第肆話 契約(七)
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「……え?」
そう声を上げた祓い屋の少女は、完全に体が硬直していた。
呆ける少女を噛み砕かんと、その首へ怪物の咢が迫る。同時に、そうはさせまじと彼女の肩口から毛を逆立てた妖狐が怪物へ飛び掛からんとする。
だが。
『ッ――』
それよりも早く、彼女たちの前を黒い影が横切った。
少女の目はその瞬間、たおやかに舞う紅い着物の裾を幻視した。
――白銀の光が一閃し、鮮血が散る。
「ガ、ア゙ア゙ア……」
後にはただ、首を刈られた怪物が――どさりと身を横たえた。
その体はみるみるうちに縮み、元の少年のものへと変貌する。
斬られた首からはどくどくと鮮血が――否、腐った血液が流れだす。
「……っ」
思わず息を呑んだ少女の目前で、幼い死骸はその肉までもが動画を高速再生するようにして腐り果てていく。
一呼吸で間を詰め、彼女たちの身を救った剣王鬼はと言えば、その様子を見るまでもなく、ただ刀を振って血を払う。
その脳内で、少女と同じく混乱する蓮が呟いた。
(えっと……つまり、どういうことなんだ?)
一拍置いて、剣王鬼は静かに答えた。
「死人を装う眷属――徒それだけの事だ」
つまらなそうなその声音に、
(もしかして、さっきの子も――)
と、声を漏らしたところで、蓮の脳髄に稲妻が走る。
思い出されるのは、テレビのニュース番組だ。
今朝に食事をとりながら流し見していた、それ。
内容は先週に三浜市で起こったという、児童の行方不明事件。
昨日に慧が言っていたのはこれか――そう思いながら眺めていた。
――行方不明になったのは、砂川町の公立小学校に通う四年生。少年二人に少女が一人……。
(待って……待ってくれ!)
オカルトマニアたる者、古今東西の怪談話には当然のように造詣が深い。
真実を推察出来てしまった蓮が、悲鳴のように叫んだ。
(まさか――まさか、そうなのかッ!?)
剣王鬼は押し黙っている。
蓮の耳には、今朝方に聞いたニュースキャスターの抑揚ない台詞が繰り返し再生されていた。
『――行方の分からなくなった児童たちが最後に目撃されたのは、午後六時頃。四時頃から友人達十人程度と小学校の校庭で遊んだのち、解散。友人児童らの証言によれば、三人とも確かに各自宅への帰路についたはずだということで、警察はその帰路途中にて何らかの……』
午後四時から六時まで。小学校の校庭。大人数での遊戯。
『――隠れ鬼って、あるじゃない? ほら、大人数で遊んだりするとき、鬼ごっこでよくある派生ってやつ……』
ニュースキャスターの声は、聞きなれた少女のものへと変わる。
『午後四時四十四分に始めて、六時に終わりよ』
『実際に“とうやさま”で願いが叶った子もいるらしいわ。人が変わったみたいに勉強やスポーツが出来るようになったとか何とか……』
『増え鬼と一緒で、鬼は増えるわ。鬼に捕まった人も鬼になる……』
『もしも最後の一人になったなら、時間切れまでにこの印を消さなきゃいけない。じゃないと――』
『――あの世に連れていかれる、らしいわ』
全ての点が、線で繋がった。
――古今の怪談話に、殺したり喰らったりした人間そっくりに化けて、さもその人間であるかのように装い、日常に溶け込もうとする化物、妖怪、怪物……そういうモノは多く語られる。
そして大抵の場合、死人に装う理由というのは周囲の人間を更に喰うためなのである。
あるいは卓上遊戯に人狼ゲームというものがあるが、その面においてはそれにも似ている。
ともかく、この場合においても、つまりはそういうことなのだと蓮は直感したのだった。
即ち――“とうやさま”とは。
(……儀式で異界に引き込んだ人間を喰らい、その人間そっくりの眷属を現世に返し、そして儀式の噂を流布する。そしてまたやってきた人間を喰らって……その繰り返し。そういう、餌場としての……)
あまりの悍ましさに、蓮は魂だけの状態なのに吐き気まで覚えていた。
(つまり……願いが叶う儀式っていうのは、嘘なんだ。儀式をやって……鬼に捕まった者は死ぬ。鬼になる。鬼に捕まらなかったとしても、時間切れになればあの世、つまり此処に置き去りにされて、やっぱり喰われる。……そういう、ことなんだ……ッ)
蓮の慟哭に対し、剣王鬼は依然として黙したままで――しかしそれが、彼の推察を肯定していた。
――なんと惨く、怖ろしい所業であろうか。
世間で公になっていた行方不明者は、三人。
しかしその実態は、もっと多くの人数が――殺されているのだ。
辿り着いた真実に蓮が戦慄していると、ようやく混乱を治めた祓い屋の少女が、逡巡気味に声を発した。
「どういう……つもりですか」
剣王鬼が目を遣れば、立ち上がって姿勢を正した少女が銀環の鈍く光る腕を構えながら彼を睨んでいる。
しかしながら、今しがたに命を救われたのは確かで、だからかその瞳には少なくない戸惑いの色があった。
肩の上の狐も、同様の雰囲気である。
学生服に刀を持ったこの怪しげな男の意図が、今一つよく分からない。
「貴方は……貴方が、この異界の主ではないのですか?」
問う少女に、剣王鬼はただ不愉快そうに鼻で笑う。
『……どうも違うようだぞ、柚葉』
妖狐が、ひそりと少女の耳元で囁いた。
彼女の眉が悩ましげに下がる。
それを横目に、だが――と狐は続けた。
『だが、どちらにせよ彼奴の持つ妖気は危険だ……職務対象である事に変わりはあるまい』
「でも……」
少女が小さく逡巡の言葉を発する。
そのときだった。
――ぞわり。
両者が睨み合うだけだったその場の、空気が変わる。
周囲を覆っていた黒い影……それらが、唐突に鳴動を始める。
ぐち、ぐちり。ぐちょり。
怖気を覚える水音を立てながら、彼らを囲んでいた影が次々に増大し、不定形だったそれらが人らしき形へと蠢いていく。
そして。
「アソボ……」
「アソボウ……」
「イッショニ、アソボウ……」
「オイデ……オイデ……」
キー、キーと蟲が鳴くような声音で、一帯の影たちが口々に言葉を発した。
耳障りなその音響に、剣王鬼も少女も揃って顔をしかめる。
その一方で、急転した状況に、ショックで固まっていた蓮の意識も恢復する。
(あれ、いつのまに……)
緊迫した空気のなか、周囲を見渡して――
(――すごい! ホラー映画みたいだっ!)
剣王鬼が静かにため息を吐いた。
そして瞬間、周囲の影が一斉に彼らへと襲い掛かる。
17
「ところで、チビタさ」
体育館の昇降口。荒れ果てたそこで、扉へと向かっていた葵がぴたりと足を止めた。
彼女の背後でも、同様に足音が止まる。
朗らかな少年の声が返ってきた。
「なんだい?」
それに対して葵は、振り向くことなく言葉を続ける。
「そういえば、なんだけれど……」
沈黙。
一拍の間を置いて、
「――鬼って、アンタだったわよね」
彼女が振り向くのと、背後のソレが襲い掛かるのは殆ど同時だった。
狂った獣のような奇声を上げて、醜い姿へと変貌した怪物が大口を開けて飛び掛かる。
そしてそれを、少女は華麗な動きで避けて――殴る。
「ア゙ア゙ッ……」
横っ面を殴り飛ばされ、怪物はよろける。そしてその一瞬を少女は見逃さない。
「ハァッ――」
短い呼気を一つ漏らし、そのまま彼女は怪物の懐へと踏み込んで。
殴る。
殴る。
殴る。
さながら包帯のように数多の霊符が巻き付いた左右の拳で、ひたすらに殴る。
肥大し、巨大な胡桃か脳髄のようになった怪物の頭部を。眼球を。下顎を。
肥えた蚯蚓のように太った首を。皮の厚くなった腹を。鱗の生えた腕を。
怒涛の勢いで殴る。殴る。殴りぬく。
「ギ、ア゙アア……ッ」
怪物が、悲痛な声を漏らした。
葵の左右の拳、そこに纏わせた霊符、その表面に印された符籙が淡く輝いている。彼女が拳を振るう度に、それで殴られた箇所が焼かれたようになって崩れていく。
その様子を検めた少女が、スッと目を細めた。
「――掛けまくも畏き、伊邪那岐大神」
低く抑えた声が、祝詞を紡ぐ。
「筑紫の日向の橘の、小戸の阿波岐原に」
勢いそのまま殴り続けながら、合間合間に謳う。
「御禊祓へ給ひし時に」
この国の神々、その頂点を戴く太陽神へと声高らかに奏上する。
「生り坐せる祓戸の大神等」
それは神道を修める者のなかで、最も基本となる祝詞。
祓詞。
「諸々の……禍事」
右の拳で殴る。
「罪」
左の拳で殴る。
「穢」
右の拳。
「有らむをば」
左の拳。
「祓へ給ひ清め給へと、白すことを聞こし召せと……」
反撃する怪物の、その鋭い爪を身を屈ませて避けて――。
「恐み恐みも白す――ッ」
カウンター気味に。怪物のその胸の中央へと少女の拳が突き刺さった。
怪物が絶叫を上げる。
葵の右拳、それが突き刺さった場所が白く輝いている。
光はやがて罅入るようにして全体へと広がっていき――
「ア゙、ア゙アアアア……ッ」
断末魔の悲鳴だけを残し、光の罅からぼろりぼろりと灰のように崩れ、怪物は跡形もなく消え去った。
そうして、一拍。
「……ふうぅ――」
長い息を一つ吐き、少女は構えたままの拳、すなわち残心を解いた。
握っていた拳を開けば、纏っていた霊符が途端に剥がれ、ひらひらと地に舞ってゆく。
先ほどまでぴたりと肌に張り付いていた様子は微塵も無く、床に散らばったそれらは最早ただの紙切れであった。
床に散らばった札には目もくれず、葵は両方の拳の調子を確かめるように握ったり振ったりすると、
「――うん。やっぱり、これが一番はやいわね」
満足げに一人頷いた。
――神谷葵、十六歳。
慧と同様に、霊感と秘術を持ち合わせる霊能力者。
実家が神社である――正真正銘の、巫女だった。
……とはいえ、日本広しといえども、拳で殴り祓う巫女などはこの少女ぐらいのものである。
生まれ持った霊質の純粋さ、巫としてのその深い才能によって、彼女は呪術師界隈では不世出の天才として将来を嘱望されている。
その溢れる才能によって無理やりにごり押しする秘術、それが彼女の扱う「拳の祓」であった。
同職の巫覡であっても、並大抵の者には真似できない。
「さて、今度こそ……」
気を取り直した葵が、くるりと昇降口へと身を向けたところで。
がらり――。
目の前の扉が慌ただしく開いて、一人の少年が体育館の中へと飛び込んできた。
はたしてその少年と目が合う――。
「あ」
千田文太であった。
(三年三月十一日、一部改稿)




