第肆話 契約(八)
18
「まいったな……」
慧は頭を掻いた。
薄暗い女子トイレの中、目前で塵となって消えゆくのはひとつの魂。
読経の功徳によって崩れた体、怪体に変貌したその身の内側から今際の際に零れた情念は「死にたくない」というもので。
「後味が悪い」
怪物の素体がおそらく実際の子供――自分たちと同様に“とうやさま”の儀式を行った少年だったのだろうと察して、彼は顔をしかめた。
「南無妙法蓮華経……せめて成仏してくれ」
改めて手を合わせ、哀れな魂の来世に祈ったところで、気を入れ替える。
踵を返して、出入口へと向かった。
建付けの悪い引き戸を苦心しながら開ければ、便所内よりかは幾分明るい廊下へと転がり出る。……ただし、どちらにしても視界一面が瘴気で赤黒く縁どられているのには変わりがなかった。
「やっぱり、小学校……なんだろうか」
女子便所内の低めな便器や手洗い場を想起しながら、慧は辺りを見回した。
左右に続く木造の廊下と教室、そして窓からのぞく校庭……先ほどまで居た場所と同様に、どれもがひどく荒れ果てていた。
「……随分と様変わりしているけれど」
小さく呟いて、それからどうするかと考える。
――ひとまずは、やはり。
「みんなを探さなきゃな」
この異界には“とうやさま”の儀式によって引き込まれた。ならば自分と同じく、蓮や文太、葵もこの世界のどこかにいるはずである。
「とはいえ……」
慧は唸ると、右手に持つ経典に目を落とす。
文庫本を細長く伸ばした程度の大きさの、つづら折りの薄い冊子で、表紙には「法華経」の題が貼られている。
これは常日頃、彼の荷物に入っているものだった。
実家が寺社で自身も僧侶見習いである……ということもあるが、経典や数珠さえあれば、彼でも簡単な除霊や加持祈祷は行える。
「赤沼怪奇探偵団」などと標榜して心霊スポット巡りを敢行する友人がいる以上、万が一の事態を想定し念のために持ち歩いている形のものだった。
その備えが今回、大いに役立ったわけなのだが――。
「擬態する怪異……これは面倒くさいぞ」
先ほどに除霊した魂――あの怪物は、当初は幼い少年の姿をとっていた。女子便所の最奥の個室から飛び出てきたそれは、震えながら「助けてくれ」と慧に訴えた。
その姿に安堵し、宥めたのち「共に行こう」と言って背を向けて――そこで奇跡的に囁いた第六感によって、慧は九死に一生を得た。
攻撃を避けられた少年は怪物へとその姿を変じる。
殺意しか持たないそれに、慧は経典を取り出して応戦し――今に至る。
ともあれ、重要なのはこの世界の怪異が「化ける」というその一点である。
たとえ友人を探し当てたとしても、それがはたして本当に友人なのかどうかを見極める必要があった。
「霊視は苦手なんだが……」
慧は困り果てて眉を寄せた。
――霊視、というのは霊能者の持つ技術の一つである。
いかなる流派の呪術師であろうとも、誰もが多かれ少なかれ才を持つ技能でもあるが、しかしこれほどに奥の深い物はないと古くから称される。
霊的な存在を認識する能力……最も基礎的な「見鬼」から始まり、果ては究めた者が辿り着くという「千里眼」……物理的または己と他者との彼我の距離を超越する能力や、あるいは時すらも掌握する能力である「過去視」や「未来視」までもがすべて霊視能力に括られる。
ある程度にこの技能が得意であれば、たとえ擬態されていても人間か否かという程度のことは一目でわかるのだが――。
生憎と、慧はそこまで霊視を習熟していなかった。
「……狐の窓でもするか?」
ぽつりと呟く。
「狐の窓」とは、古典的な呪いの一つである。左右の手指を後ろ前にして組んで隙間をつくり、その小さな穴から相手を覗く。そうすることで、狐狸などの幻術を見抜くことができる。あるいは両足を開いてその間から背後を覗いたり、着物ならば袖の下から覗くことでも同等の効力を持つ。
ただしこれらは幻術破りに限る方術であり、物質的に変態しているタイプの変化は看破できない。そのうえ幻術であっても、高度な術を相手では然程の効果は見込めない。
慧は頭を振ると、歩き出す。
有効な対策は思い浮かばないが、何にせよ探さなければ始まらない。
慧が現在に居る場所は、廃れた木造校舎の二階らしい。
自分が床を踏みしめる音の他には何も聞こえない廊下をしばらく行き、そこで突き当たった階段を前に彼は一考する。
「上か、下か」
そうして立ち止まったところで、ふと物音に気がついた。
――足音だ。おそらくは二人分。
「……下だ」
階下から聞こえてきたその音は、そして次第に大きくなる。
この階段を、上ってきている。
「……っ」
ごくりと唾を呑む。緊張の走る体を抑え、慧はそのまま踊り場で待ち構える格好を取った。
手元の経典に、知らず力が入る。
はたして、友人か――否か。
「――なんだ、フシガワじゃない」
階下の踊り場、手摺の影となっている暗がりから姿を現したのは、よく見知った少女だった。
彼女は上階の慧を見上げると、澄まし顔のままそう零す。その後ろから、ひょいと小柄な少年が顔を出した。
「よかった……慧も無事だったんだな!」
慧の姿を認めるなり、彼もくしゃりと顔を歪ませた。……その笑顔がどこかぎこちなく思えるのは、この異常な事態に対する恐怖心ゆえからだろうか?
とまれ、階下から現れた二人は、どちらも慧が見る限りでは間違いなく友人たちその人だった。
しかし――。
先ほどに祓った怪物でさえ、初見で間違いなく人間であると判じていた慧なので、彼は自分自身の目を信じ切ることができない。
「……その、よかった。二人とも無事か」
慧は咄嗟に返事をすることが出来なかった。
「…………」
そしてその様子に、少女はスッと目を細め――
次の瞬間。
やたらと俊敏な動作で階段を駆け上がっていた。
その目は獲物を狙う獣のように鋭く慧を睨んでいる。
「え――」
慧の時間が冷たくなる。
一息の間に階段を駆け上がり切り、彼の前へと飛び掛かる少女のその姿が、やけにゆっくりとした映像で処理される。
(しまった、やっぱり擬態だった――)
慌てて経典を構えようとするが、時すでに遅く――
「――痛ってェッッ!」
慧の脳裏に星が舞った。
思わず頭をおさえて蹲った彼の前で、とん、とんと床を踏んで体勢を直した少女が「ふん」と鼻を鳴らした。
「……どうやら、本物らしいわね」
彼女のほどいた拳から霊符が剥がれ、伏した慧の滲んだ視界へと入ってくる。
痛みに震えながら顔を上げれば、少女は腕を組んで見下ろして、
「ほら男でしょ、さっさと立つ!」
(こ、この理不尽さ……)
慧は再び視線を落とすと、同時に肩も落とした。
――間違いない。本物だ。
遅れて階段を駆け上がってきた文太が、慧を介抱する。
「大丈夫か、慧? なんというか、ご愁傷様」
そうして、ひそりと囁いた。
「……ちなみに、おれも殴られた。出会い頭にいきなりガツンだ……まじで通り魔だぜ」
耳ざとく拾った葵が、一喝する。
「うっさいわね! これが一番はやいの! そうやって小さなこと気にするから、あんたはいつまで経ってもチビタなのよッ!」
「……カッチーン」
堪らず、文太が立ち上がった。
葵を指さして彼も叫ぶ。
「おまッ! 言ったな、チビって!」
「……チビタはチビタでしょ?」
悪びれもしない葵に、文太は幼子のように地団太を踏む。
「だから、それをやめろって言ってんの!」
文太は葵が偶に使うこの渾名を嫌っていた。
言い合う二人を呆然と見上げて、やがて慧は固くなっていた体から力を抜く。
いつも通りだ。
たとえ異界に取り込まれて、辺り一面敵だらけでも。
普段通りの赤沼怪奇探偵団が、ここに居る――。
「――ふう」
息を一つ吐いて、慧は勢い立ち上がった。
「あとは、蓮だけだな」
そう言えば、じゃれ合っていた二人も動きを止める。
各々に姿勢を正し、にやりと笑う。
「ちゃっちゃと見つけようぜ。そんで、こんな場所からさっさとオサラバだ」
そう言う文太の横で、葵もまた冗談交じりに言う。
「でも蓮のことだし、まだ探索したいってごねるかも」
「まじかよ」
文太は言ってから、顔を抑えて呻いた。
「ありえるわ……」
そんな二人に、慧もまた小さく笑みをこぼす。
そしてこの場に居ない親友の事を想った。
(――待っててくれ。俺たちがすぐに行く)
19
増殖した黒い影は四方から襲い掛かり、それはまるで大きな波のようになって押し寄せた。
気づけば、あっという間に蓮たちと祓い屋少女たちは分断され、少女の声も気配も黒い波の向こうに埋もれて消えた。
後には、円を描くようにして渦巻く黒い影の壁と、その中心で佇む剣王鬼、およびその内の蓮だけが残された。
「ふむ」
剣王鬼は気を取り直すように頷くと、周囲の影をどこか興味深そうに眺め始める。
彼を囲む影たちは黒い壁の中でその姿を表したり崩したりしながら、カチカチ、カチカチ……と人型の歯や異形の牙を鳴らし、ぐるりぐるりと彼の周りを回っている。
――その様子は、どうも襲い掛かる機を見計らっているようだった。
そんな中で、蓮はひとり喜びに震えていた。
(なんてこった……! よく見れば黒い影というより粘液! スライム、いや……それともまさかショゴス!?)
先ほどは察した真実に心底から慄いていたというのに、まるで「それはそれ」とでも言いたいのか僅か数分も置かずに目を輝かせている。
内側であまりに煩いので、剣王鬼の意識もそちらへ戻る。――なんだこいつ、情緒不安定なのか。訝し気に眉を寄せた。どちらにしても、尋常な精神性ではない。
「虚けが。急に興奮するな、気持ち悪い」
吐き捨てる彼に、堪えた様子なく蓮が返す。
(そう言わないでくれ! 夢が叶った気分なんだ!)
蓮は幼い頃から不思議が大好きだった。物心ついたときには既に妖怪やおばけ図鑑なる絵本を何度も読み返していて、それを手に狐や狸を求めて野原を駆けた。幼稚園の遠足の度に、昼食の握り飯を地面の穴へと押し込んだ。
中学時代には不思議を追い求める赤沼怪奇探偵団を結成し、それからこれまで三年間、今度は友人達を巻き込んで怪奇趣味を邁進した。
しかしそこまでしても、これまではあっても心霊写真程度しか体験できなかった。
霊能力者である葵や慧は何度か幽霊も目撃したらしいのだが、傍にいたはずの蓮には皆目見えぬ存在であった。
そこに来て、ようやくこれなのだ。
祟り神に襲われ、剣王鬼に憑かれたこの一週間ほどは恐怖が先だって思考を狭めていたが、今一度改めて状況を俯瞰してみれば――
(祟り神に、口裂け女に、とうやさま! そして何より君だよ! こうも一気に本物が目の前に!)
今まで理性で以て抑え込まれていたものが、ここへ来て一息に噴き上がる。
(やっぱり、妖怪はいたんだ! 不思議はあるんだ! 世界はもっと広いんだ!)
剣王鬼への恐怖も不安もすべてが取り払われ、そこにはただ幼い頃から夢を見続けていた少年の熱い歓喜だけがあった。
ボルテージマックスで矢継ぎ早に語る蓮に、剣王鬼の眉間は一層に寄った。
「声を下げろ、煩わしい」
ひとつ息を吐く。
「そんなことより、……心配はしなくとも宜いのかね」
紅い瞳で周りの影を見渡して、低い声で言う。
「――汝の輩もまた、襲われているぞ」
饒舌に語り続けていた少年が、ぴたりと固まった。
(……そうか。こいつらみたいな化物が、皆のところにも行ってるなら)
息を呑む。
蓮は友人の内の二人が霊能力者であることは知っていたが、その詳しい実態――どの程度の実力なのかについては殆ど知らなかった。
葵が天才巫女だと自称するのを聞いているが、それだけである。
共に仲良く心霊スポット巡りなどをしていた友人たちが、実際にこのような怪奇現象の渦中で果たして無事なのかどうか――。
その是非を蓮は推測することすらできない。
――だけれど。
(それじゃあ、救けてくれ!)
躊躇せず返ってきたその答えに、思わず剣王鬼の喉から低い音が漏れた。
目つきが鋭くなり、一拍置いてから静かに語る。
「篤と聞け。……いい加減に勘違いを正せ。己が何故そのような事をせねばならんのだ」
しかし蓮はなおも言い募った。
(そこをなんとか! 面倒臭がらずにさ!)
愈々もって、剣王鬼の声が低く、重く、冷たくなる。
「――黙れよ小僧」
先にも感じたものと同等以上のプレッシャーが、少年の魂に圧し掛かる。
けれども気合で踏ん張って――そして彼は言い放つ。
(僕の体あげるから!)
「……何?」
剣王鬼が放つ圧力がピタリと止まり、解放された蓮が掠れた声のまま慌てて補足する。
(勿論、タダってわけじゃない!)
息を整えながら続ける。
(剣王鬼、僕と取引を――)
そこまで言い掛けて、直感が何か囁いた。
(――いや、契約をしよう)
言い直したときにはその声も普段の様子を取り戻していた。
「……」
黙ったままの剣王鬼を余所に、蓮は語る。
(このまま侵蝕が進めば、僕の魂は一年後に消える。……それを僕は受け容れるよ)
ひとつ息をつき、
(その代わり、この一年間は協力してほしい)
剣王鬼は変わらず黙したままだ。
(今回の事態は僕の趣味が招いたことだ……そのせいで、たしかに友達が危険な目に合っているかもしれない。でも、僕は趣味を改めるつもりはないんだ、今後一生ね。だから――)
(僕たちを守ってくれ)
(僕は今後、これまで以上に趣味に明け暮れるだろう。それには今回みたいな危険も伴うと思う。その危険を、君が打ち払っておくれよ。――そうすれば、僕は思い残すことなく死ぬことができる。君に身体を受け渡せる)
――語りながら、蓮は思い出していた。
あの時……あの、祟り神に殺されかけた時に考えていた事を。
死にたくないと思った。
このまま、死にたくないと思った。
まだ生きていたいと思った。
何故ならば――
(――あの時、僕は知らなかった)
この世界の不思議を、ずっと求め続けていたそれを、まだ何も知らないままだった――あんな死に方は、楽しくない。
けれど、今の自分は知っている。
妖怪がいる、不思議が在る、この世界は――とても楽しい。
(素晴らしいじゃないかッ!)
蓮の提案の意図するところは、それはいわば終活に似る物であった。
元来の彼の本質は、享楽的であって刹那的である。
彼にとっての楽しい事とは、主に怪奇趣味のことだ。
だが今回のように当たりを引いたとき、蓮には楽しむことが出来ても、対処する力がない。
と、するならば。
対処できる力に協力してもらえばよいのだ。
それに考えてみれば、剣王鬼を祓ったとして――今後の人生で、憑依以上に面白い出来事が起こるだろうか?……とも考える。
(思えば、僕はずっと飽いていた……)
そう――これこそが、ずっと望んでいた変化ではないのか?
それら全てを総合した上で、蓮は決断した。
どうせなら。
どうせなら、短くとも太く楽しく生きてやろう――。
蓮は興奮していた。淡色だった人生が、唐突に色づいていく気分だった。
衝動の儘に高らかに叫ぶ。
(さあ、返事を聞かせてくれ!)
……一拍の間があった。
そして、果たして剣王鬼は口を開き――。
(二年十一月二十四日、改稿・分割)
(三年三月十一日、後半を改稿)
 




