魂19◎何のために書くのですか
長年親しくしていたある方が、訳あってネット小説書きをお辞めになりました。とても残念なことです。その原因が物書きさん同士のトラブルだったのでますます釈然としない気持ちになりましたが、私よりずっと年上の方ですので色々考えもあったのでしょうと思うことにしました。プライバシーのこともあるのであまり詳しいことは書けませんが、人と付き合う、特に物書きと付き合うということに疲れてしまったようです。虚勢を張っていたのだというようなことが最後のメールにありました。
何故彼が悩んだ挙げ句そのような結末を選んだのか少し考えてみましたが、私にはわかりません。トラブルなんてつきものだし、そんなことでやめてしまうなんて彼にとって「モノカキ」とはいったい何だったのか。何故書き続けていたのか、何故諦めるのか。都合のいい言い訳を付けているようで、なんだか虚しくなりました。
同人誌を売って自分の作品を読んでもらう――それしか自分の作品を不特定多数に広める手立てがない。そんな時代からのおつきあいでした。私はその手段しか知らなかったので、そういった場所で知り合った彼を尊敬していました。
本は決して大量に売れるものではありません。第一、コピーしての自家製本、アマチュアの小説を買うって人は希有で、売れ残りを引っ張って歩くのなんて日常茶飯事です。売る楽しみももちろんですが、そのために一人で勝手に締切を設けて書き続けるのが楽しくて。固定読者は十人いればいい方です。毎回同じ客なんてこともしばしば。文芸はそれほどウケが悪い。だから、せめて一人一人のお客さんに喜んでもらおうと、必死に書いていたものです。
お金のためじゃない、お金は偶々そこで得られる対価で、そのときに発生するささやかなコミュニケーションや読了後の感想が最も大切なものなんだと――きれい事を並べることで、決して売り上げの芳しくない自分を励ましていました。お金のために書くのなら、万人受けするものを書く。今流行の漫画やアニメの二次創作、萌えアイテムを用意して、ばんばん売りさばいた方が小遣い稼ぎにもなるんだから丁度いいはずです。実際、そういうものは売れました。あっという間に完売して、その他のものに手を伸ばしていただくことも多々あり、嬉しかった覚えがあります。だけど、私が書きたいのはそういうのじゃなくて、自分にしか書くことが出来ないであろう暗く恐ろしいスリルのある小説なんだと信じて、売れなくても細々書き続けました。
妊娠して同人誌即売会に行かれなくなった私が見つけた、インターネットでの作品公開という方法は、実に衝撃的でした。費用をかけずに自分の作品を読んでもらえる、見てもらえることの喜び。お金だけのために書き続けていたんじゃないと噛みしめます。交流も手軽でリアルタイム。こういうのはアナログ時代にはありませんでしたよね。
当たり前じゃないか、なんて思わないでください。何度も書いた気がしますけどね、昔は感想のやりとりは手紙だったんですよ。毎日ポストの中身を覗いて、ドキドキして。私は実家にいたときも隠れて同人活動をしていたので、なるべく家の人に見つからないようにするのが大変だったんです。親が帰ってくる前にポストを覗くとか、郵便バイクや宅配車が家の前に止まった音を察知して自分で受け取りに行くとか。そこまでして、どうにかして誰かと繋がっていたかった。茶封筒を手にとって震えて、開封してさらにブルッと来て。手書きの面白かったですの一言が重かった、ずしんと来ました。八〇円切手に運ばれて私のところまで遠路はるばると――こんな辺鄙なところにわざわざ届けてくれたその想いにどれだけ感動したか。
私のそういう想いはネットで簡単に感想をおくりあえるようになってからも変わりません。いつだってドキドキするし、無性に嬉しくなる。毎回必死に書いてますからね、それに反応してくれただけでも感謝です。初心を忘れるなとよく言います。全くその通りだと思うんです。手段がどうか違うにしても、作品を自分で仕上げて公開している事実は変わらないわけで。手塩にかけた作品に何かしら反応が来たら嬉しいに決まっているじゃありませんか。
即売会での人気の指標は売り上げ、そしてネットでの指標はアクセス数や感想・評価などのポイント数に間違いないでしょう。しかし、その精度に関しては疑問です。真に感動できる(どのベクトルにしても)ものかどうか。短期的な人気、流行への便乗かもしれないし、単に宣伝力だけかもしれない。作品の質というものは実際のところ、人気指数には反映されないものです。
何でこの作品を手に取ってくれる人が少ないんだろう、何故アクセスが伸びないんだろう――そうした葛藤も、何度も経験しました。ですが、人気指数などにとらわれず自分本位で作品を作り上げてこそモノカキなんだという結論に辿り着きました。
一人でも激しく感動したという人がいたら、私はそれだけでいいと。開き直りにも思えるこの考え方で少しでもいい作品が描けるなら本望です。だって私は何のためでもない、自分が書きたいものを書いて面白いと思っているために書いているのだから。それが対外的に何の評価も受けなくても、読んだ人の心に残るならばそれでいいのではないかと。そう思えばこそ、トラブルなんてあっても気にせず乗り越えられたし、モノカキとしてのアイデンティティも保てたのだと思うのです。
モノカキって生き物は、往々にして自分勝手なんだと思うんですよ。自分の世界というものを持っているから(もしくは持っているつもりだから)我が濃くなる。そういう人たちと付き合うのはもしかしたら並大抵ではないかもしれないです。
自分の世界を否定されて躍起になる人もいます。散々罵倒されたことも無いわけではありません。私だって自分の言い分をしっかり伝えたいし、相手のことだってある程度は認めたい。だけれども、どうしても衝突を避けられないときがあって、私はこれ以上付き合うのは無意味だと身を引きました。私はそんな言い合いをするために交流をしているわけではなく、楽しく前向きにモノカキをするための議論をしたかっただけなのに。
純粋にモノカキとして交流する人がいれば、それを利用して合コンまがいのことをしたがる輩だって世の中にはいます。チャットや掲示板で異性と来ればすぐに好みを聞いてくる、プライベートのことを訊きたがる人。いったい何が目的なんだと――最低限のマナーを守れない人間と上手くいかなかったこともありました。
荒らしに遭ったことがないとでも――いいえ、遭いましたとも。嫉妬なのか言いがかりなのか。文章に込めた想いを読み取れず表面上だけで判断され誤解されたことがないわけじゃない。それは同じモノカキからの攻撃で、色眼鏡で見られるきっかけにはなりましたけど、私はそれでもものを書き続けます。だって、自分の信念があるから。誰に言われて書いているわけじゃない、私の意志で書いているのだから。
同じようでも違って当たり前、それが人間ですよね。自分と同じ考えや目的を持ってモノカキしているわけじゃないことも何となくわかります。だから軋轢が生まれるんです。その火種の中に自ら身を投じてしまえば傷つくことはわかっているのだから、ある程度のところで身を引かなければ。
あまりにのめり込んで本来の目的を失ってしまえば、それはただのストレスになってしまうのではありませんか。そこまでして、モノカキ同士の交流をすべきだったのでしょうか。互いのプラスにならない交流を選び続ける意義とは。その義理はどこにあるのでしょう。結果、モノカキをやめることになってしまうくらいの交流なら、しない方がいいのではないかと思いますが。
何のための交流でしょう。何のために書くのでしょう。
初めて感想をもらったとき読んでもらったときの気持ちは、どこへ行ってしまったのか。本当に信頼できる仲間は見つからなかったのか。――考えれば考えるほど、憂鬱になります。
彼がこの文章を読むことはないかもしれませんが、私は自分の気持ちを整理したくて、このようなものを書き綴りました。もしかしたら、私も原因の一つだったのかも。忙しさにかまけて、メールの返信が遅れてしまったためだとしたら。とても辛いことだけど、決めてしまったのなら私は口出しできません。
もし、何かの機会にこの文章を見かけて思い直してくれたら。メールの返事に書いたように、書き続けることを忘れないでくれたら。もう一度一人のモノカキとしてお付き合いしたいなと今は思うのです。