第初話 廻生(一)
第一部 鬼の章
大倭篇
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それは、さながら宵染めの絹を引き裂くかのように――。
常なら静謐が拡がるのみの夜天に、赤々と縁どられた黒煙が立ち昇っていた。
大蛇の舌の如き炎が、ちろちろと舐めるように地を吞み込んでゆく。
太古の森は、それに悲鳴を上げていた。
巨大な樹々が鬱蒼と生い茂り、巨躯の獣が駆け、精霊たちが踊り舞う――神代の面影が強く遺る、そんな神域が今や地獄の写しと化していた。
その中を、慌ただしく踏み荒らす影が複数あった。
彼らの一人が、怒鳴る。
『居ったか!?』
もう一人が呼応して、
『居らん!』
そして残りの誰かが叫んだ。
『見つけ出せ! 鬼の化は除わねば!』
矛を、鉄剣を、各々に構えた人影は、そうして炎の合間を森の奥へと去っていく。
――それを、息を潜めて見送った者がいた。
薄汚れた着物を纏った男で、歳はおおよそ十代の半ばを過ぎたほどに見える。旧き樹の根元の洞に身を隠し、浮き上がった根と地の隙間から、影の行軍をジッと身じろぎせず眺めていた。
そして追っ手の姿が闇に霞んで消えたことを確認すると、小さく息をついた。
彼はもう一人、少女をその腕に抱いていた。同じ年頃に見える彼女は、白い肌に白銀の髪を持ち、小柄な体躯で……その端正な造形は、どこといわず神々しさすら覚えるほどの美貌であった。
しかし、尽きることのない汗に濡れそぼち、彼の胸元で苦しげに浅い息を繰り返すその様子は、到底に健常だとはいえない。
少女のその白桜色の着物は、胎のところで赤黒く変色していた。
彼女を抱く腕を伝い落ち、すでに男の足元には小さくない血だまりが生じている。誰であろうとも命の危険を覚える量だった。
と、そのとき、彼女の閉じられた瞼がふと微かに反応した。
慌てた様子で男が声をかければ、果たして少女の瞳はゆっくりと開いてゆく。
『此処、は……』
朦朧とした様子で、まるで熱に浮かされるようにそう零す。そうしているうちに自身をのぞき込む彼に焦点があったところで、ようやく彼女の瞳にも整然とした理性が灯る。
定まった視線を逸らさぬまま、少女は何ともとれぬ息を、ほうと吐いた。
『嗚呼――』
そうして力なき言葉で、男の名を呼んだ。
男もまた、女の名を呼ぶ。どこか幼子が親に縋りつくような必死さで、掻き抱いた細い肩を強く掴む。
少女が、ふふ、と吐息を漏らす。
淡く、儚い笑みだった。
『虚けが……泣くでない……』
男は、涙を流しているわけではなかった。悲愴な色に染まってはいるが、その瞳は平素と変わらず乾いていた。
しかし女には、その内側で溢れるものが見えているかのようだった。
『大丈夫、大丈夫じゃ……』
弱々しく震える掌が、彼の頬に添えられた。
彼女は慈しむように目を細めると、白い指先でそれを撫ぜる。
『また、逢える』
唐突に切り出されたそれに、男は小さく困惑した。
女は悪戯げに目元を緩める。
『……云うたであろう。吾も、生者よ』
彼は、はたと思い当たった。
遥かかつての記憶……そこで彼女は、弟子たる彼にこう説いた。
――総ての生命は、輪廻する。
気のついた様子の彼を見上げて、少女は薄く微笑んだ。
そして言い聞かせるように、繰り返す。
また、逢える。
だから。
『――汝は、死ぬな』
その時まで、生きていろ。
このままひとり逃げるのだ。
そう囁く少女を、男はただ抱きしめる。
共に過ごしてきた、これまでの日々が脳裏を駆けた。
救けてくれた。支えてくれた。導いてくれた。愛してくれた……。
かけがえのない……紛うことなき無二の存在だった。
けれども彼女の命の灯火は、消えゆくその様相は、もはや傍目にさえ克明だった。
だから男は、……男も。強く抱き寄せたその耳元で、囁くように契るのだった。
――ああ。ずっと、待っている――……。
1
「……んぐぁ?」
そんな間抜けな声を漏らして、渡辺蓮は微睡みから意識を取り戻した。その拍子、支えていた手杖から顎がずれ落ち、――勢いそのまま机に額。
鈍い音が辺りへ響いた。
「ぐ、お、うおおぉ……」
頭を抱え、少年はその場で身を丸める。
すぐそばで誰かが小さく噴き出したような気配がしたが、それに取り合っているほどの余裕はなかった。
それでも、やがて痛みは引き始める。しばらくすると蓮は伏せていた顔をゆっくりと上げて、涙目で周囲を見渡した。同時、ずれ落ちていた黒縁の眼鏡を鼻へとかけなおす。
まず目に入るものは大量の本だった。やたらと年季の入った木製の棚に、様々な背表紙が上下左右にずらりと並んでいる。それが奥へと何列も続いていた。
板張りの床も、壁も、天井も古く、日焼けした木材が黒ずんでいる。蓮が現在に座っている椅子や長机も、同様に骨董品染みていた。
ひとけのない、どこか薄暗く、そして埃っぽい空間。
「……ここは、そうか」
寝呆けていた意識が、次第によみがえる。微かな鈍痛の残る額をさすりながら、蓮は手元に視線を落とした。
机上には筆記具とノートのほか、町史など幾つかの郷土資料が乱雑に置かれてある。
(宿題をやりながら、居眠りしちゃったわけね……)
ようやくにして現状を把握する。
この寂れた場所は、近所にある町立図書館だった。
高校の授業で出された課題のために、休日に調べ物をしていたわけである。
落ち着いた途端、どこからともなく欠伸がこみ上げてきた。それを喉奥で噛み締めつつ、気怠そうな仕草で首を回す。
無理のある姿勢で眠っていたためか、首元や肩が凝り固まっていた。
また、それだけでなく。
(なんだか変な夢を見ていた気もする)
首を揉みつつ、そんなことを考える。だが、具体的な内容はまったくとして思い出せなかった。
なぜだか妙に疲れたような感覚が、わずかに残っているのみである。
まあ、いいか――そう思ってすぐに忘れ去った。
覚えていないのなら、特にたいしたものでもなかったのだろう。蓮は、そういう考え方をする人間だった。
たかが夢の話よりも、目前のノートのほうが重要な問題……いや、それよりも。
ようやく蓮はジトっとした半目で斜向かいに座る男を見やった。
先ほどに彼が目覚めてより、ずっと口元を抑えてなにやら震えている男である。
というより、まあ、明らかに笑われていた。
「いつまでツボってんだよ」
非難の色を込めてそう声をかければ、とうとう彼は手を解放して、瞬間、哄笑。
「あはっ、あははは」
場が図書館であることも忘れた様子で、男――不死川慧は快活な笑い声を響かせた。その目じりには涙さえ浮かんでいる。
日曜日の昼下がりということもあって、町立図書館にはほとんど人がいない、というよりもおそらくは二人のほかには利用客がいない。ただでさえ老朽化が進んでいることに加えて、隣町にはもっと新しくて設備の整った市立図書館があるので、この館はあまり人気がないのだ。
……それでも、羞恥というものは感じる。
慧は恨みがましい目で見る蓮に気づくも、
「いやっ、ごめっ、ごめん……ちょっと、お、面白すぎてっ」
などと、まるで悪いとは思っていなさそうな調子である。
彼は、蓮の友人だった。
高校に入学した際に知り合って、今年で二年目――。今では彼と蓮と、さらに二人を加えた四人のグループで過ごす日々が日常となっている。
それにしても、だ。
蓮は胸の内で愚痴をこぼした。
(このイケメン、笑いすぎじゃね)
髪は短めにそろえられ、細身でありながら引き締まった体躯は180センチを超える高身長。そのうえ成績も優秀で、俳優にだって負けないだろうと目されるほどの端正な顔つきをしている。
……いわゆる眉目秀麗かつ文武兼備と称されるべき人種が、不死川慧だった。
慧は「ああ、お腹痛い」などとうそぶきながら、なおも笑うことをやめていない。
指で目元をぬぐいながら、もう片手を腹に添えているその恰好は到底に格好いいなどとは言えないはずなのに、彼の姿はなぜかとても様になっていた。
心なしか、笑い声自体もなんだか爽やかな感じである。
(こいつの笑いのツボがわからん)
蓮は、未だに赤くなっている額をさする。目の前の友人は普段はもっと大人びた、冷静沈着な印象を放っているのだが、時たまに現在のように笑い上戸へと変貌するのだった。
一方でそんな彼の容姿はというと、慧と比べてしまえばとんと派手さがない。言い捨てて、地味だ。
髪はところどころで寝ぐせがはねていて、おとなしそうな顔には大きな黒縁の眼鏡がのっている。体躯も中肉中背で、成績は悪くはないものの、とりたてて自慢できるほどでもなく、本の虫な幼少期を過ごしたためか運動はというとからっきしだといえた。
文学少年染みている、などと好意的な意見が寄せられたこともあるが、大抵の者からは地味でオタクっぽい、などと称される……まあ、どんな場所にでも必ず一人はいるだろうありふれた印象の男であった。
そんな両極ともいえる印象を放つ二人が、実際では馬が合い、今やおそらく親友と呼べるだろう間柄であるのだから、まったく世の中というものはよくわからない道理をしていると、蓮は常々思っている。
未だに笑い治まらぬ慧はとりあえず放置して、蓮は自身のノートを手に取った。
そしてそれを検めて、小さく嘆息する。
「うわ、全然進んでねえ……」
当たり前といえば当たり前のことではあった。彼はつまり、課題をこなすための調査をしている、その途中で睡魔に負けてしまったのだから。
自身の住む町について、なにかしらの史実を調べてまとめてくること。
それが学級の担任でもある地歴教員が、彼ら生徒に課した宿題であった。
蓮はもう一度ノートを見やる。見事にまっさらだった。
かろうじて興味を覚えた記事が幾つかメモされているが、これらをまとめたところで、到底にレポートの体裁は成り立たなそうである。
過去には若さゆえの素行の面で何度か注意を受けることもあったが、基本的には穏当で真っ当な準優等生を心がけている蓮である。
そんな彼としては、あまりいい加減なレポートを提出したくもなかった。
――しかしそれはそれとして、けれどもやはり、蓮の興味を引くような事柄が見当たらない。
町史をパラパラとめくりながら、ひとり不満を零す。
「なんかさ、もっと、こう……ないのだろうか」
具体的に何という指名はないが、もう少しハジケたような何か。そんなものを夢求しながら、ありふれたベタっとした記事の並ぶ郷土史を繰ってゆく。
そんな彼の様子に、ようやく笑い地獄から生還を果たした慧が目を向けた。彼は息を整えながら「ああ……笑った」と満足げにつぶやいてから、
「またおかしなことでも考えてるな」
そう声をかけた。
その声音には特段貶めるような響きはなく、むしろ親しみが込められているものだったが、対する蓮は少しだけむっとした表情でかみついた。
「おかしいとはなんだね、おかしいとは」
慧はそれにあえてとりあわず、
「だいたいさ、こんな田舎町になにを求めてるんだい。テキトーでいいだろう、テキトーで」
言いながら、蓮の見ていた町史を取り上げ、自身でめくる。
その様子に先ほどまでの笑い転げていた面影はなく、普段にある大人びた雰囲気へと戻っている。
相変わらずにギャップの激しいイケメン野郎だと、蓮は内心で思った。
「そういえば、そっちはもう決まったん」
「おう、とりあえず江戸時代の宿場町だったころについてまとめてみた」
ふと問いかければ、そう軽く返答。
そっか、とうなずくと、おまえもちゃっちゃと決めればいいだろうなどと再び返される。
「いやあ、それが、なんかまったく心惹かれるものがない」
蓮は言うと机にだらりとうつ伏す。
「贅沢な奴だな」
慧は呆れたような声を出して、と、そこでページを繰っていた指を止めた。
「……お、これなんか蓮好みじゃないか」言って、開いたページを見せてくる。「ほら、坂上田村麻呂が峠を越えたって記録があるぞ。鬼退治の田村麻呂」
蓮はそちらをちらりと見て、
「知ってる」
「なんだ、そうか」
慧はさほど残念でもなさそうな感じで手を引っ込めると、またペラペラとめくる。
「やっぱり、直接に怪異が在った、とかじゃないと駄目か。そういうのじゃないと蓮の食指は動かんのな」
彼がつぶやき、
「……まあ、そうかも」
蓮も間を置いて同意した。
彼は少々と言わずに変わった嗜好を持っていて、妖怪だとか都市伝説だとか、そういうオカルト関連の話題が、三度の飯より好きだった。
これは彼の友人も皆が知っていることで、実際、隣町の心霊スポットなりへの実証見聞に付き合わされる、などのようなことが、これまでに幾度もあった。
おそらくは、俗にいうオカルトマニアに分類される人間だった。
蓮は起き上がると、持っていかれたものとはまた別な郷土史を手に取り、ページをめくる。
その様子をちらりと横目で窺って、慧はそれとない風で言う。
「別に趣味は趣味でいいけれど、……なあ、蓮。前から思ってたんだが、なんでそんなに変化を求めるんだい」
「ん、なんか話が飛んだぞ」
「そうかな」
慧はページを繰る指を止めないまま、静かに続ける。
「だっておまえのオカルト趣味って、つまりは変化が欲しいってことだろ。日常に変化が欲しいから、非日常に憧れる感じ」
「……そりゃ。たぶん、そうだけど」
「なんで?」
「なんでって……」
蓮はその男の顔を見上げ、鼻白んだように数瞬まごつくと、
「やっぱさ、刺激が欲しいじゃん。人生さ」
「そうか? 今のままでいいと思うけどなあ、平和で……」
その言葉に、思わず返した。
「枯れてるなあ」
2
結局その日、蓮好みの記事は見つからなかった。
時刻は午後五時を回ったが、夏が近いので空はまだ青かった。
「提出は水曜だけど、大丈夫か」
図書館からの帰途で、自転車をゆっくりと漕ぎながら慧が言う。
隣で同様に自転車に乗っている蓮も、
「まあ、なんとかするよ」
そう返して、そこで前方が赤信号なので停車する。
周囲には田園が広がっている。そばの車道は二車線でそこそこ広いが、車の影はほとんどない。遠くに軽トラックが路駐されている程度である。
日本のどこにでもあるような地方都市、その片田舎の、とくに賑わう観光地も無いそんな町。それがここ、赤沼町であった。
ふと見上げれば、遥か高みで鳶がゆっくりと旋回していた。
「お、青だ」
慧に促されて再びペダルを漕ぎ出す。
そのまましばらく進んだ先で、二人の帰路が別れた。
「じゃ、また明日な」
「おう」
手を振る慧に、蓮も腕を上げて返す。そうして去ってゆく背中を少しだけ見送ってから、彼もまた己の家に向かって進みだす。
赤沼町は、静岡県の東部にある。北は山脈の尾根が続いていて、西で太平洋と繋がる湾に面している。東と南で隣町である神南町、砂川町と接しており、それに五町三村を加えて三浜市となっている。
神南町は宿場町の面影漂う情緒ある景観が残っており、擁する三浜大社には観光客も多く訪れる。砂川町には大きな漁港があり、魚市場が賑わっているほか、全体として中小のビルが猥雑に立ち並ぶ都市的な街並みが広がっている。それらに対して赤沼町はといえば、ただ山に囲まれ水田が広がっているのみであった。
(まったく、何もなくて嫌になるね)
それが、故郷に対して蓮が常々思っている、正直なところの感想であった。
とはいえ、全くの無関心かといえば、実をいえばそんなわけでもない。蓮は故郷に関して、ひとつの説を持っていた。
――この町には、忘れ去られてしまった伝説があるのではないか?
そんなことを、彼は割合真剣に検討していた。
というのも、彼の目には町名の「赤沼」が妙に意味深げに映るのである。
“赤い沼”……とくれば、それはもしかして血の池か? と、そんな具合である。
遥か昔、この土地で何か血塗れた出来事が起こったのではないか。そしてその記憶が風化し消え去った現代にさえ、地名として残滓が留まっているのではないか。暇を持て余した怪奇趣味の少年は、そのようなことを中学生の頃から考えている。
ただ、現実的に考えれば、そのような可能性は非常に低い。
例えば京都府中部、亀岡盆地の辺りは、古くは丹波の国という。丹色の波が立つ場所……つまりは、赤色の海があった場所という意を持つ。ところが勿論、これは血の海などという物騒な内容ではない。
古代、この辺りには赤土で濁った湖……あるいは湿地帯があった。そこを開発して国を造ったということで、斯様な地名なのである。
尋常に考えるのならば、赤沼町の場合も同様にかつて赤く濁った湖沼があったとするのが自然である。
ただ同時に、明確な記録としてそのような湖沼の存在は残っていないということも事実であった。
そして、どの郷土誌を幾ら繰ろうとも、町名の由来は不明とだけある。
その二点を以て、蓮は消え去った血色の伝説の、その存在を主張している。
この仮説を話すと、友人や大人たちは皆、一様に曖昧な表情を浮かべ、それは妄想でしかないと彼を宥めた。
しかし、それでも蓮は、何か己の底の直感染みた部分が支持しているというそれだけで、一向にこの説を取り下げずにいる。
(結局、今日も何もわからなかったな……)
蓮はできることなら、地歴のレポート課題も、この説でひとつ書き上げてみたかった。だが、レポートにするにはまず、論拠となる物が現状では足りなさすぎる。それは彼にもよくわかっていた。
直感と怪奇趣味に突き動かされてはいても、蓮もべつに客観的な思考をできないわけではないのである。
ただ己を曲げないだけだった。
ひとつため息をついたところで、蓮の目にある物が飛び込んでくる。
「あれは……」
思わず自転車を停車させた。
田園を超え、彼は尾根の麓近くを走っていたのだが、舗装されていない田舎道の端に、見慣れぬ道が出来ていた。
砂利道の右手に迫る山の斜面、その竹藪の中にポツンと細い道が開いている。
「こんな道、あったっけか……」
蓮は自転車に乗ったまま、そのそばへと寄る。近づくにつれて目に入る情報に、彼の目は驚きに円くなる。
どうにも新しく出来た獣道、というわけではなかった。
なぜなら石段になっている。苔生した古い階段が、薄暗い竹林の奥へと続いていた。
何十年も放置されている様相で、ほとんど自然に帰しているが、それは明らかに人工の道であった。
そして何より不思議であるのは、この石階段に、今の今まで、蓮は一度も気が付いたことがなかったという事実である。
そばを通るこの道は、頻度こそ高くはないが、蓮は何度も通ってきた場所だった。それこそ、幼い頃から何十回と過ぎているはずである。
それなのに実際に蓮は今日のこの時まで、斜面にこのような小道が続いていることを知ることがなかった。
「……っ」
むくむくと、彼の胸底で好奇心が鎌首をもたげる。
これは蓮が三度の飯より大好きな、そう、「不思議」と呼ばれる事象であった。
頭上を仰げば、まだまだ空は青い。初夏ということもあって、日の入りまではもう少し猶予がある。
蓮は自転車を降りて駐輪させると、子供のように目を輝かせて竹藪の中へと足を踏み入れた。
足を滑らせないように気を付けながら、雑草の生茂る古びた階段を上ってゆく。
黒く焼き切れた注連縄が石段の入口に落ちていたことには、ついぞ気が付くことがなかった。
○丹波の蹴裂伝説
現実世界においても、丹波地方にはかつて湖があったとする伝説がある。開拓神話に関連する古社が山肌に配置する事実もあり、ある程度の水深を持つ巨大な湖だと信ずる人々は多い。けれど幾つかの考古学的な調査の記録を鑑みるに、筆者は「丹波」に語られた景観は、おそらく湿地帯であったろうと感ずる。
琵琶湖のような湖面ではなく、葦などの生えた底の浅い水面が一円に広がっていて、そこを神話で語られる舟が一葉、すっと進んでいく……そんな光景を幻視するのである。
(四年七月十一日 あとがきにTIPS追加)