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第二章 愛し方を知らない、







     第二章  母親






 母はとても優しい人だった。文字通り、ただ優しい人だった。幼い私が家の壁に落書きをしようが、母の嫁入り道具の桐箪笥に安全ピンでひらがなの練習をしようが、昼寝をしている母の髪を線香で焼こうが、怒ることはなかった。

 父には叱られた。公務員の父は、子どもが悪いことをしたら叱る、普通の父親のようだった。

 しかし、三度を超えても笑みを絶やすことのなかった仏以上の母も、私には普通の母親だった。私は母が好きだった。でも、私は母のようにはなれなかった。


 短大を出て、三年ほどつまらない事務の仕事をして、結婚をした。つまらない男が夫になった。勤めた運送会社の上司だった。私に甘い男で、夫婦関係と言うより、主従関係だったように思う。もちろん私が「主」だ。

 厳しい父の目の届かないところで思う存分甘やかされ、当然のようにわがままに育った私が選んだこの夫は正解だと当時は思っていたが、選択権を持っていたのは私ではなかった。いま思えば、ただ歳を食っただけの男しか、私を妻にしようとはしなかっただけのこと。その男もまた、母同様に、仏を超えた笑顔を常にたたえていた。私の子どもに、その顔を向けていたかは興味がなかったから知らない。


 結婚して三ヶ月後に、長男を出産した。いわゆるデキ婚だった。妊娠しなければ結婚なんてしなかったし、そのときたまたま付き合っていただけの夫と一緒になろうなんて思わなかっただろう。

 ただ、私は子どもは好きだった。検査薬が陽性を示したのを見たとき、独身だったが、堕ろそうなんて全く考えなかった。私に意見をしない母親はもちろん、意見しかしなかった父親は反対しただろうが、そのときには両親は離婚して父はいなくなっていた。

 友人の前では、若いのに思わぬ妊娠をしてしまった悲劇の女を演じ、会社では被害者を装った私を咎める者はいなかった。妊娠中期まで続いたつわりは辛かったし、ただのデブのような動作しかできないことがうっとうしかったが、産婦人科で胎児が動いている映像を見たときは、涙が出た。安定期を超えた頃の、控えめな胎動が愛おしかった。

 大きなトラブルもなく、三十九週を過ぎた。まる一日続いた陣痛を乗り越え、長男が産まれたとき、何もかもが満たされた気がした。私は幸せだと感じた。


 長男は手のかからないいい子だった。新生児の頃から、おっぱいを飲ませれば五時間はすやすやと寝てくれたし、夜中の授乳も、一時頃に一回起こされるだけだった。

 通っていた地域の赤ちゃん教室で会うママたちが言う、


「もう、すぐおっぱいおむつ、おっぱいおむつできりがなくてー、出産してから三ヶ月、二時間以上連続して寝たことないのよー。横で旦那がいびきかいて寝てるの見て腹立って腹立って」


「この子、日中ずっと泣き止まなくて……夕方なんて特にギャン泣きで、ずっと抱っこなの。隣の家に聞こえないかドキドキしちゃって。ご飯なんて片手で食べれるおにぎりが精一杯で、泣き声で頭痛くなるし、抱きすぎで腱鞘炎になっちゃった」


「うちはうんちが出なくて、毎日綿棒でおしりの穴突っついてるのよ。それでこないだ、勢いよく出過ぎちゃって、自分にかかるわベッドのシーツとマット全取り替えだわ、大変だったー。で、午後マスクして買い物行ったらなんか臭いの。何かと思ったら、あごにうんちついてた!」


というような愚痴は、どれも私には理解できなかった。

 ちゃんとやれば赤ちゃんは泣かないし抱っこをせがまないし、いい子なはずなのに、みんな怠慢してるんじゃないかと思った。しかし、みんなが盛り上がるような愚痴がない自分が少数派で、長男と同じ月齢の赤ちゃんを抱えたママたちは、何かしら問題を抱えているのが当たり前のようだった。

 それでも、だいたいの人は幸せそうで、目の下にクマを作り、やつれた、もしくは産後太りが解消されない顔でため息をつきながらも、笑顔で話をしていた。

 それが少しうらやましくもあった。私の子みたいにいい子で何の問題も心配もなく、出産後からぐっすり寝かせてくれてご飯も普通に食べさせてくれて、家事も思うようにできて自分の時間もあって、というのが子を持つ母親の幸せだと私は思っていたのに、それらが何もないママも、幸せを感じているんだと思うとなにか納得がいかない気がした。

 そう思っているのが顔に出ていたのかもしれない。私にはママ友というものができなかった。


 長男は特に病気をすることもなく、ミルクをよく飲んでよく寝て大きくなった。母子手帳にある成長曲線のページの、ちょうど平均をたどっていた。

 私は自分の育児に自信を持っていた。私は長男を叱ったことも注意したこともない。私を育ててくれた母と同じ、これが母親というものなんだと思った。そして長男が三歳になったとき、また妊娠した。


 ぼんやりと、今度は女の子がいいなと思っていたが、次も男の子だった。少し釈然としない気持ちで、でも堕ろすほどこだわりがあるわけじゃないしな、と思って過ごしていた妊娠四ヶ月のころ、ひどい出血をした。

 五月の陽気がぽかぽかと心地よい朝だった。夫を送り出して、リビングで長男とテレビを見ていたときだった。突然お腹が痛くなり、経血が出たような感覚があってトイレに行くと、便器が鮮血で染まった。

 恐ろしくて恐ろしくて、パニックになって血が流れる股を手でおさえ、パンツをあげるのを忘れてトイレから出た。その後どう行動したのか覚えていないが、なんとか産婦人科に行ったら、切迫流産と診断され、隣の区の総合病院に入院することになった。

 長男は有給を取った夫が見てくれることになったが、青ざめてパニックを起こした私の顔と、廊下のおびただしい血の痕を見たであろう長男の表情を、私は覚えていない。パンツも履けなかった私がどうやって産婦人科に行ったのか、そのとき長男は何をしていたのか。

 ただお腹の子を守りたくて、ただそのことを強く念っていたことだけの記憶しかない。私は、そのとき長男に何かひどいことをしたのかもしれない。


 入院生活は一ヶ月ほどだった。二十四時間点滴に繋がれ、大部屋のベッドプラスαだけの狭いスペースに閉じ込められた。

 自分自身ですら全く制御できないお腹の張りに脅え、ひたすら耐えるだけの、不安しかない途方に暮れるほどの長い時間。

 いま産まれてしまったら助からないかもしれない。

 助かったとしてもどんな障害が残るかわからない。

 大人しいとはいえ活発に動くようになってきた長男がいるのに、私に障害児の世話ができるのだろうか。ただおっぱいを飲ませておむつを替えて寝かせて、六ヶ月が過ぎたら離乳食を与えて歩き出したらサークルに入れて、何の苦労もない長男のシンプルな子育てしかしていない経験が通用するのだろうか、しないことがわかっているから、この妊娠すら後悔した。

 よその子どもの数倍いい子に育ってくれた長男だけを愛して生きていきたかった。長男と、夫と、三人の生活が幸福度100%なら、お腹の子が産まれたら120%になると思っていたのに、80%になるかもしれない。50%かもしれない。0%かもしれない。この、お腹の子さえいなければ、私の人生は100%だったのに……。

 母親として、人としておぞましいとしか思えないそんな思考に囚われるようになってきていたころ、点滴の量が減った。胎児の心拍も問題なく、まずい病院食でも平均的な大きさになり、私は妊娠六ヶ月を迎え、退院した。


 無事かどうかはともかく、退院したその後も早産の恐怖は消えなかった。子宮口にポリープができ、出血が続いていたため、感染が怖くてお風呂に入っても浴槽に浸かれなかったし、大きくなる子宮に膀胱が圧迫され頻尿になっているのに、ティッシュにつく血を見るのが怖くてぎりぎりまでトイレを我慢したりしていた。

 気持ちに余裕がなく、常にいらいらしていた。そんな私を気遣う長男がまたうっとうしくて、優しくできずにいた。公園遊びが大好きなのに、一日ベッドに伏せって外出する気もない私を起こすでもなく、一人リビングでブロックや折り紙をして遊んでいた。

 五十枚入りの折り紙なんて二日でなくなってしまうのに、長男の机の上に置かれた正方形のビニール袋が空っぽなのを見ているのに、新しい折り紙を買いに行くのがおっくうで、「買ってあげようか」の一言が言えずにいた。長男は折り目のたくさんついた折り紙を広げ、何度も折っていた。せっかく作った象は、飛行機になったり、ピアノになったりした。青いやっこさんは椅子になり、またやっこさんに戻ったりしていた。それでも、新しい折り紙が欲しい、という要求を一度もしなかった。

 たった三歳なのに、母親の顔色をうかがっている長男の顔を見るのが嫌になっていた。

 そして季節がひとつ過ぎ、次男の輝夫が産まれた。とても安産で、長男のときの半分の時間で出てきてくれた、親孝行者だった。心配していた障害は何もなかった。眉と目が私に似ていた。この子さえいなければ、と思っていた私の思惑を知らない、ただ無垢な瞳でおっぱいを求めてくる輝夫は、私の宝物になった。


 長男と違い、輝夫はよく病院の世話になった。

 輝夫と私の血液型の相性が悪く、産後三日目には新生児黄疸と診断され、治療が始まった。強い光線をあてるため、目元に黒いテープが貼られ、オムツだけの姿で小さな箱に入れられてしまった。それだけでも我が子の姿が惨めで胸が痛むのに、さらに毎日行われる採血が辛かった。助産師二人に押さえ付けられ、マスクと眼鏡でほぼ顔がわからない担当医師に痛いことをされる新生児の恐怖。耳を塞ぎたくなる、号泣とも違う悲痛の泣き声。毎日採血の時間になると、涙を流すことしか出来なかった。

 私が、母親の意志だけで輝夫を箱から出せるのは、おっぱいとオムツの時だけだった。残りの時間は、ただそばで、うつ伏せでねんねする、そしてたまに身体をビクッとさせて、触れるものがなくて泣き出す輝夫を、プラスチックの箱越しに見ていた。泣いている我が子を抱っこするために、看護師の了解が必要だった。私が我が子を抱っこしてあげたい、その気持ちで抱っこをすることはできないのだ。自分の存在意義が虚しかった。産まれて間も無い弱い黄色い肌が、繰り返し貼って剥がされるテープでかぶれていく。


 産後五日目、未だ黄疸の数値が下がらず治療が続く輝夫を残し、私だけが退院することになった。抱っこの時間よりも、箱の中にいる時間の方が長い輝夫を、最後に抱っこさせてもらった。

 新生児期の長男は、もうこの頃には抱っこをすれば乳のにおいのするおっぱいがもらえるとすり寄ってきていたのに、輝夫はまだ、母親とおっぱいが繋がっていることをわかっていない。目元のテープを取って顔を見てあげますか? と助産師に言われたが、お願いしますと言えなかった。大丈夫です、と言った。


 輝夫を置いて夫と家に帰った私は、病院に残した輝夫のことが心配で悲しくて、産後の疲れよりも、輝夫を想う心労でボロボロだった。瞼を落としても、思い浮かぶのは輝夫の目元の黒いテープ、かぶれた痕だけで、輝夫はどんな瞳だったか、どんな顔で泣くのか。思い出せない罪悪感に眠りに落ちることができなかった。いつの間にか意識を失っても、輝夫の採血のときの泣き声が聞こえて起きた。深夜に寝室を抜け出してリビングのソファで泣きながら搾乳した。


 産んだ子が自分のそばにいないだけで、世界が真っ暗だった。飲んでくれる子がいないおっぱいは何度搾乳しても張り続けるので、食事も水分も摂らなくなった。それでも胸がぐーっとふくらんで痛むたび、病院で輝夫が一人泣いているんじゃないかと思って涙が流れた。そんな夜が明けると私はすぐに病院に行き、二十時の面会時間終了まで輝夫の横にいた。ぷくぷくした黄色い頬を見ている間だけ、自分の心に温度が戻った。

 私が病院にいる間、まだ幼稚園に通っていなかった長男が、日中何をしていたのかは知らない。夫がまた有給を取っていたのか、それともどこかに預けられていたのか、私は興味がなかった。それでも食事は必要なので、朝はパンと水を与え、夜は病院の帰りに買った弁当を食べさせた。遊びに付き合うのがわずらわしく、お風呂は別々に入った。病院から帰り、ご飯、お風呂とこなしていると、あっという間に十時が過ぎた。その時間にはさすがに長男も自然に眠くなり勝手に寝てくれるので、わざと病院を出るのを遅くしたりしていた。

 輝夫の寝かしつけをしてやれないのに、長男に手をかけるのがあほらしいと思っていた。私がすべきことは、輝夫のために搾乳をし、輝夫のいる病室に居ることだけなのだ。


 輝夫が退院する日。輝夫を抱っこして、初めて病院を出た景色に、色があった。家と病院を往復する肉塊にやっと心が戻った気がした。帰った家の窓から光が入り、部屋に明かりが灯った。そこに夫と長男がいることがわかった。輝夫を抱いて笑う私の瞳に長男が映ったとき、天井からつり下げられていた顔の表情筋が緩んだように、長男が笑った。その長男を見て、私も口角だけで笑った。長男と目が合うのは、出産後初めてだったかもしれない。夫はそんな私たちを見て、悲しい笑顔をしていた。他人の心の機微が面倒だった。輝夫だけは、私の愛を疑うことなく、全てを預けて、腕の中で安心したように眠っていた。生後二週間に満たない、小さな小さな輝夫。かわいい愛しい、大事な輝夫。


 三年ぶりの新生児育児は、予想を超えていた。三年前、赤ちゃん教室でママたちが言っていた意味がやっとわかった。寝ないってこういうことなんだ、文字通り寝ないでずっと泣いていることなんだと。

 退院して、人肌に触れることを我慢しなくていいと知った輝夫は、存分に甘え始めた。今まで遠慮がちに飲んでいたおっぱいを、風呂上がりのビールのようにグビグビ飲み始めた。退院してすぐはそれがうれしかったが、産後一ヶ月検診までは細切れ睡眠で一時間ごとに授乳をして、オムツを替え手寝かしつけても三十分後にはギャーと泣いて起きる。これは辛い、本来の新生児とはこういうことか、と思ったが、そのあとのほうが比べものにならないくらいひどかった。

 新生児期が終わってからは、おっぱいをあげても寝ない、おむつを替えてもぐずる、日中も夜中も関係なく、常に号泣。何をしても泣くのでもちろん抱きっぱなし、二、三時間ジャンプしてスクワットしてようやく寝たと思ってベビーベッドに下ろすと、カッと目を見開いてギャン泣き。またリビングで寝かしつけのやり直し。

 自分の食事は台所で立ったままコンビニおにぎりにかぶりつき、お茶はコップに注ぐなんて普通のことが全くできず、冷蔵庫から出して直飲みできる500mlペットボトルを箱買いした。トイレはドアの前にバウンサーを置いて号泣する輝夫に見張られたまま済まし、寝るときは抱っこしたまま、ソファに背中を預けて気絶した。そんなつかの間の休息時間も、十分で輝夫が起きれば自分も起きざるをえず、脳みそに疲労がたまっていくのだ。

 退院してすぐは、ベビーベッドに寝かせることに成功すれば、お菓子を食べながら本を読むくらいの自分の時間はあったが、いまはそんな時間があるならとりあえず寝たい、とにかく寝たい、ベッドに背中を預けてみたい、ただそれだけだった。

 いま思えば、長男のあれは、育児と言えたのだろうか。輝夫のこれが本当の育児なら、長男は「ちょっとウサギを飼ってみた」程度のものだったのだ。甘かった……。


 それでも、辛くはなかった。身体的には休めないしあり得ないくらい寝不足だし、脳みそから脊髄から悲鳴をあげていた。でも、こうして常に腕のなかに輝夫がいて、世話ができていることが、疑う余地もなく幸せなことだと痛感もしていた。

 痛い思いをしてやっと産んだのに、赤ちゃんがそばにいない。張り続けるおっぱいを吸ってくれる赤ちゃんがいない。眠って目が覚めて、赤ちゃんが横にいないことを毎朝理解しなければならないことに比べたら、育児ができている毎日が奇跡で、感謝すべきことなのは疑いようもない事実だった。

 あの肉塊の日々があったからこそ、私は輝夫の育児を続けられた。そこに、ウサギの存在を感じられないほど、輝夫でいっぱいの毎日だった。輝夫が九歳になり、あの頃のことを思い出そうとしても、輝夫以外のことをほとんど思い出せない。九年前、ウサギはどうやって生きていたのだろうか。


 輝夫の二度目の入院は、インフルエンザだった。妊娠中の母親が予防接種をすれば、抗体が胎児にも効くらしいが、切迫早産の傾向があった私は怖くて打たなかった。それが原因で早産するという根拠はないが、何かがあったときに、後悔だけはしたくなかった。しかし、産後すぐに採血などで注射ばかりだった輝夫に、予防接種をさせるのも嫌でしなかったのだ。

 予防接種での予防ができなかったため、テーブルにはアルコールスプレーを常設し、除菌のウェットティッシュを持ち歩き、トイレのあとや料理中はもちろん、家電を触った、物置に入った、ドアノブに触れた、咳をした、あらゆる行動のあとに手を洗い、アルコールを拭きかけた手は荒れに荒れた。それでも、インフルエンザは防げなかった。

 マンション内の広場に遊びに行った長男が、高熱を出し寝込んだ数日後のことだった。輝夫はようやく二ヶ月になったところだった。


 風邪だと思って寝かせていた長男を寝室に隔離し、私と輝夫はリビングに布団を敷いて寝ていた。夫は長男がかわいそうだと言って、長男の横で寝ていたが、私は輝夫に風邪がうつらないようにするほうが先決だと思っていたので、そうした。高熱にうなされている長男は惨めでかわいそうに見えたが、免疫が弱く自己防衛もできない輝夫のほうがかわいそうだった。でも、ただの風邪だと思っていたのがまずかった。私の防衛が甘かったのだろう、輝夫が熱を出してしまった。

 長男が風邪を引いて二日目の深夜だった。慌てて輝夫を救急病院に連れて行った。夫はついでにと、まだ熱の下がらない長男も一緒に連れてきた。私は正直、輝夫を長男と同じタクシーに乗せることすら嫌だったが、輝夫の熱にうろたえる私より、下がらない高熱にぐったりしている長男を心配する夫の行動のほうが早く、止められなかった。

 検査の結果、二人ともインフルエンザAが陽性だった。率直に最悪だと思った。帰ってきたらうがい、手洗いとあんなに言い聞かせたのに、インフルエンザに罹るなんてあり得ない。寝室から出さず、空気清浄機をマックスにして三台の加湿器もフル稼働だったのに、長男が咳を我慢しないからだ。マスクを強要し素直に一日中付けていたにも関わらず、輝夫にインフルエンザをうつしたのは長男がどこかで気を抜いたからだ。

 腹が立って仕方がなかった。長男が、輝夫を脅かすばい菌にしか見えなくなっていた。


 さらに長男は栄養失調を併発していた。夫は料理ができないのだから当然だ。脂っこいコンビニ弁当なんてもってのほか、おにぎりだって食欲がない病気の子どもには受け付けにくい固形物だ。さらに、夫が長男に摂らせていた水分はただの水だったのだろう。ポカリでも飲ませていれば少しは違うのに、と思ったが言わなかった。私は輝夫の世話で精一杯アピールが忙しかったからだ。ウィルスが充満しているであろう寝室に入るなんてもってのほか。私の服にウィルスが付着したら、輝夫にうつってしまう。長男を隔離してから、食事、着替え、排泄、風呂、寝かしつけなど、世話は夫にすべて任せていたのだから、私に責任はない。そう言って責めると、夫は疲れた顔をして「そうだよね」と言って笑った。


 輝夫の入院が決まり、私は慌てて家に荷物を取りに一人で帰った。だるそうな長男と行動していては遅くなるからだ。

 乳児の入院には保護者が付き添い入院することになっている。私は輝夫のおむつと着替え、おしりふき、タオルにおもちゃを鞄に入れ、自分の最低限の着替えと洗面用具を持って病院にとんぼ返りした。

 戻ると輝夫は大部屋の窓際のベッドに寝かされていた。転落防止用の高い柵が上げられたベッドだった。天井のカーテンレールから吊り下げられたピンク色の布地でベッドの周囲を覆い、私はようやく安心することができた。


 また入院か……と落胆していたが、二度目の入院生活は、ことのほか快適だった。私たちに許された設備は、シングルベッドと入院棚、ロッカーと衣装ケースと一脚のパイプ椅子、可動式のデスクライトとコンセントひとつだけだったが、十分だった。

 私はベッドの上で、ただ輝夫を見ていればいいのだ。輝夫のそばで心配そうにしているだけで「いいお母さん」でいられた。輝夫の様子がおかしければナースコールひとつで診察してもらえる。目に見えないウィルスがどこにいるのかわからないあの家で、長男の一挙手一投足に胃をきしませながら生活していた昨日までとは全く違う、まずは安心感があった。そして、煩わしい家事から解放されて、ただ輝夫を見ていればいいのだ。


 熱で苦しそうな輝夫には悪いが、輝夫を産んで初めて、震えるような幸せを感じた私は、思えば少し狂っていたのかもしれない。夫が私を見る目を思い出す。「おまえはそれでも母親なのか?」と問いただしたいのに、何も言わないあの人の目。長男にそっくりだ。


 まだ生後二ヶ月の乳児なので、当然病院食は出ず、院内のコンビニで自分の分の食事のみを買う。たまに本や雑誌を買って、一日の半分以上を眠って過ごす輝夫の横で読んだりした。あとは自分のシャワーと、コインランドリーで洗濯物をまわすことで一日が終わる。日に三度、輝夫の体温を測り、うんちとおしっこの回数を数え、おっぱいをあげてオムツを替えて、輝夫の顔をなでるだけの簡単なお仕事は、熱が下がってから五日で終了した。


 家に帰ってから驚いたのは、夫が料理をするようになっていたことだった。もとから家事はできた夫だったが、料理だけはかたくなにしようとしなかったのに、冷蔵庫のなかにはタッパに詰められたひじきや豆の煮物、冷凍庫には下処理されたほうれん草やブロッコリーなどの野菜、他にもヨーグルトやプリンなどが揃えられていた。長男は顔色も戻り、よく見れば少し太ったかもしれない。髪も頬もつやつやとしていた。そして笑顔だった。数日前には全快したであろう長男が遊んで散らかったリビング以外、きれいに片付けられ、私は驚いた。「やればできるじゃない」と夫を褒めたら、夫はあからさまに顔を歪めて「おまえはやらないんだろうな」と言った。仏のようだと思っていた夫の、初めて見る顔だった。その日から夫は、ほとんど家に帰らなくなった。


 大事には至らなかったものの、このインフルエンザ事件から、私にとって長男は輝夫の健康を脅かす敵、ばい菌の塊となった。

 危ないこともせず、俗に言うイヤイヤ期もなく、言われたことは素直に従う「いい子」だが、私は嫌悪感しか抱かなかった。輝夫を産んでから、いや、切迫早産で入院したころから、泣いたような笑顔を私に向けるようになった。常に、私の顔色を見ているような、怯えた顔がうっとうしくて嫌だった。持って生まれた聡明さから、先回りをして私の負担を減らそうとがんばっている姿が面倒で嫌だった。


 輝夫が産まれてから初めての春を迎え、長男は幼稚園に入園した。マンション前から園バスで登園できる、お弁当の日が少ない幼稚園を選んだ。

 入園した日から、私の心の片隅にあった、長男を疎む穢れが消え、穏やかに輝夫と過ごす毎日に多幸感すらあった。

 幼稚園の行事は、自分のために、いい母親でいるために最低限参加した。それでも長男は、普段見ない私の姿に当然喜んだが、その喜んだ笑顔を見るのは本当に嫌だった。こんな顔をさせる自分が、「いい母親」ではないと言われているようで、最低の気分だった。

 勉強も運動も、何でも年齢以上に上手にこなす長男は、先生からもママ友(厳密にはまったく交流のない)からも、絶賛された。

「こんなにいい子に育てるなんて、いいママなんですね!」

 なんて言われてはぁありがとうございます、なんて応える。

「育児のコツってあるんですか?」

なんて聞かれもする。思わず満面の笑顔で

「子どもをばい菌扱いして無視して放置するんですよ、簡単でしょう?」

と言いたくなる。

 鬼の正体が母親なら、この世の鬼は自分だと判っている。


 輝夫はすくすくと成長した。主人と会わなくなり、この子の末っ子が確定した。再び妊娠することがなくなったことが幸いしたのだろう。妊娠中に酷いメンタルになる私に育児されなかったので、素直に甘えるわがままで可愛い息子になった。

 ただ、成長面に関して言えば、長男に比べると全てが遅かった。長男が年少前に習得していた、ひらがなカタカナの読み書きやかけ算の暗記は、同じ歳になっても、全く出来なかった。幼稚園での長男を見ていたので、長男が異常であることはわかっていた。輝夫の成長速度は標準で、心配はしていなかった。むしろ、会話が出来るようになってからの言葉のたどたどしさが愛しく、お風呂で数える十までのカウントで、毎日「ひち」が飛んでしまう輝夫が可愛くて仕方がなかった。このまま、赤ちゃんに近い輝夫ででいてくれればいいのに、成長しないでくれればいいのに、と願いさえした。 

 今の輝夫より幼い子どもと過ごすことは、自分の人生にはもうないのだと思うと、成長してしまう輝夫から離れがたく、長男は三年保育だったが、輝夫は二年保育で幼稚園に通わせた。妊娠する心配もなかったし、仕事もしていなかったので、就学までは一緒にいたかったくらいだった。長男は、いつの間にか小学生になっていた。買った覚えのない黒いランドセルを背負って、毎日同じ時間に通学していた。


 いつの頃からか、私は長男の衣類を洗濯していない。最低なのはわかっている、食事だって用意していないのだから、ただ問題はそこではない。長男は自分のことは自分でしているようだったが、何かの道着が物干し場に干されているとき、初めて長男が剣道を習っていることを知った。「いつからやっているのか」と長男に聞くと、幼稚園に入園したときに、主人が通わせ始めたようだった。興味がなかったが、物干し場が狭くなるので、おもしろくなかった。邪魔なんだけど、と言うと、ごめんなさいと言った。その後、物干し場に道着が吊されることはなかった。


 輝夫が小学生に進級した年の夏から、仕事を始めた。輝夫のいない午前中に、隣駅のスーパーのパートを週四で三時間。主人から生活費はもらっていたので、特にお金に困ることはなかったが、輝夫に習い事をさせてあげたかった。体操教室にスイミング、ピアノにサッカー、公文と算数塾。スーパーの店長からは、午後も入れないかと言われたが、輝夫が帰ってきてから宿題を見てやり、習い事に付き添うことで私の半日は埋まっていた。

 また、輝夫は身体が弱かったこともあり、学校で発熱や喘息がひどくなっては迎えに行き、小児科と耳鼻科をハシゴした。少しでも、輝夫を「普通の子」のレベルに近づけたかった。教養面でも、身体面でも。すぐそばで「優秀な子」の長男が問題無く育っているのを見たくなかった。しかし、私の期待と希望に反して、輝夫はかろうじて「ちょっと出来ない子」止まりだった。


 私に愛されたいと願い頑張る長男と、私の愛で頑張らされる輝夫の差は、縮まらなかった。そして私の愛の差は、広がるしかなかった。


 小学三年生になった輝夫は、体操教室の一年生が跳べる跳び箱六段が跳べるようになった。スイミングでは幼稚園年長が付ける腰の浮きが外せなかった。ピアノは初級のバイエルがボロボロになった。サッカーは技術のない、伸びない子は排除される空気だった。いくら車出しや運営を買って出ても、出来ない子とその母親は空回った。私が精神的に病み、付き添うことができなくなり、辞めるしかなかった。


 小学六年生になった長男は、何も変わらなかった。低学年の頃は、個人面談や家庭訪問の予定を把握しておらず、学校に呼び出されることが多かったが、高学年になってからはそれもなくなった。問題が無いのだ、長男には。私がすることは何もない。何もなさすぎて、関心が湧かない。長男の優秀さが輝夫を追い詰める。輝夫を想う私を追い詰める。


 私の気持ちは限界に来ていた。夫もママ友もいない私に、相談できる相手などいない。赤ちゃんのままで、成長が止まることを願った輝夫は、私の願いを叶えてくれた。成長は鈍いが、しかし輝夫はいつもニコニコしている。些細なことで怒ったり不機嫌になる私が、最後は抱き締めてくれることを知っているからだろうか。私がどんなに落ちても、輝夫の心からの笑顔を見ると、笑ってしまった。輝夫は不細工だ。でも、その不細工な笑顔がたまらなく、私を笑顔にし、救ってしまうのだ。そして私を責めることなく、解決策をくれるでもなく、破壊していくのだ。


 輝夫はいつまで純粋無垢なのか。私はいつまで頑張ればいいのか。答えもゴールも見えないトラックを、延々と周回させられている気分が終わらない。

 周りの人たちが笑っている。難なくコミュニケーションを取って、たわいのない会話をこなしている。サッカークラブのママたちが輝夫を見て笑っている。運営でお茶を入れている私を笑っている。長男の担任が私を見ようとしない。輝夫の担任が輝夫をいじめている。予防接種を打たなかった長男がまたインフルエンザに罹った。輝夫に感染した。春休みに入り、もう四月になろうかという寒い日だった。私はリビングの片隅、長男のスペースに小さく畳まれていた新品の中学校の制服を捨てた。誰かにもらったお古であろう学生鞄を捨てた。高熱にうなされ泣き叫く輝夫を抱きしめながら、同じ様に熱で朦朧とし、空っぽになったリビングの片隅を見つめている長男に「あなたが死んで!」と言った。私が最後に見た長男は、その後ろ姿だった。長男は、その夜家を出て行った。

 あの日から、私は長男の目を見ていない。あの日というのが、もういつかもわからない。




 その二年後、家から数千㎞離れた山奥で、長男は遺体として見つかった。私の腕も回らないような巨木に、首を吊って死んでいた。


 私が覚えている、長男への後悔。次男を妊娠して、切迫早産に怯えて伏せっていたあの日。

 あの時、たった一言「新しい折り紙が欲しい」と言ってくれたら、買ってあげたのに。甘えてくれたら、甘やかしたのに。甘やかしてあげられていたら、ずっと大好きだったのに。

 傲慢でプライドが高くて、自分が大切で自己中で、察してやることが負けだと思っていた私が、博樹を殺した。





 鬼の正体は、もうずっと判っている。

 私はいつ死ぬべきだったのか。

 誰かに「死ね」と言って欲しかった。

 あの日、「あなたが死んで」と言われるべきは、

 鬼は、己の子どもの温もりを知ってはいけなかった。



 最初から、間違っていたのだ。






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