魂16◎自分らしさとは何か、模索
興味本位であちこちの小説競作企画に参加してしまいます。自分を試すためだとか格好付けて、結局は面白そうなことに首を突っ込まずにはいられないだけだったりして。そうやって参加して、さて何を書こうかと考えたとき、どうしても周りの参加者の目が気になってしまうと言うのが人間というもの。最初から書くものが決まっていて、それから参加すればいいようなものの。締切迫ってから書き始めてしまう、とか、ありますよね。
相当の確率で締切ギリギリになってしまう私としては、締切内でできる限りの力を出したんだぞというのを証明したいと思ってしまうわけです。見栄、張らなきゃいいのに。
他の人の作品傾向を予想しつつ、自分がその作品群に埋もれたくないだなんて、わがままにもほどがあると思うんです、実際。だけど、せっかく書くんだもん、面白いと言わせたいし意外性を見いだしたいと思うのがモノカキ。このどうしようもない性格が災いして、作品の方向性を決まるのに時間が相当かかってしまうという……、悪循環に毎度陥っているんです。
早い話、こういう事をしていると確実にネタに詰まります。恐ろしいくらい毎度、ギリギリまでネタが浮かんできません。
企画は、読者を作品に呼び込んでくれる一つのきっかけになります。いつもは読んだことがないんだけど読んでみよう、そう思わせ、実際読ませたら勝ちな訳です。普段マイナージャンルでゆっくりまったり更新している私としては、自作品に興味を持って貰うよいチャンス。気合いの入り方が違います。さて、普段と同じような書き方がよいか、それとも奇をてらうか、まさに腕の見せ所ですよね。
こうして、毎回必死になっていますが、決してそれが功を奏するかというとそういうこともないのが現状。競作企画とひとえに言っても、その傾向は実に様々。仲間内で感想を言い合うだけのものから、厳しく批評していくもの、読者も巻き込んで楽しめるものなど、それぞれの企画に合わせた作品を書かなければ、読者獲得など到底難しいものです。
ホラー企画に参加したとき。幽霊やらお化けやらが怖いので、そういうのが出ない話をずっと考えました。悩んで悩んで悩んだ挙げ句、ある年に書いた作品は学校の七不思議になりました。意外性をと思ったのですが、それほど意外な展開でもなく。もちろん書いたときは必死でしたけど、後で読み直すと反省箇所がいくつも出てきます。次の年、悔しかったので、また幽霊とお化けのでないホラーを書きました。今度はループ系と思わせて実はちょっと違うという話を書きました。ホラーでも何でもないけど、ホラーになってしまうというパターンです。それなりに評価は上々でしたが、どの程度怖かったのか。読む人によってはSFに感じてしまう作品に仕上がってしまっていました。
テーマやジャンルが決まっていて、その中で自分らしい作品を書き上げると言うことがどれほど大変なものか、参加の経験のある方は大抵ご存じだと思います。好き勝手に普段書いているのとは違うわけですから、いつも以上に頭をフル回転させ、自分にしか書けない話をと模索していきますよね。読者も企画と聞くとそれなりに期待しているらしく……、プレッシャーを感じずにはいられない中での執筆になります。
どうやって存在を証明するのか。読んだ人に、如何に印象づけるのか。これらは永遠のテーマのようにすら思えます。私たちモノカキが書き続ける中で、必ずぶち当たる壁でもあるこの案件について、私は毎度のようにもがき苦しんでいました。
ある時、覆面企画というのが持ち上がり、私はそれに大変興味をそそられました。作者名を伏せて作品を仕上げ、誰が書いた作品かを推理させるというものです。ネームバリュー関係無しに作品を読んでもらえ、更に感想や推理まで付いてくるというおいしい企画です。自分が立ち上げたばかりのSF企画の準備で忙しかったのに、私は思わずその企画に参加してしまいました。もちろんおもしろそうだから、ですよ。
普段書いている作品の色や傾向を、推理側は予測してくるはずだし、私はそれに対してどのように向かえばよいのか。考えて考えて、結果、普段は見せたことのないものを書いてみようという気になりました。書いていて面白かったけど、その作品を読んでいただいたときの反応に、私は妙に感激してしまったことをよく覚えています。
作者推理の経過を見守りながら、私は色々と自分の作風や作品について考えました。
暗く重い、ずっしりとくる堅めの文章は、私の持ち味だと思っていましたが、もしかしたら違うかもしれない。実際、こうしたエッセイや日記の文章と小説の地の文、比べてみると実はそれほど差が無いんですよ。だけれど雰囲気だとかジャンルだとか言うものに人は振り回されてしまっているかもしれません。それは読者だけでなく、書いている私自身も。
そして、作者の名前という固定概念が、実は読む作品を探す上で重要な役割を果たしているかもしれないこともよくわかりました。名前を伏せてしまったほうが先入観無しに読めるんです。知らず知らずのうちに、自分の気に入りの文体や作風を探し、見つけるとそこに落ち着いてしまっている自分。きっと相手、つまり私たちの書いている作品の読者も、同じようにさまよっていて、自分に合った作品を日々探しているのではないかと。そうした読者に自分を見つけてもらうためにも、企画というのはよいきっかけになるのです。
さて、自分らしい作品とは何か。自分だけにしか書けない作品、自分だけしかその執筆の可能性のない作品。真似ようと思っても真似られない、自分だけのものって何。その先にオリジナリティが隠れているのではないかと、私は今も思います。
たくさんの作品が溢れ、増え続けているこのWEBの海の中で、間違いなくこれは私だけのものだと声を張り上げることができるのか。それは誰かの二番三番煎じではないか。どこかで見たものの集合体に他ならないか。自分自身、自己の作品について疑いの目を向ける必要があるのではないでしょうか。
いきなり本当のオリジナリティを追求するのは難しいことです。完全なるオリジナリティなど存在するかどうかさえ怪しい。人は誰かに影響を受けて成長する動物なのですから、なおさら。ならばどうやってオリジナリティを確立するのか。やはりそれは、経験という引き出しをたくさん作るところからではないかと、私は思うのです。
創作の上でただオリジナリティを追求するのではなく、そこに自己の経験という材料を上手く練り込まねば本当のオリジナリティは見いだせないのではないかと。創作とは人生の切り売りだと、どこかで聞いたその言葉通り、経験がなければ上っ面だけの張りぼてにしかならないと言うことなんだと思うんですよ。恋愛経験のない人の恋愛小説に感動するか、感情の起伏のない人に相手を泣かす話が書けるか、そういうこと。
人生経験はその人にしかない、世界でたった一つの完全なるオリジナリティじゃないですか。それを利用しなくてどうすると、私は言いたい。自分らしさがそこから生まれているとしたら、そこを無視していきなりオリジナリティ云々談義すること自体、ちょっと見当違いじゃないかと。
自分らしさ、自分にしか書けない話、オリジナリティ……。そういうものに詰まったら、ちょっと深呼吸して自分だけの経験から見直してみては。もしかしたらどこかにヒントが隠れていて、そこから芋づる式にアイディアが浮かんでくるかも。普段は埋もれている個も、そうしたきっかけで光ってくるかもしれない。いや、光るに違いない。そう、思いたいのです。