魂20◎対価・代償――求めるもの、潜むもの
例えば百円のものを買って、それで百円と同等かそれ以上の価値があれば納得できる。百円ショップのそういう発想は、嫌いじゃありません。百円の価値の範囲内で出来ることなら何でもやってしまおうというそのチャレンジ精神、サービス精神には見習うべきものが多々あると思います。
本屋で偶々買った本がつまらなかったり、テレビを見て期待していたほど内容に充実感がなかったりすると、損した気になりますよね。そこに費やしたお金なり時間なり、そう言うものと引き替えにした同等の価値、対価というやつを人間は自然と求めてしまうのではないでしょうか。
世の中無料のものが大量に溢れ、あれもこれも無料だのお試しだの、そこにどんな企業戦略が潜んでいたとしても、人は群がるのをやめません。むしろ、不況だからかそういうものに必要以上に食いついてしまうような気さえします。ローコストでハイリターン。そんな都合のいいものなんて、どこにあるんだろうと思いますけど。本来ならばかけるコスト(またはリスク)と見返り(リターン)は同じでなければならないはずです。
昨今流行の携帯小説やネット小説も、その殆どが素人の執筆、無料で購読できます。素人だからこその自由な発想、大胆な展開。そう言うのが受けているのか、ただ単に無料だから読まれているのか。そのあたり、私は正直よくわかりません。だけど、手軽で身近というのは間違いない。いつでも身につけている媒体で、好きなときに読める書けるって言うのはいいですね。尤も、携帯電話での執筆なんて、文字打つのが面倒で殆どしませんけど。今の若い人はスゴイ早さで文字打てますからね、器用なものです。
さて果たしてその無料の作品に対し、人はどれくらいのどんな対価を求めているのか。いわゆる電子書籍のように購読料を求められない分、一つの作品として読む姿勢は違うはず。書籍じゃなくて、プロの作品じゃなくて、素人作品をわざわざ読む。果たしてその心は。
これは、私の勝手な考えなんですが、手軽さが受けているわけではなく、自分と同じ目線の誰かが書いていると言うことに対する共感を求めているのではないかと。もしかしたら似た境遇だったり似たような思考の人間と、どこかでシンクロしたいと思っているのかもしれない。学生、サラリーマン、OLに主婦、その辺にいる誰かが書いているということがもしかしたら大事なのかも。
普通の人が書いているからこそ生まれる交流、感想の往復、共感というのは、プロに向ける目線とは全然違うような気がしませんか。むしろSNSやブログで繋がっているあの感覚に近い。画面を通して泣いたり笑ったりするときだって、プロが書いている作品を読むときとは若干違う心構えになっている。それは、無意識的なことで、気がついている人はものすごく少ないかもしれません。それでも、何となくそう思うんですよね。
長い間同人誌を作っていたので、私はその延長でWEB小説を書くようになりましたけど、世の中の大半の人はそうじゃないはず。手軽だから、素人でも発表の場がある、単に好き――色々な理由はあっても、結局この方法をとってしまったんでしょう。ネットは広大で、誰とでも簡単にコミュニケーションがとれますからね。コミュニケーションの道具の一つとして小説がある、と言う方が適切かもしれません。
作品を発表するという行為によって、誰かがそれを読み感想を残す。感想への返信で一つのコミュニケーションが発生する。これを繰り返していくと、目に見えないネット回線を利用した信頼関係が築かれる。掲示板、チャット、メール、オフ会。様々に変化はするけれど、それって、普通市販されている書籍を読んでいては絶対に手に入らないものですよね。
書いている人との接触なんて、サイン会でもないと無理。読まれているかどうかわからないファンレターを出したり、その著作を読んでシリーズを買い漁ったりするだけじゃ、作者との交流なんて望めない。ところが、ネットだとそれが簡単にできてしまう。お互い素人同士だから敷居も低いし、何より普通の人だという安心感があるのかも。だから簡単に交流できてしまう。そう、いとも簡単に。
簡単・無料、だけどそこにだって何かしら危ういものが潜んでいることを忘れてはなりません。結局相手は素人なんです。自分の隣人、知人を思い浮かべてみてはどうでしょう。いろんな人がいますよね。相手を気遣う人、相手に会わせる人、人の話を聞かない人、逆ギレする人。もしかして、自分が接している相手はと勘ぐったことはありませんか。――個人を相手にしているからこそ出てくるトラブルは、ネット世界でのリスク。文字でしか伝わらない言葉は、相手のどこまで響くのか。無料で手軽という事の恐ろしさは、実際トラブルに遭ってみなければわからないかもしれませんが、それはそれは恐ろしいものです。
車に乗る、運転する。とても便利で楽なものですが、交通事故に遭う確率というリスクを背負っていることを忘れてはなりませんね。運転者は常にそのリスクを頭に置いて運転しています。便利だということは、同じ分だけ、もしくはそれ以上に危険を孕んでいるのです。
交流できる、気軽に感想を言い合える。その結果、互いを傷つけ合うことだってあります。埋められないほどの溝を産んだり、耐えられず鬱になったり、ネットという環境自体から身を引かねばならなくなったり。
交通事故を抑止することは出来ます。運転・交通安全の知識があれば誰だって。
じゃあ、ネットのトラブルはどうですか。抑止できませんか。
インターネットのマナーを纏めたサイトをご覧になったことがあるでしょうか。とても些細な行為が相手を不快にさせ、貶めている現実。何故そんなことでと思ってしまうようなことでさえも、炎上のきっかけになり得るのです。
これは大人だろうと子供だろうと関係のないことだと思います。見えない相手に対する思いやりと、ほんの少しの言葉の推敲。これによってトラブルはある程度回避できます。「だろう」じゃなくて「かもしれない」と思うことです。これは車の運転だけじゃなくて、こういう事例にも当てはまると思いませんか。
エッセイを書いていて色々な人に意見を伺うことが出来るようになり、また、前話のような事例が身近に発生したため、ますます私はそれについて深く考える機会が増えました。
それまで順調に回っていた歯車がふと欠けるのでしょうか。それとも、欠けた歯車を直すすべを知らないのか、欠けぬようにする配慮が足りないのか。誰かを思いやる心を忘れてはいけないと思います。また、自分だけが傷ついていると思うのも自分勝手だと思います。各々が相手を見つめなければ、無料という言葉に引き込まれて傷つく人間が増えるだけだと。
求めるものが大きいのは構いません。だけど、そこに力を注ぎすぎて自分を失い、トラブルを招き入れるようなことはやめて欲しいです。
ネットは素人の集まるコミュニティ。誰もが傷つきやすく、脆いというリスクを背負っているのです。