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魂29◎固定観念――HNと匿名

 付き合いの長さにかかわらず、人をイメージで決めてしまうこと、ありますよね。極端に言うと、暴力団の人は怖い、看護師は優しい、だとか。だけどアレって結構失礼みたいです。一人一人個性があるのに一括りにしてしまうのはとても恐ろしいこと。もっと細やかに観察すべきなんでしょうけど、人間っておかしいもので一度そう見えてしまったら別の見方でなかなか捉えられなくなっちゃうんですよね。障がい者への偏見なんか最たるもので、あの人達のどこを見て私たちは簡単に「かわいそう」という言葉を口に出してしまうのか。

 ものの見方は千差万別でいいはずなのに、誰かが右だと言ったら右に黒だと言ったら黒に思えてしまう。人間の心、信念の弱さでしょうか。

 昨今行われている裁判員裁判は特にそれを打ち砕こうとしているように思えてならないのです。裁判官が行ってきた裁判が果たして真に平等であったか、あらゆる角度から検証し、公平な審判を下すためには寧ろ素人の目で事件を見てみよう。賛否両論は今でもありますが、素晴らしい試みだと思います。

 さて、こうした「決めつけ」と呼ばれるものは、決して刑事事件や職業、身体の状態などに限らず、様々な面でも現れてきます。私たちがこうして触れている文章やモノなど、身近なモノ全てに対して人はイメージを持ち、それを判別しているのではないでしょうか。

 例えば、読売巨人軍だと聞いただけでゾワゾワと悪寒がしてしまうとか、特定の政党名を口にするとその人を軽蔑してしまうとか。いますよね。今まではそんなこと無かったのに、何か引っかかることが一つでもあるとその人の全てがマイナスに見えてしまう。これって結構怖いことなんですよ。じゃあ、今まで気付き上げてきた自分の中のその人のイメージってなんなんだろうって。思わないんでしょうか。意外なモノがその人の中に潜んでいる、それだけなのに。


 一つの事柄だけで人の価値を決めてしまう、私はそれが怖くてしかたない。ネットでこうして文章を書いているときもそういう気持ちは持ち続けています。

 見えないもの同士の交流、インターネットを介しての会話。普段より姿形が見えない分、より視野を広げなければ「決めつけ」は強くなりますからね。慎重に慎重に、必要以上に相手に気くばせしなければなりません。

 WEBでモノカキや絵描きしてる人なら経験あるはず、感想のやりとり。いろんな人のいろんな記事を見て、共感したり涙したり。感動して思わず足跡残してしまうって事、ありますよね。でも、そうした素直な気持ちがかえって自分を苦しめるときもあります。

 特に初心者が陥りやすいのが「感想返し」。義務的に相手にも感想を残しに行くんです、好みの合う合わないにかかわらず。私は誰かに自分の話を読んで貰いたくて人の話に感想を付けているわけじゃないんです。もちろん、それによって交流は持ちたいと思いますけど、人の話を読むのは私の自由だし、感想を付けるのも自由なはずなんですけどね。以前、企画で私が感想を付けたら私の話にもたくさん感想くださって、なんだか恐縮した覚えがあるんです。だって、普段は私の話なんかに興味の無いような方が無理して読んでくださってた気がして。私の話は暗いし鬱だし、終いには「気持ち悪くなった」と書かれてしまう。そこまでして感想返しをしてくださることに嬉しいやらどうしたらいいやら。

 HNというのは、そういう意味で様々な力を持ってるんじゃないかと思ったんですね。

 偏見。いい意味でも悪い意味でも、です。

 あの人に読んで貰った、それはとても嬉しいことだけど、だからといってそれを義務に感じてしまうのはどうかなと。これは私自身がそうだったこともあって、ふと考えてしまったことです。だって、見返りを求めてばかりじゃホントの人付き合いは出来ないし。

 チャットや感想のやりとりで仲良くなった人ももちろんいます。だけど、その人達の話を全部読んでるわけじゃない。何となく気が合う、何となく好みが合う、ならば読んでみようか感想でも残してみようか。そういう人付き合いならいいけど、なんか、「感想くれた→じゃあ私も感想返ししなくちゃ」だけではどうも信頼関係を気づいて行くに無理があるんじゃないかなって。

 バランスが難しい。一人の読者として接したい自分と、モノカキとしての自分。読んでいるときは完全に読者なはずなのに、HNでモノカキしてるとわかったら、そういう目で見られちゃうのです。そう、「私の話にこういう感想を残していった人の作品はどの程度のレベルなんだろう」って。レベルなんかどうだっていい気もしますけど。でも、高みを望むならよりレベルの高い人と人付き合いしたいって思っちゃうのがモノカキなのですよねぇ。気持ちはすんごくわかるだけに、自分のモノカキレベルがどうこう以前の問題として、そういう感情が見え隠れする人とはどうもお付き合いできないでいます。


 そんなこんなあって、あんまり自分からは人の作品に進んで感想は残さないんですが、企画は好きなのでガンガン参加しております。でも、やっぱり感想のやりとりとなるときが引けて。一年くらい前から匿名で感想を付けに行ってるんです。

 匿名の感想ならね、私かどうかなんて殆ど見抜けないみたいなんですよ。

 元々べったりの交流をしてないのも原因だと思うんですが、ちょっと口調を変えただけで誰だかわからなくなる。見方や考え方は一緒なのに、匿名というだけで私が私でなくなる。それってスゴイ面白いこと。でも、だからといってやりたい放題言いたい放題じゃなくて、自分のHNで書き込みするときと同じ内容で、ただ別の誰かを演じてる。それだけなんです。実際、匿名で感想を入れた場合、読みあいっこは出来ないです。だから、本当に面白いと思うモノには面白い、イマイチと思うモノにはその通りの感想を入れることが出来る気がする。あの人あんなところであんな事をっていう、偏見がない分自由がきく。こんな事を書いたら誤解されてしまうという足かせを外されたような感覚があったんです。

 覆面企画というのがあちこちでありまして、本家企画は四回を数えたかな。その他にも覆面という普段とは違う状態――作者名を伏せて数人の作者が作品を出し合い、どれが誰の作品か当てる――の企画は点在します。その一つに参加したことがあって、私は以前全く誰からも正体を見抜かれませんでした。突出した個性があるならともかく、誰かに埋もれてしまうかも知れない小さな自分を匿名の中に晒したら、全然目立たない。そういうもんです。悲しいような嬉しいような。でも、そのくらい普段自分たちはHNというモノに執着心を持っていて、それがなければ何も判別することが出来ない愚かしさを兼ね備えていることを証明されたような気がします。


 HNには個性があってそれを抜いた文章や作品には個性がない? そんなことはないはず。でも、私たちはそれくらいHNに囚われています。

 ちょっと前にニュースでやってました。オークションに出品された絵、もしかしたら有名な画家の未公開作品では? 断定的表現がないにもかかわらずその作品はその作家のモノと勝手に判断され、ものすごい値段が付いてしまったのです。まるっきりのまがい物だったようですが、これはまさに「決めつけ」が起こした騒ぎですね。イメージにより左右されてしまう愚かな人間。真実を見抜くにはどれほどの冷静さが必要なのか。考えるとぞっとしますね。

 さて、では私の人物像はどのように皆さんに映っているのでしょう。男性、女性? HNに囚われて男性だと決めつけていませんか? じゃあ、SFの本に埋もれたオタク? いいえ、家にはSFの小説は殆どありません。固定概念、「決めつけ」って、本当に恐ろしいモノですよ。もし何かに囚われてしまっているなら、一度リセットしてみることをオススメします。


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