十日目の彼女
傘の独創的なその形は、主人に雨粒の音色を届けてくれます。今日のそれは、まるでクラッシックの一曲の様に、自由で色彩的な旋律を美しく奏でていました。
道行く人々の持つカラフルなその演奏者たちは、花壇に咲く紫陽花を連想させ街を鮮やかに彩ります。こうして彼らは梅雨のあの虚しさを忘れさせてくれるのです。
◯
私が今いるこの場所は、今年で傘寿を迎えるというご老人が経営する創立六十年にもなる画材屋さんです。私のお墨付きでもあります。
店内に充満しているインクと紙の香りは、その匂いを嗅ぐものに、もれなく創作意欲を授ける神託です。しかし、その気持ちをぐっと堪え、私はお目当てのスケッチブックを一冊手に取り、お会計に向かうのです。
「おじいちゃん、これください」
私は店の奥にいた店主に声をかけます。
「おお、その声は。今日も来てくれたのかい」
私がおじいちゃんと呼ぶその方は、ひょっこりと暖簾から顔を出し優しい口調で応えました。
暖簾で遮られた向こう側は彼のアトリエです。残念ながらその先は、恩返しに鶴が機織りをする部屋であり、私たちお客は家主と同じ境遇を強いられます。
「いつもご贔屓有難うね」
彼はそう言葉を続けると、スケッチブックを袋に詰め始めました。
「しかし、この雨もしつこい」
「ええ、もう十日も降り続けています。そろそろウンザリです」
あえて迷惑そうな表情で言いました。
「そうかね、私の目には君がこの雨を楽しんでいるように映るが」
彼はそう言って、くしゃくしゃっとシワだらけの笑みを浮かべます。
「おじいちゃんも、楽しそうですよ」
その後も、当たり障り無い日常会話を交わしていたのですが、雨脚が強くなることを恐れた私は、帰路につく網を伝えました。
濡れてはいけないと二重にしてくださった袋を受け取り、お代を払います。去り際にまた来るねと定番の口約束をし、私はあの雨の下へ、街を彩る紫陽花として返り咲くのです。
帰り道、依然として降り続けるこの梅雨の雨は、普段の雨とは違う街の顔を見せてくれました。いつもはできない水たまりや、水位の上がった川、坂を下る水流が私の靴を濡らします。
そんな風景に気を取られていると、突然、垂直に降る雨粒たちが揃って真横を向きます。同時に強い風が私の元を吹き抜けました。それは一瞬の出来事でした。気づけば、手に握っていたあの紫陽花の花を空の彼方に連れ去られてしまったのです。
仲良く街と雨晒しの私が、難を凌げるようにと避難したそこは、古びた自動販売機が並ぶ人気のない場所でした。
私は雨宿りを余儀なくされながらも、遠くを旅をするあの傘のことが気になり、連れ去られた東の空を見上げながら、じーとあの子の行く末を想像するのです。
気がつけば隣には険しい表情をしながら同じ空を眺める男性が居ました。
あれ、「先輩じゃないですか」




