第伍話 咒師(三)
3
静かに見つめる友人の視線は、ぶれることなく真っ直ぐだった。
散々に話題を逸らしていたように見えたが、何だかんだで話すうちに腹を決めたのか。
蓮も蓮で、昨晩のうちに覚悟だけは決めていた。――少なくとも、慧には伝えておくべきだろう。
ごく軽い調子で蓮は片手を立てた。
「ごめん、実は剣王鬼」
目の前の少年は小さくため息を吐いた。
「……やっぱりな」
更に口を開こうとしたところで、慧が言葉を続ける。
「そもそも、あの緋崎が人助けをするなんて思えない……」
珍しく本当に嫌そうな顔をして吐き捨てた。普段から大人びている彼が、ここまで他人を嫌っている様子を見せるだなんてことは滅多にない。
蓮は放とうとした言葉も忘れて呆気にとられる。
「葵も毛嫌いしてたみたいだけど……」
意外そうに聞き返した。
「緋崎って、何かあるのか?」
祓い屋緋崎を名乗っていた少女を思い返す。問答無用で攻撃された身としては確かに思うところがないわけでもなかったが、あれは十割に剣王鬼が悪かった。
それに葵の家の仕事を横取りしたことがある……とは聞いたが、それだけで友人たちがここまで嫌うような少女であるとは、蓮はどうしても思えなかった。
「……悪い噂しかないんだ」
蓮の視線に気まずそうな顔をしながらも、慧は語る。
「人里離れたどこかの山奥に引き籠っていて、非人道的な研究を日夜繰り返しているとか何とか……まあ、あまり評判だけを鵜呑みにするのもあれだけどね。度を越した秘密主義で、宗主を含めて殆ど表に出てこないのは確かだ。他にも密輸やら人身売買やら、あげくには呪術の人体実験に至るまで、とにかく黒い噂が絶えない」
想像以上に非道い内容だった。まるでヤクザかマッドサイエンティストのような扱いである。
「でもさ、国が認めた……えっと、裏八色、なんだろ。さすがに犯罪は」
食い下がる蓮だが、慧は首を振った。
「むしろ、それが最大の悪名なんだ。裏八色の他の一族は千年以上の歴史を持つ正統な名家だけれど、緋崎は違う。精々が数百年の新興の一族で……ある功績を上げるまでは殆ど無名の一族だった」
ひとつ息を継ぎ――
「死なない兵隊を造ったんだ」
蓮は一瞬、意味がよくわからずに固まるが、慧の次の言葉で理解する。
「地獄と呼ばれた太平洋戦争のときだよ。その功績で、緋崎は一夜にして天下の裏八色入りを果たした」
彼の口振りは酷く重々しかった。知らずに蓮も息を呑む。
「資料は戦後に処分されたから詳しくはわからないけれど、当時からしても悍ましい研究、狂気の産物だったと伝えられている。たぶん死体を使った呪術なんだろうな。……そういうわけで、戦争が終わって民主化されて、大日本帝国が解体された現在でも、緋崎は呪的軍備のための狂った研究をしているんじゃないかと周囲から恐れられているんだ」
そして沈黙が落ちた。
「……」
実際に出会った祓い屋の少女と、友人が語る緋崎との印象の落差に戸惑っているところで、その友人が再び口を開く。
「――まあ、だから、つまりはあまり緋崎には近づかないほうがいいってことだ」
空気を変えようとするようにそう言って、慧は膝元から新たに本を取り出した。
「それはともかくとして、蓮に取り憑いてる悪霊……剣王鬼だっけか。前回や今回は偶々助けられた形になったけれど、彼奴に関しても特に気を付けなよな。くれぐれも、気を許したりするなよ」
手にした本を開き、パラパラと頁をめくる。先ほどに呪術協会の冊子と共に本棚から抜いていた内のひとつだった。
「そんで、まだ解決策は見つかってないんだけど、一応はひとつ思ったことがあって……」
言いながら開いた頁を見せようとしてくる。
しかし、それを蓮は言い難そうにしながらも遮った。――緋崎の話に流されてしまったが、先ほどに言いそびれたことを今度こそ伝えねばならない。
「それなんだけどさ、その――実は、剣王鬼とは和解したんだ」
「――は?」
彼の手が止まった。呆気にとられたように顔を上げている。
「慧はそう言うけどね、話してみれば剣王鬼もあまり悪い奴じゃないみたいだし……思えばこの状況ってオカルトマニアな僕からしたら、わりと願ったり叶ったりみたいなところもあって……」
矢継ぎ早に話すうちに蓮の言葉には熱が入っていくが、対照的に慧の顔色はどんどんと悪くなっていく。
「まさか……受け入れたのか」
愕然とした様子で零れた声に、蓮は頷く。
「寿命も?」
またしても頷き――
「――ふざけるなッ!」
立ち上がっていた。
見下ろす慧の瞳は激情の色で染まっていて、そんな彼の姿を蓮は初めて目にした。
「人生を諦めるのかよ! それでいいのか!?」
友人の聞き慣れぬ怒声にびくりと肩を竦ませながら、それでも蓮は肯いた。
頬を指で掻きながら、へにゃりと笑い、
「例え短くてもさ、楽しく生きて死ねるなら、それでいいかなって――」
ふと、そこで気づく。自分を睨んでいた慧の目の色が変わっている。――それは信じられないものを見る目、理解できぬものを見る目だった。
彼はひどく狼狽した様子で、一歩、二歩と壁際まで後ずさる。
そのまま、すとん、と脱力したように腰を落とすと頭を抱え込んだ。
「神谷はどうするんだ……皆になんて話すんだ……」
打って変わって弱々しく呟かれたそれに、蓮は「あー」と頭の悪そうな声を出してから、
「なんも考えてないからさ、まだ内緒にしといてくれない?」
軽い調子で、きわめて利己的な宣言をした。
慧にとってみれば理不尽で、どこまでも薄情な言葉だろうとは承知していたが、それでも蓮には取り下げるつもりが全くなかった。
今まで触れ得なかった世界の裏側……そこを思う存分に楽しめたならば、例え一年間で命が尽きようとも構わない。この少年は、本気でそう思っていた。
しばらくして、ぽつりと音が漏れる。
「すまん、今日はもう帰ってくれ……」
友人の打ちひしがれた様を前にして、彼をそうした犯人たる蓮はもう掛けるべき言葉を持っていなかった。
4
慧の家を出ると、すでに空は夕焼けに染まっていた。
山門傍に停めていた自転車に跨ったところで、蓮の脳裏に低い声が響く。
《――残酷な男だな》
無言で自転車を発進させ、帰途へとつく。
ややあってから、覇気なく答えた。
「やっぱり、そうかな」
《当たり前だろう。汝の方が異常なのだ》
剣王鬼は断定する。蓮は思わず呟いた。
「そんなに変かな……」
《変だな》
キッパリとした即答に、ペダルを漕ぐ足を止める。
「というか、いつから聞いてたんだよ」
《初めからだ。――例え起きていなくとも、夢と現の間で凡その状況は聞こえてくる》
初耳の情報に「へえ」とひとつ零して、また運転に戻る。
茜色の景色が、目に眩しい。
黙々と、ただ帰路を進む。
慧と蓮の家は小中学校の学区こそ異なるが、大して広くない町なのでそれほど離れてはいない。それから三十分ほどで自宅へと到着した。
「……」
物思いにふけながら自転車を庭に仕舞い、玄関の前で鍵を取り出す。
――と、そこで。
「ようやく帰ってきたのね。遅いご帰宅だこと……」
聞き慣れぬ声に、蓮は顔を上げた。
しっとりとした艶のある、大人の女性の声だった。振り向くが、家の前には誰もいない。
「あれ、今、声が……」
若干のデジャヴを感じながら呟いたところで、
「どこ見てるの、坊や。此処よ」
またしても声。
しかも先ほどよりもずっと近い――まさか。
気の付いた蓮が視線を落とせば、すぐ足元に影がある。
真っ白な毛並みの、大きな猫だ。
行儀よく座り、くるりとした瞳がこちらを見上げている。
ゆらりと揺れる尻尾が――二本あった。
「ばっ……」
化け猫――そう叫ぶよりも先に、とん、と最早慣れた感覚。
魂の退かされた身体に剣王鬼が憑依する。
一拍置いて、落ち着いた低音が喉を震わした。
「――久しいな、白夜」
白猫の双つの尾が波を打つ。
「貴方こそ、随分と遅い御目覚めじゃない――」
蓮の自宅前で邂逅した二人の妖怪、向かい合う彼らの声は親しみに溢れていた。
5
暗い部屋だった。
買い置きされたインスタント麺やミネラルウォーター、それらをはじめとした段ボール箱が雑多に溢れた狭い部屋の様相を、ノートパソコンから洩れる光がぼんやりと照らし出している。
『それで――』
電気信号から再変換された音声が、響く。
『剣王鬼、と――確かにそう言ったのだな』
「はい」
空き箱の上に置かれた古びたPCの、その画面の前で跪いていた少女が、顔を伏せたまま静かに答えた。
『ふん、そうか……』
画面の中の影が身を震わせる。やや置いて、少女は彼が笑っているのだと気がついた。
『そうか、そうか……ようやく目覚めたか』
上機嫌な様子の声に、彼女の緊張が高まっていく。
老いて枯れたその声は、しかし不気味な存在感を持っていた。
冷や汗が浮かび、今にも震えそうな体を意思の力で抑えつける。
『――柚葉』
名を呼ばれ、瞬間だけびくりとしてから、慌てて平伏し返事をする。
「はっ……」
その少女の様子を数秒ほど眺めてから、声は続けた。
『新たな任を与える』
少女は再度答えると、そのまま黙って拝聴する。
『赤沼町へ赴任し、剣王鬼の監視につけ。最低限の荷だけ持ち、疾く出立せよ。転出や転校の手続きは此方で済ませておく』
「……拝受いたしました」
平伏したままで任を受ける。そうしてから、少女はふと訊ねた。
「あの、呪術協会への報告は如何なさいますか」
異界の底で出遭った剣王鬼のことを少女は想い起す。あれほどの妖力、存在感……放置するのは非常に危険な存在だ。
監視役というのも、事を構える準備が整うまでの中継ぎ役だろう――そう考えた彼女に反して、声は断じた。
『その必要はない』
「えっ」
思わず顔を上げて、しかしすぐにハッとすると慌てて伏せる。
「す、すみませんっ……」
滝のように汗が噴き出して、ぽたぽたと床に染みを作った。
『いいかね、もう一度言おう――剣王鬼の監視が、お前の任務だ。彼の動向を逐次我等へと報告する事。それの他にするべきことは何もない。何も、だ……』
荒だたせるわけでもなく、あくまで静かに念押しをする声に、少女は床に額を擦り付けて承諾した。
『……それでよい』
電子の画面の向こう側で、麹塵袍に身を包んだ老人が冷たい瞳で彼女を見下ろした。
『所詮は我等の狗であること、努忘れるなよ――』
そうしてブツリ、と画面が消える。
完全な宵闇に閉ざされた部屋に、少女がひとりだけ残された。
第伍話 咒師 /了。




