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魂8◎文末と言い回しに対する執着心

 WEBで小説を読んでいると、ふと考えてしまうことがあります。

 それは、一般書籍を読んでいるときは殆ど考えなかったことなんですけど、一度気になってしまうともうそのことしか考えられないループに入り込んでしまう、恐ろしいものだったりします。そういえば、地元のローカルFMラジオのパーソナリティーの喋りも、同じ理由で気になりますね。多分、喋っていることを文に起こすともっと気になるんだろうなと思いつつ、素人だし仕方がないという理由で気にも留められていない現実があるのかも。

 でも、これって結構重要なんじゃないのかな、なんて思っても、実際それを自分が実行できているかという点に関しては自信が無く、更にそういうところの推敲に時間をかけているがために、内容が疎かになっているとも思われたくない。難しい、難しい問題なんですよ。

 何がそんなに難しいって……、「文末」です。句点(。)の前にある、「です」とか「ます」とか、「〜した」とか「〜った」とか、そういうやつです。

 私自身がそうだったんですけど、書き慣れているか否かによるのか、それとも癖なのか――、文末が固定してしまうこと、ありませんか。


 以前ある作品を読んだときのことです。何度かやりとりしている作者さんの作品だったので、原稿用紙で二百枚弱でしたが何とか読み切りました。何とか、です。実は、内容はそれなりに面白かったのですが、私は読んでいる間、不満で仕方がありませんでした。その作品を読んでいくのが途中から苦痛になり、途中で何度も読むのをやめようかと感じてしまうくらいに。――文末が全て「た」……だったのです。

 その方は、自信に満ちあふれていました。実力も経験もある方だけに、文末が何故全て「た」なのか、気になって仕方なかった覚えがあります。全ての文章を「た」で終えるなど、もしかしたらある意味すごい才能なのかもしれないとさえ思ってしまいました。失礼ですけど。

「○○が、……し、××した」「△△は、□□だった」が連続する。これはかなりしんどいです。

 読んでいるうちに、「た」の魔力にとりつかれ、今いったい何行目を読んでいるんだろうと、少し瞬きをしただけでもわからなくなってしまう不快感。単調で、読み進めるに億劫になってしまうと言う、恐ろしいものでした。

 物語は、その筋はよかったのですよ。ただ、極端に読みにくいだけで。

 しかし、その方はそこを指摘されても改稿しようとはしませんでした。そういう書き方が一番よいと思っていらっしゃるようだったので、それ以上は言及は無意味だったようです。


 誰かに読んで貰うことを前提として作品を書いているのなら、その読みやすさに関しては気を遣いますよね。話が面白くても、読みにくい文章を誰が最後まで読んでくれるんでしょうか。

 もしかしたら、文字で表されている文章と声に出す言葉は、別だと考えている人もいるかもしれません。書くときはこう、喋るときはこう、などと、区別しているのかも。

 ――でも、おかしくありませんか。

 少なくとも、小説やら童話といった物語というのは、近代以降全て口語体で書くのが通常ですよね。いや、文語体を非難しているのではないのです。口語体で書く、読む行為の中で、読みやすさに対し気遣いをしないのはおかしいと、思っているんです。

 主語、述語、修飾語等、文章を形成する要素を欠いても困りますが、徹底的に主語と述語を省略せず、更に文末を統一するだなんて言うのは、あまりにもナンセンスではないかと。

 日本語には、タブーというものがありますよね。

「頭が頭痛だ」「足に足袋をはく」――同じ言葉を文中に二回以上登場させない、重複表現は避ける、というものです。例え読みが変わっても、頭にしか頭痛は発生しませんし、足袋は足以外にははきません。同じ事が文末にも言えるのではないかと、私は思うんです。


 延々と「た」で締めくくられるその作品を読んだとき、なぜ、この人はこの文末にしたんだろうと、他の表現方法はなかったのかと、作品の内容よりもそちらに気を奪われてしまいました。それは、主人公の昔語りが内容の殆どだったからだけではないはずです。誰かに読んで貰うための小説ではなく、それは作者自身の自己満足によるものではないかとさえ、私は思ってしまいました。失礼なんですけど、そう思ってしまわざるを得ないくらいに。

「た」は、文一つ一つを完結させるには必要な文字だと思います。だけど、その連続は物語を紡ぎ出すための流れを一つ一つ食い止める、堰のようでした。最後まで読み続けようとするのを、文末の「た」がいちいち止めてしまうのです。

 文章は、物語を構成させるための単なる道具ではないはずですよね。一つ一つの文章が、重なり合い、うねりあい、川のように流れを作って、結末という海へ注ぐ。その課程を読者は文章を読むという行為によって楽しんでいるのではないでしょうか。

 それを、文末やら言い回しやらという、基本的なところで堰き止めてしまうと、最後まで読む事が出来なくなってしまいますよね。そういうのって、ものすごく惜しいと思いませんか。 たかが文末、と思う無かれ。やはり、読みやすさというのは重要です。

 自分の作品を声に出して読んでみたとき、何度も同じ表現を見つけたり、同じ文末が繰り返されていたとしたら、イエローカード、校正の余地ありだと思います。ちょっと文末を変えるだけで読みやすくなって流れが生まれるものです。

 せっかく書いたんだもの、最後まで読ませたいと思うのがモノカキですよね。ならば、最後まで読ませる流れをきちんと作ってあげないと。「た」の増殖で、堰き止めてちゃ勿体ないですよ。

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