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魂48◎変わりましたね、と言われた日

 職場の歓送迎会で上司の一人に、

「最近あんた変わったなって喋ってたんだよ」

 などと言われました。身に覚えはなくはないですが、言われるとドキドキするものです。

 人からどう見られているかということに関して過剰に気にするのは良くないと思いつつ、どうしても人の目が気になってしまうのは人間として仕方のないことかも知れませんが、多分私は気にしすぎる方。とにかく他人の評価というヤツが気になって気になって。私はあまり出来る人間ではありませんので、人の足を引っ張らないように泣きながら努力するしかない体質なのですが、去年の人事異動で今の職場に来て以来、立ち位置がさっぱりわからず半年以上右往左往していたのです。

 今年に入ってから営業のアドバイザーに色々教えていただきまして、何とか自分でも出来ることがあるんだとわかり始めたくらい。何年営業やって来たのかと思わされるくらい初めてづくしで、ああ、職場が変わるってのは人生観も変わることなんだなぁと今更のように感じています。

 そんなこんなで自分の出来ることをコツコツやろうと思い立ち、少しは前向きになってきたかなというこの頃になって、「変わったね」と言われるのは嬉しいような微妙なような。でも、それだけ意識してみてもらえるということは、職場の中で幾らか貢献できてきていると言うことなのでしょうか。


 日々の生活の中でもそうやって少しずつ自分を変えていく努力をしなくてはと、冬の間はやろうともしなかった家中の模様替えや掃除を始めてみたり、頼まれてもいないのに色々引き受けて泣きそうになってみたり、人生長いようで短い中をとにかく一生懸命に突き進もうとしています。

 人間、目には見えないくらいのスピードだとしても良い方向に変わっていくというのはよいものですよね。気持ちがいい。

 それを誰かに認めてもらいたいなんて、思ってるわけじゃないけれど、「変わったね」の一言は何となく勇気をくれる気がします。


 長い間文章を趣味で書いていて、自分ではそんなに変わったように思わなかったのだけれど、数年前からずっと連載途中になっている作品を書き直しているときに過去の文章の稚拙さに触れて、「ああ、私も変わったのだな」と思い知らされました。当然のように人生の経験はプラスされていくし、書き始めの頃独身だった私にも今は三人の子供がいるまでになってしまいました。そりゃ、変わらないわけがない。

 相変わらず本を読む時間はないけれど、ここ数年真面目に新聞は読むようになりましたし、ネットでも大部文章を読むようになりました。かわりに視力は大分落ちてしまいましたが、そういう部分を含めて私は少しずつ「変わっている」のだと思います。


 当然のように実生活でも様々に環境なり学力なりスキルなり、変わっていくのだからそれに併せて書き上げる作品のスタイルもどんどん変わっていくものだと思います。

 書き始めの頃はまあ、今で言うチート系のようなものが好きだったようにも思いますし、中二病臭い話を書いていたこともありました。今でこそ社会派少しずつ書くようにはなりましたけど、それにしたってまだまだ改善の余地ありです。もっといい作品を、もっと楽しめる作品をと、欲も出てきます。

 上手くなりたいという気持ち、たくさんの人に読んでもらいたいという気持ちは自分の文章力をも変えていきます。チラシの裏から誰かに見せて感想をいただくようになり、ブクマしてもらって更新の度に反応いただくようになって。もっともっと――欲というものには際限がありません。ないからこそ、前に前に進めるものなんでしょう。


 ――ところが中には、作品数を重ねても変化の見られない人がいます。どのくらいの割合かどうかなど、詳しいことは不明のため割愛させていただきます。

 作品を仕上げるという点においては申し分ないのですが、その他作品の密度や内容、誤字脱字に至るまで、何とも首を傾げてしまうような方をチラホラ見かけます。私はあまり多作な方ではないので、一つずつ作品を仕上げていくので精一杯なのですが、中には毎日のように執筆更新なさる方もいらっしゃいますよね。そうした方の中に、作品の量以外に秀でた点が見られない方が混じっていたのです。

 文章を書くことは片手間には出来ないことなので、たくさん書けるというのはとても凄いことだと正直思うのですよ。ですが、その内容、量で薄まっていたりしないんですよね?

 ときに日本語として成立しないような文章になっていたり、きちんと推敲していないがために主人公の名前すらタイプミスがあったりと、何とも痛ましいことになっている。とにかく書き上げることに重点を置くあまり、物語としてそもそも成立していないなど、読んでいてどうしたらいいものかと首を傾げることもしばしば。

 ならば読まなければよいのでは? ええ、そうかも知れません。しかし、偶々読んだ話がそうであったり、どうしても読まなければならない(企画や評価依頼等)場合はどうでしょう。まさか自分の読んでいる話がそういった部類とは知らず、読み進めるのですからその心境の複雑なことと言ったら。

 

 質より量、と言われたらなんと返しましょうか。私も安売り大好きですし、安いものを買い求めますよ主婦ですからね。でも、安いものには安いものとしての価値しかないこともよく知っています。質を落とさず量を増やすってのは、とにかく難しいのです。

 誤解しないように追記しますが、多作の方に対して非難の声を上げているのではありません。勿論たくさん書かれてもしっかりと物語を紡いでらっしゃる方は多々見かけますし、質も量も申し分ない方もたくさん知っています。しかしながら、中には質を度外視した――いや、多分無意識的にそうなってしまっている方がいらっしゃるのだと言うことを申し上げているのです。


 物語は何も完結していることのみで称賛されるものではありません。そこにきちんとしたストーリーやテーマがあり、読了後に何かしらの感動を覚えてこそ書き上げた価値があるのだと、私は思っています。昨今量産的に湧き出てくるTwitter小説などの短編ブームは、気軽に小説(文字数からそれが小説と呼べるのかどうかという点においては、かなりの疑問があります)を書けるというメリットから、小説というものに対する門戸を広くし読者を増やしてくれているのだと思います。しかし、気軽に書けるからと言ってもそこに字を連ねることのみで満足していては、より面白い話を書くことは出来ないでしょう。

 何度も書きますが、文字をたくさん書ける、そのスキルはとても大事なものだと思うのです。

 だけれども、そのたくさんの文字数の中で如何に自分を「変えていけるのか」は、もっと大事。どんどん増えていく画面の中の文字や作品数、それ相応の成長を自分は遂げているのだろうかと、一度考えてみては如何でしょう。


 もし、文字数の割に思ったほど成長していない、或いはたくさんの誤字や脱字そのままに、どんどん先へ先へ行くことだけを考えて、いつしかそれを読んでいる読者の声さえ届かなくなってしまっているとしたら、一度立ち止まって欲しいのです。

 量じゃなくて、やっぱり質じゃないでしょうかね。両立できたら最高だけれども。まずは納得できる自分だけの一作をしっかり仕上げてみませんか。そうして誰かを本気で感動させることが出来たなら、そのときこそ「変わったね」という称賛の一言が届くのではないでしょうか。

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