魂37◎自作・HNの価値感――削除について考える
ふと、昔読んだWEB小説が読みたいなと作品を探しに行ったらデッドリンクになっていた、なんてことはありませんか。私も何度か経験があります。しかも大抵最後まで読んでない作品なのでものすごくがっかりします。引っ越し先が書いてあったり、検索して移転先が見つかったりすることもありますが、まるっと削除してそれきりってのもよく見かけます。
自作品に対する作者の考えはそれぞれなので、削除しようが改稿しようが勝手です。もちろん。わかってはいるけれど、一人の読者としては「残念だなぁ」という思いでいっぱいになってしまうんですよね。
私はなかなか自分の作品を削除出来ない方です。前にも書いたと思うのですが、あるドラマに感動し自作が駄作にしか見えなくなって全部捨ててしまったことがありました。かなり後悔たんです。当時はパソコンなんてなかったし、ワープロも普及していなかったので、バックアップがないのです。目の前にあるそれが全てだった。それを一時の感情で全部捨ててしまったのは、私にとって果たしてプラスだったのだろうかと悩みました。以来、何でも保管しておくようになったのは言うまでもありません。少しだけ小説のあらすじを書いたメモ、プロットらしき紙切れ、落書きもいつか使えるかも知れない、後悔したくないと保管してあります。
見る人から見れば未練がましいのかも。だけど、私は一度してしまった後悔をまた経験するのは嫌。
小学生の頃の鉛筆書きの漫画や、当時としては頑張って描いたイラスト、勝手に壮大だと思い込んでいた変なプロット。正直使えそうなものは何一つないけれど、思い出を無くしてしまったような気がしました。
WEBで作品を公開するときはあまり古いものをずっと上げておくのは忍びないので、ちょこちょこと改装したり改稿したりするわけですが、そうしたときもどれから削除すべきか無駄に悩みます。どれも一生懸命書いたものですからね。ただ、時代やニーズには合わないだろうと思って下げているだけで、本当は大切な作品達です。誤って消去しないように細心の注意を払って保管しています。
自分が過去に参加した企画や主催した企画を偶に回ると、意外と多いデッドリンク。どこへお引っ越しなさったんだろうかと、作品の内容を思い出しては感傷に浸ります。作家を目指すためにWEBから撤退なさった方もいらっしゃいますが、稀です。
一番多いのは、企画開催中に作品を完成させることの出来なかった方々がそのままアカウントごと消えてしまっている例。作品を完成させることもずっとそこに居座り続けることも出来ない。空しさを覚えます。彼らは一体、何故WEBでモノカキしようと思ったのか。自分にも出来る、話を書いてみたい。もちろんそういう気持ちも大切だけれど、一番足りなかったのは継続しようという気持ち、情熱だったのではないのか――。
やめるならやめる、続きを書くつもりならそうとどこかに書いてくださればよいのですが。ぷっつりと途切れた活動、放置された連載作品。「URLが正しくありません」「そのIDは存在しません」楽しみにしていたはずの読者は置いてけぼりです。素人作品だから道楽だから完結する可能性が決して100%と言えなくても仕方がない? ……それでいいのでしょうか。
一つの物事を続けるというのは大変なことですよね。誰が読んでいるとも待っているともわからない、孤独な執筆を重ねていくのは虚しい。だから、衝動で作品を削除してしまう、その場から消え去ってしまう。そういう人がどんどん増えてきているように思えます。
WEBでモノカキするようになってから、そうやって予告もなしに消えていった方をかなりみかけました。もしかしたら、そうした方々は何度も同じことを繰り返しているのではないかと思うことがあります。アカウント名やHNを変えて、どんどん新しい作品を生み出しては削除していく。半端に。インターネット人口の低年齢化と拡大が進み、誰でも簡単に作品を発表できるようになったのですから、モノカキの全体数は間違いなく増えているはずです。が、同時にそうした繰り返しが並行してWEB小説の質を下げているのではないかと。
作品はまず完成させることが第一。完結という信頼が、次に繋がりますしね。でも、そう思っているのはもしかしたらわずかな人間で、殆どの人は書きたいから書く、止めたいと思ったら放置するあるいは消去する方法をとっているということでしょうか。
昨今の労働スタイルや居住スタイルが変化しているのにこの現象は似ています。恋愛でもこうした状況はよく見受けられます。
要するに、一つの物事や人に執着心がない。飽きれば変えればいい、リサイクルしてしまえばいい。そういう考えの人がもしかしたら、モノカキとしても前述のような行動をとってしまうのでは。定住できない。地に足が着かない。自分というものが確立されていない。それは外見だけでなく、行動にだって表れてくる。本人はそう思っていなくても周りからはそう見えてしまう、見られてしまうことを意識していない証拠なのでは。
嫌なことがあったら次の仕事や部屋、恋人に変えればいい。――自分の作品やアカウントを消去して、別のHNで新たに活動を開始するという行動は、私にとってはそういう風に見えてしまう。偏見かも知れないけど、やっぱり「自分」というものに執着心のない人の作品は薄いように感じます。
私もよく貶されますけどね。それでも、自分という存在に執着心があるし、自分の作品に対する愛情もある。だから、何を言われようとも削除したり消え去ろうなんて思いません。もし誹謗中傷にいちいち折れていたら、逆に身が持たない。
「インターネットは匿名だから、名前を変えても全然問題ないです」「所詮名前を変えてしまえば作風が一緒でも同一人物だなんて気づかれない、そういうもん」ていう考えが嫌。自己のアイデンティティもクソもない。そんな人間の書いた話、いつまで経っても面白くなんかなるわけない。自分という存在、自分の作品というものに誇りも持てないような状況でアクセス数だの人気だの語る資格があるのだろうかとすら思ってしまう。
自分にとってモノカキするって何でしょう。ただ文字を連ねればいい、作品という形になっていればいい、そういう問題ですか。
ものを書くってことで何かを伝えようとしているならちゃんと伝えましょうよ。物語を書いて面白い、感動した、泣いた笑った言われたいから書いてる人が大半だと思うんです。それなのに自分の作品や自分という存在ないがしろにする。まるで詐欺にでも遭ったような気分になる。
不景気だからって言ういいわけはしたくないけど、表面上だけで切り抜けようとする人が多い中、本当に真剣に物事と向き合っている人だけが生き残れることを忘れないでほしい。モノカキとしてだけではなく、一人の人間として、せめて自分の好きなことには誇りを持てるような人間が増えたらいいなってオンオフ問わず思うわけです。