表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/50

魂32◎らしさって、何?

 自分の表現したい世界がいくつかあって、それを文章に変えるときどうすればいいか迷う。一番その世界観に合った表現方法を探せばいいのはわかるけど、それが出来たら苦労しないんですよね。

 絵と違って文章は読んでみないとそのイメージや音が読者に伝わらないから、そこだけは異常に意識してしまします。人称から始まって、文章はどの程度の硬さにするか、誰を主人公に据えるか、どうでもいいことを一人悶々と考えていくわけです。

 同じ物語でも視点と人称によってずいぶん雰囲気が変わります。例えば優しい童話的な物語であっても小難しそうなおっさんが語り始めると一気に哲学的になってしまうし、ホラーものでも子供語りだとブラック度が増す、とか。その作品に丁度いいのを探してうろうろしてるうちに、どうやら作品ごとでだいぶイメージというものが違う風になってしまうらしく、「前の○○を書かれたときとはずいぶん違いますね」と言われてしまいます。

 寧ろそれは狙いであって、私がどんな話をどう書くか予想できてしまうのはなんだかつまらない。いつも真っ黒な話ばかり書いているわけじゃなくて、ほんわかしたりニヤニヤしてしまったりする明るい話だって考えることがあります。それをいつもどおり堅っ苦しく書いていたらそれこそ面白みがないわけで。毎回毎回自作にイメージ画などをつけるんですが、そういうとこでもなるべく前作のイメージとは被らないように(シリーズものなどは別にしても)心がけてはいるつもりです。

 で、これもよく言われてしまうことなんですけど、「~らしさが出てる」「~らしくない」。

「らしさ」ってなんだろう。私らしさ。私っぽい。

 私に他人がどういう評価を付けているのか、どういう観点で作品を読んでいるのか。私は常に私らしくいるつもりなんですけど、それは私がそう思うだけであって、らしさというものは他者が定義づけるものなのか。私が私の好きなように書いたもので、それが他者にとって想定内であれば「らしい」、想定外であれば「らしくない」ということなのか。

 その人のイメージというのは始めて触れた何かによって瞬時に脳内に刻まれる足跡のようなものだと思います。私の作品の中で例えばこのエッセイをいきなり読まれてしまうと、やっぱり私ってばどうでもいいことをやたらと難しく掘り下げてしまう人に見えてしまうのですよね。だけど、普段の私を知る人がこれを読んだら、「あ、なんかこいつ偉そうに変なこと言ってる(笑)」と受け取られてしまう可能性の方が大きい。人のイメージなんて実に脆いもので、ある一点からの凝視によって成り立っているものは特に信憑性がありません。多角的に判断し、総合的に固まったイメージの方がより信頼できるのです。 だけど、よっぽどのファンじゃなきゃ全作品読むなんて無理。やっぱり最初に読んだ作品でその人をイメージづけてしまうのは仕方ないことなのかも。

 自分はどうなのかというと、いいとこ短編一つか二つ読むのがやっと。小説よりも日記や雑記を読むのが好きなので、正直イメージはそういうところで補ってしまいます。作品よりも人を好きになりたいってキレイごと言ってみますが、本当はそういうのはダメなんでしょうね。

 以前、HNの与えるイメージについて書いたと思うのですが、「らしさ」ってのも正にそれ。あの人の話ならとか、あの人が書いたならとか。作者冥利に尽きるのは間違いじゃないけど、いつの間にか固定されてしまったイメージをぶち壊すのは勇気がいるものです。

 某有名女性アーティストが新曲について、「今までの私とは違う私を見てほしい」と言ってたのを最近耳にしました。緩やかでしっとりした曲ばかり歌っていた彼女が急にアップテンポの曲を出したことで、一気にイメージが変わりました。持ち味の一つとして大成するかどうか、気になるところです。かなり前のことですが、某有名男性アーティストが同じことをした時はかなりの不評で、結局その一曲だけが黒歴史みたいになっていたのを思い出します。

 某有名少年漫画誌でもそうしたは多々あり、イメージの上塗りを恐れて新たな手法で描いた人気作者の新作が打ち切りになっていたのを何例か目にしました。読者が持ってしまった固定観念はなかなか消えません。前回バトルもので人気が出たとなったら、今回もバトルもので。しかもいわゆる強さのインフレばかり求めてしまう。ちょっと視点を変えたり手法を変えてみたら拒絶反応。イメージ、らしさの定義ってのは難しいものだなと思わされますね。

 多作作家さんはそうしたイメージの固定で悩まないのだろうかなどと、余計なことを考えます。

 上手いこと自分らしさをちりばめているのかな。少しずつの自分らしさがいつか積もり積もってその作家のイメージになっていく方が嬉しいですからね。だけど、そういうのって稀で、自分の作られていくイメージと戦っている人が殆どなのでは。人に決めつけられてしまった「らしさ」は、自分の描いていた自分像と違う。どうやってその中で書きたいものを書いていくのか。悩まないわけがない。

「私らしさ」ってなんだろう。

 やっぱりいつでも社会問題からませてないとダメですか。主人公は鬱がよろしいですか。常に誰かが必死に走って事件を追ってた方がいいの。

 私らしさ、読者の中の私らしさって一体何なんだろう。たまにはラブコメを書きたいと思う日もあるし、冒険活劇を書きたいと思うときもある。それでもやっぱり求められているのは「らしさ」なのでしょうか。だとしたら、どこへ行くべきなのか。

 いくつか企画ものに連続参加して、せっかくなので全然方向性の違う作品ばかり出してみて思ったのです。「私らしさ」ってどこにあるんだろうと。

 書いてる量が足りないだけかも知れません。まだ方向性が掴めないだけなのかも。得意分野だと思っていて好きに書いているものだけが自分じゃないと思って色々やってはみてるけど、他人が感じる「私らしさ」に振り回されてるだけかも知れない。誰かに「~の人」って定義づけられるのが嫌なだけかも。だから無理して自分らしくない作品を自分らしさの一つだって主張しているだけなのかも。

 考えれば考えるほどぐるぐるしてきます。

 もし迷いが消えて、「自分らしさってこういうもの」ってのがわかるようになったら、もしかしたら少しだけ成長できるのでしょうか。私にしか書けないものが「私らしさ」なのだとして、そういう話がどういうものかはっきりわかるようになれば。そのためにはやはり書きまくるしかないのでしょうね。いつかそれに気がつくまで、がむしゃらに。

 吹っ切れているなという人は偶に見かけます。その度に羨ましくなります。

 誰がどう言おうと自分の方向性を見失わない。それこそ本当の「らしさ」なんでしょう。そこに辿り着くまでは相当の苦労があったと思います。私はまだそこまで辿り着けてはいません。

 人の目を気にせずしっかりと「自分らしさ」を確立するまで、何万字書けばいいのか。とてもとても長い旅ではあるけども、書き続ける間はそれをずっと探し続けるしかないのです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ