」
心底理解が出来ない、と身振りで示す。
「汝こそ喜べばいいだろう」
岸辺の紅い瞳が水辺の少年を見下ろす。
そして、
「あと一年で、恋敵が消える――それだけだ。何の問題があるというのか」
言い放った。
「――ッ」
慧の思考は一瞬で赤熱に染まり――
「ふざけるなッ……ふざけるなぁッッ!!」
叫んでいた。
「俺は、俺は絶対に諦めないッ! お前を! お前から! 蓮を助けてみせるッ!!」
鬼に向かって指を突き刺し、激情の儘に宣言する。
しかし剣王鬼は興味がなさそうに一瞥すると、そのまま無言で背を向ける。
「逃げるなッ……くそっ」
慌てて追いすがろうとした慧だったが、剣王鬼に萎縮した肉体を思うように操縦できず、顔から水面へと倒れこむ。
腕を突き立て、慌てて立ち上がったときには、岸にはただ夜の闇が広がっているのみだった。
友人に憑依した剣王鬼も、あの猫又の姿も、どちらも影も形もない。
慧の唇がわなわなと震え……
「――クソォッ!」
握り拳を水面に振り下ろす。
飛び上がった冷たい飛沫を、頭から被る。
それでも赫怒の熱は冷めきらず――今度は両腕の拳で、繰り返す。
「クソっ、クソっ、クソォッ――」
不条理な人外共、理不尽な世界、何も力を持たない自分自身……、あらゆるものへの怒りがひたすらに心中で暴れまわる。
山奥の暗がり、星々が輝く空に、しばらく少年の慟哭が響き渡った。
第陸話 七夕 /了。




