魂3◎「調べる」こと「経験する」こと
創作していると、「壁」にぶつかるときがあります。どうしてもわからなくて、あちこちしらべまくるなんて、よくあることです。私は書く話が大抵真っ黒いもんですから、世の中のあまり知られていない部分を調べるのに大変苦労します。
該当する書籍を発掘するのが難しいので、新聞記事の切り抜きをせっせと行っています。興味のある記事を手当たり次第切り抜き、暇を見つけては項目ごとに整理し、きれいに貼って保管しておくのです。そうすれば自作資料のできあがり。面倒ですが、本を買いに行く暇も借りに行く暇もないので、一番自分に合った資料の収集方法ではないかと思います。
かといって、ただ切り抜くだけでは何の意味もないので、目を皿のようにして全ての記事を見て、その上で取捨選択していきます。過去に切り取った記事と関連した項目は特に熱心に切り取りますし、興味がなくなったり、資料としてとっておくほど重要な内容でなければ、興味のある記事であっても捨ててしまうことも必要ですね。
こういうことを書くと私がいかにも勤勉そうに見えますが、何のことはない、もったいない病なだけなんですよ。本気でモノカキするなら金を払ってその専門書を買えば済む話です。が、我が家にはそうするだけの金がない。資料集めには金がかかります。しかし、その金は生活するのに必要なんです。どうやって金をかけずに資料集めをしたらいいのか。考えた末に、今の「新聞切り抜き」にたどり着いたというわけです。
小さい頃、親のお下がりでもらった昭和三十年代の百科事典が宝物でした。新しい事典を買ってもらえるほど裕福でなく、またせがむことも出来ないくらい貧しかったのです。表紙の黄ばんだ、厚さ八センチほどの明らかに時代遅れの百科事典でしたが、私はその中で調べ物をするのがとても楽しくて、毎日意味もなく眺めていたものです。もちろん、時が経つにつれてその内容は参考に出来なくなってしまいます。それでも、小学生の私には十分な読み物でしたし、他の家にはこんな古いものはないだろうと、逆に自慢げに考えていたものです。古い辞書や本も捨てずに取っておく家でした。辞書は新しい方がよいのですが、私は親の使った古い辞書がとても気に入っていました。暇なときは辞書を引き、本のように読んでいました。
調べ物が好きな変わった子、だったかもしれません。誰かに教わるより、調べて発見するのが楽しくて仕方がなかったのです。みんなが知らない言葉、みんなが知らない事柄が、どんどん頭の中に入ってくる。そして、その言葉がつなぎ合わさって文章や物語があふれ出てくる感覚が、楽しくて仕方なかったのです。
社会人になると、この「自分で調べる」ことが結構役に立ちました。
最初の職場の上司が大変厳しい方で、「同じ人に三回同じ事柄を尋ねてはいけない」ことを特に強調しました。一回目は仕方ない、初めてだから教えよう、二回目は不安だから尋ねるのだろう、しかし三回となると話は変わる。おまえは二回、何を聞いていたのだと頭ごなしに怒られるわけです。おかげで、仕事のマニュアルをせっせと調べる癖がつきました。この癖は、子供の頃に意味なく辞書を引いていたあの感覚によく似ています。大人になっても、まず「自分で調べる」ことが如何に大切なのか、思い知らされます。
辞書の引き方がわからないだとか、時刻表、地図の見方がわからないだとかいうのは、習慣づけられるべき「自分で調べる」癖が染みついていないことではないかと。何でもいいから「人に訊けばいい」というのは、考えが甘いのではないでしょうか。
最近、軽々しく誰かに意見を求めたり、調べもせずに事柄について詳しい方に尋ねようとする方をよく見かけます。さて、その方々に「自分で調べる癖」があるかどうか。言わずもがな。それで、モノカキを続けるつもりなのでしょうか。
趣味だからというのは言い訳にはなりません。むしろ、趣味だからこそ本気になって調べたり書いたりしないのでしょうか。そこに「魂」はあるのか、ということですよ。そんな、自分で調べようともしない半端な気持ちで書いた作品のどこに「魂」があって、誰かの「魂」を揺さぶることが出来るのか。
自分では調べのつかないことだって、世の中にはたくさんあります。経験したくても出来ないことも、山ほどあります。そういったことをわざわざ題材にしなくても、自分の身近なことを描けばいいのに、というのは言葉がきついでしょうか。
極端な例。私は、医療ものが書けません。看護師でも医師でもないからです。また、医者にかかると言っても、子供を小児科、耳鼻科や歯科に連れて行く程度で、その内部までよく知らないからです。家に介護が必要な年寄りもいませんし、皆平均程度に健康ですから、医者の世話になることが殆どないのです。この現状では、医療に興味を極端に持つことはありません。そんな私が、いきなり医療現場での良心の葛藤を描けと言われても、まず無理ですよね。
昨今話題の「チーム・バチスタの栄光」シリーズの海堂尊さんは、現役の医師、医学博士だそうです。ご存じ「ブラックジャック」の手塚治虫もまた、医師免許を持っていました。専門性が求められる分野は、やはり専門的知識を持ったモノカキさんにかないません。どう考えても、素人が安易に医療現場を語ることは出来ない――つまり、そういった現場を知らない人が描ける作品ではないのです。
だからといって、異世界召喚ものを書くのがいけないかというとそういうことではなくて、身の丈にあった話を書こうと最初からしていない人がいきなり壮大なテーマや題材に挑む無謀性を指摘しているのです。調べようとも、経験しようともせぬまま、生死だとか愛憎だとか描かれてもリアリティがない。違いますか。
恋愛を知らない人の恋愛小説は楽しいですか。恋煩いをして寝ても覚めてもそのことばかり考えるあの憂鬱、高鳴る胸、息苦しさというものは、経験したことがなければ妄想にしかなりませんよね。本気で誰かを愛するということは、どこかで後ろめたかったり、恥ずかしかったりするものですけど、恋愛のれの字も知らない人が書く恋愛ものは、そういったときめきがどうも感じられなくて興ざめする、なんてことはありませんでしょうか。
「経験」と「調べる」こと、そこに想像を働かせることで、独自の世界を構築していくことが創作ではないかと思います。
知りもしない、やったこともないことを、そこに感情を絡めもせずにどうしてリアリティが出せましょう。うわべだけの世界観は、読めばすぐにわかります。誰かに訊いただけじゃなくて、調べまくってその世界を広げようという気迫が足りない作品がある、これは事実です。
耳が痛いかも知れませんけど、幻想めいただけの話はいつか飽きられる気がします。読んでその後心に残るまでになるには、やはりその話の中に作者の人となり、生き様、メッセージが必要なのではないかと。私はあまり書き込みすぎるので、くどいだとかめんどくさいだとか言われますけども。それでも、ただ単に締め切りに間に合わせて書いたような話よりはずっと読み応えがある、と言わせたい。
モノカキをしていて一番嬉しいのは、読了後の感想ですからね。そこを引き出すに十分なくらいの面白さとリアリティを追求したい。そのために調べごとは欠かさないし、自分の経験をそこに練り込んで、より強固なものにしたい。
「モノカキとは、人生の切り売り」だと聞いたことがあります。自分の経験、人生をそこに重ね合わせると言うことは、別に珍しいことじゃないのです。人間としてまだまだ未熟だとしても、そこで得た経験や感情は、誰のものでもない、自分だけが知りうるものではないでしょうか。そういったものを上手く使って更におもしろい話を考えてみては。そうすれば、調べもせず「誰かに聞いただけの事柄」を繋ぎ合わせて書いた話よりはずっとよくなると思いますけど。
本当は、身近な題材ほどネタになることはないのですよ。よく目をこらせば、あちこちにネタは転がってるんです。それを上手く物語に繋げていくための「調べ物」。そして得た知識を繋ぐ「経験」という名の接着剤。こういったものがバランスよく組み合わさっている物語ほど完成度は高いし、面白いんではないでしょうか。