第一章 ぶん殴ってからの、ラブレター
あなたが死んで
第一章 ラブレター
目の前に小さいおばあさんが立っているなぁと気付いた次の瞬間には、ほぼ「く」の字に曲がったその腰が思いっきり入った右ストレートでみぞおちに正拳突きをされていた。激痛と吐き気でその場にうずくまる。
「やぁ~~~っと逢えました……! 自分勝手なナルシス逃亡クソちんかす○○○野郎!!」
口のなかで何度も繰り返していたかのように、よどみなく罵詈雑言を吐き出すそのおばあさんの顔は、笑っていた。泣くほど笑っていた。
涙が出た。
「待たせてしまいましたね? ババもずっとこの時を待っていたんですよ。捜しました、とーんでもなく捜しました! 自殺したらこんな辺鄙なところに来ちゃうんですね。なーんにもないじゃないですか、ここは。こんなとこにずっといたんですか? あなたが死んでから、何年だったかしら……。 ババはほら、人生大往生した系ですから、畳の上で死ねてラッキィ池田玄孫産まれておっパッピー、九十六で老衰バンザイウルフルケイスケでしたよ。ああ……老衰だなんて自分で言っといて胸が痛いですけど、しょうがないのよ。おばあちゃんですもの。自他共に他に認めようがないほど、ババはババアになったんです。あなたが知ってるババはまだ……十二歳だったかしら。さすがに忘れようがないですね、ババが中学生になる春に失踪してしまったんですから。それからあなたの遺体が発見されたのは、二年後でした。だから、えー……、単純計算して、八十二年、八十二年もこんなクソみたいなとこにいたんですね。かわいそうに……。誰も逢いに来ないでしょう、こんなとこじゃ」
自分のことをババと呼ぶそのおばあさんは、一見したら上品な部類に入る老婆だった。亡くなった季節が夏だったのか、淡い水の色の、薄い絽の着物を軽やかに召していた。折れそうなその腰は、木製の杖をついてやっと立っているように見えた。口調は丁寧でゆっくりながらも、クソとかババアとか、ついて出てくる言葉はおばあさんの年齢におよそそぐわない、やんちゃで軽妙なものだったが、そこに彼女の、かつての性格が垣間見えるようで、心地悪くはなかった。しかし、そんな彼女に、覚えはなかった。
この何もない場所にただ立っている自分が、自分ですら、何者なのかすらわからないのだ、しかし彼女の言うことを解するなら、自分は八十二年前に自殺した人間なのだろう。確かに、自分の芯みたいなところに唯一ある、痛みや悲しみや苦しみをごった煮した澱みみたいなものは、自分が生前に得ていまも持っていて、永遠に消せないものなのかもしれない。
そんな自分を見て、おばあさんはちりめんのような眉間にさらに深いしわを書き込み、哀れむ顔をした。
「あーあーあ、なんちゅう目をしてるんですか。まぁいろいろありましたね、生きている間には。人生の終わりを自分で選んだってことは、あなたは幸せではなかったのかもしれません。でもね、そんなの、もういいじゃないですか。死んでるんだし! ということで、まずはババの話を聞いてちょうだいな。今日、この日の、この時のために、ババは八十二年もがんばってきたんですよ。えーと、これです、これ」
おばあさんは、着物のその薄い胸元から、一冊のノートを取り出した。薄いピンク色の、どこにでもあるキャンパスノート。しかし表紙はボロボロで、子どもの落書きのようなものや、キャラクターのシールが貼ってあったりと年期を感じた。おばあさんはそれを大事そうに、壊れ物のように扱う。ドッグイヤーが知らせる最後の方のページを開いて、フフフと笑った。なかには文字がびっしり詰まっていたが、ノートの最後の数ページは白紙のままだった。
じっと見つめていたであろう自分の視線に気付いた彼女は、「これは、私の閻魔帳ですよ」と、開いていた一冊閉じてを左頬に寄せて、自慢げにドヤ顔をした。
「このノートはね、私が十四の歳から、書き続けている貯金? 財産? のようなものなんです。別に、何よりも死ぬほど大切な宝物! ってわけではないんですけど、これはいつの頃からか、私の生きる糧でした。何が書いてあるかって? 気になりますか? フフフ、ここにはね、私が《幸せ》だと思ったことをメモしてあるんですよ。私の幸せが、このノートのページ数だけあるの。あなたに会えたら、私が生きてどれだけ幸せだったのかを、自慢しようと思って!」
幸せという言葉を何度も口にしながら、おばあさんは、微笑んではいた。
と、思う。
そして、その表情を見せず、こちらを見て、新しく笑った。
「……ここだけの話、実は、練習したんですよ! あなたに逢えたらまず、渾身の力でぶん殴ってやって、そのあと何を話そうかって、しゅみれーしょんしていたんです。なんと言っても、あなたより八十二年も生きた大先輩ですから、あなたに逢えたときに恥ずかしくないようにしたかったんです」
そう言って照れた。
「いつ練習したかって? 年老いたらだいたいのことは予想がつくんですよね、もうすぐ死ぬってことも、だいたいわかってしまったんですよ。死期がわかるなんて、猫又っていうの? もはや妖怪の域よね。九十六歳まで生きたと言っても、容姿はどうしても衰えてしまって、特に顔や頬のこけは酷かったと思います、我ながら。そんな顔ですから、ひ孫たちに妖怪ババアって言われても、すでに怒るどころか妖怪らしさをどう演出してやろうかって境地でした。ほら、今もこれ、関係ない話に脱線ババアですよ、妖怪脱線ババア」
脱線ババアはなかなか本題に入らない。練習の成果はあったのだろうか。
というこちらの思惑を妖怪レーダーで感じ取ったのか、はっとした顔をしておばあさんは続けた。
「失礼いたしました。初めて来た場所だし、私もいつまでここにいられるかわからないから、先に進めましょうね。最後のページはもちろん、私が死ぬ間際のことよ」
話しながら、首に提げていた、年季の入ったべっこうの老眼鏡をかけた。その厚いレンズの中からは、いたずらを仕掛けようとする子どものような眼。口元も心なしか、片方の口角が上がり、悪役のような顔になっている。
「子どもや孫、玄孫にかこまれ、畳の上で死んだ私の人生が、どんなに幸せだったか。あなたに自慢したいんです、言いたい幸せ、幸せ言いたい。昔のことなんて正直覚えてないから、一番新しい記憶、新鮮な死ぬ寸前のことから話したいところなんですけど、あなたが覚えてもいない見ず知らずのババアの死に際の話なんて一番興味ないことだと思いますから、あなたの知ってるかもしれない私のこと、一番古い記憶からいきましょうか」
八十二年の歴史を刻んだそのノートは、さすがに骨董品だ。ボロボロに崩れ落ちそうな表紙を繰り、最初のページを開く。
「十四歳ですよ。あなたに最後に会ったのが十二歳だったから、それから二年後を想像してくださいな。ぴっちぴちの中学二年生ですよ。エヴァンゲリオンに乗れます」
懐かしい思い出を手にして、おばあさんは少しうきうきして見えた。
「私ってば、書いたっきり読み返すことをしていないもんですから、何を書いたのかさっぱり覚えていないんですよ。だから、昔の私が何を書いたのか、ちょっと楽しみでね。さて、一番若いアタシの幸せは……」
興奮からか、言葉が少し速くなるおばあさんの頬が紅潮して。
《ご飯が美味しかった》
紅くなった頬がすんと元に戻った。
「……。んん、まぁ、うん。ご飯が美味しいのは、幸せですよね。このときの私、何を食べたんだったかしら? 次は、
《八宝菜にうずらの卵が二つ入ってた》
……うれしいわよね。うずら。わかります。何歳になってもうれしいわ。うずら。
《アイスを食べた》
…………」
おばあさんは不本意な顔をして少し沈黙をした。過去の自分の幸せの内容に納得がいかないようだ。
「……なんか、思っていたものと違うわ……。食べることばっかりね。子どもだったからかしら、アホの子みたいでお恥ずかしい。もっとこう、明らかにあなたが羨む、素晴らしい、あからさまな、幸せ! ……とまではいかなくても、まともなことをメモしていたはずだったんですけど。もう一世紀近く昔のことだから、すっかり忘れちゃって」
憮然とした表情で、先を読み進めるというより、聞かせる前に自己確認するように小声で呟く。
「《急いでいるとき、信号が青だった》
ええ、幸せって言うよりは、ラッキーなことよね。
《公園の花壇に花がたくさん咲いている春》
まぁ、明るい気持ちになるわね。春は」
過去の自分の幸せに自分でフォローをして、おばあさんは浅くため息をついた。まるで期待を失った低い声で、続きを読む。
「《テレビの音楽番組で、AKB48のセンターになって『Beginner』を歌っている三谷幸喜を観たとき》
……!?!?」
言ってみても死人とは言えお年寄りなので、呼吸が荒くなり気管に唾が入り込んでしまったような咳き込み方をしたおばあさんを見るのは胸が痛んだ。ないと思っていた右手で、激しく上下するおばあさんの背中をさすった。えほげえほんふひゅう~と、涙目になって「三谷幸喜って、げほ、嫌いじゃないけど、幸せ……? 私って幸せだったのかしら……」と、自分自身に問い始めた。
「まぁ、箸が転んでもおかしい年頃ってことかしら、ごほん。若い女子ならそういうこともあるってことね。我ながら幸せの基準が謎だわ」
と、目が泳いでひとりごちた。
幸せの定義が、今の自分のなかにはないので、彼女の言う「幸せの内容」に対して感想とか、どうこう思うことはなかった。ただ、ノートの中身に疑問を持ちながらも、楽しそうに報告してくれる彼女の言葉を聞くことが、義務だと思った。
だいぶ落ち着いて来たおばあさんの肩を撫でながら、気付いた。出会ってすぐ、ボディにブローを入れられたとき、肩からお尻のあたりまで、アルファベットのCを描くように丸く胎児のようだった彼女のシルエットが、首をかしげた小文字のfに変わっている。
呼吸の乱れがなくなり、「はぁ、」とセリフで呼吸をしたおばあさんは、次の言葉を紡いだ。
「ごめんなさい、続けるわね。十四歳のころのアタシのことはこれで終わり。なんか、自慢にならないどころか、自分の小ささを晒しただけの内容だったわね。急に三谷幸喜なんて言われても、ねぇ? いや、好きよ、その作品も人柄も、尊敬してる御仁だわ。じゃあ次は、中学生・高校生のころね」
彼女は一度ノートと目を閉じた。
「アタシは自分のやりたいことがなくてねぇ。部活もやらずに、図書委員会のない日はまっすぐ家に帰っていたわね。趣味と呼べるものもなかったから……家で何やってたかしら、アタシ。でも腐っても花の十代、幸せだらけのはずよ」
そう言って目を輝かせて開いたページには、
《咳をしたら知らない人がのど飴をくれた》
と一行だけ書かれていた。彼女の落胆っぷりは見ていられなかった。
いつの間にか出現していた、小さな椅子に腰掛けた彼女は、着物の袂からのど飴を取り出し、舐めている。【どんより】という効果音が聞こえてきそうな空気はいたたまれない。結局、その淡いピンク色のノートに書かれた彼女の中学生時代は、ほかには何もなかったのだ。何も持っていないぼくは、悲しそうな彼女に、のど飴をあげることができなかった。
「……本当にアタシ、昔のことは覚えてないのよね。ノートを見返すこともしてなかったし。死ぬ前にちょっとは考えるべきだったわ。はぁ、アンタに思いっきり自慢しようと思ってたのに……アタシの生きがいが……」
本当にしょんぼりしていた。のど飴を口の中で転がしてもごもごしながら何かを言い続けているからよく聞こえない。
飴を舐め終わったのか、下を向いていた顔がスッキリと正面を、自分の方を向いた。
「って言っててもしょうがないし! 次のノートいくわよ! こんだけノートがあるんだから、アンタがうらやましくて死んじゃうくらいのことが書いてあるはずよ! あ、もう死んでるか! バーカ! ったく、十四のアタシも、もうホントバカ!」
急に口調が変わり、面食らった。時折唐突に入る自分への罵倒は別にしても、落胆からの怒りという感情の変化だけではなかった。おばあさんの本来の性格というものはたぶん変わってはいない。しかし、その見た目は明らかに変わっていた。
そこにいたのは、おばあさんではなかった。
「でもね、ノートはまだあるわよ。……次は、もう高校生だわ。高校生ね、なんか、もはや過去の自分に期待ができないわよ。もう認めるわ。えーとなになに、
《テスト最終日》。
ね、ほらもうバカ。テストの最終日がうれしいって時点で物理的にバカ。もうこれは、大人になったから言えることね。何で学生のときに、もっと勉強をがんばらなかったのかしらって。勉強ができていれば、いえ、知識を得てさえいれば、もっと人生は華やかになっていたわ。アタシの子どもたちもそう。勉強するのなんて、テストの前の夜だけ。アタシに似てバカだから、夜遅くまで起きてて、勉強してたのかもすら怪しいわ。それでも、アタシが得られなかった、人生を生きる上で欲しかった知識は与えてあげたから、いまみんな、大人になって、自分のやりたいことをやっているわ。立派かどうかは、他人や親である私が判断することではないからね。うん、その教育はアタシを誉め称えてほしいわね。まぁそれはいいのよ、もう、脱線話長いババァの再来ね。そもそもアタシはね、勉強できるようなタマじゃなかったのよ……」
再び現れた妖怪は、自己紹介通り話が長かった。話が長い上に脈絡もなくいろいろなことを脱線しながら延々と一人で話し続けている。彼女がいま何の話をしているのかわからなくなっていたのもあるが、彼女の見た目を整理することで自分はいっぱいだった。
三谷幸喜の流れで咳き込んでから、おばあさんではなくなっていたおばあさんは、おばさんになっていた。背筋がある程度伸び、よく見れば絽の着物は洋服になっているではないか(なぜ気付かなかった)。ゆったりとしたスカートに、しゃんとしたとは言えない、洗いざらしのTシャツ、黒いスニーカー。思い切り悪く言えば骸骨のようだった顔や頬には肉が付き、小枝のようだった手や腕はむっちりとはいかないが、ふくよかで健康的な肢体に膨らんでいた。
丁寧でゆっくりとした、いかにも上品なおばあさんというような口調も、近所のおばちゃんの馴れ馴れしいべったりとした語り口調に変化していた。有り体に言えば、おばあさんは判りやすく若返っていた。
そして話はまだ終わっていなかった。
「だからアタシは言ったの、そんなだらしない格好して行くならもう行かなくていい! 子どもがかわいそうでしょう! アタシが行くわ! って。それがあの子の作戦だったのよねぇ……で、何だっけ?」
すみません、聞いていませんでした。そこからまた、「おばちゃんっていやねぇ、話してる端から何の話をしてるのか忘れていくのよ、びっくりするわよ自分でも、ついこの間なんかね……」と始まったので、聞くしか無かった。
たっぷり話したのだろう、おばちゃんは疲れてきていた。ひと休憩入れたおばちゃんは、その手に持っていたノートを見て「あら、」とようやく気付いたようだった。
「そうだったそうだった、アタシの幸せ物語をしていたんだったじゃない! もう! すぐ忘れちゃうのもおばちゃんよねぇ、認めたくないけど、みんなそうなるのよ、歳取ったら! お隣の斉藤さんなんかね、」と脱線ババァは健在だったが、さすがに疲労もあってか、今度の脱線から戻るのは速かった。なぜなら、斉藤さんの話は三回目だったからだ。話すのも飽きたのだろう。
「ちょっと! アンタ止めなさいよ! 斉藤さんの話はもういいのよ、アタシの話をしなくちゃ! ノートよノート、どこまでいったっけ、高校生? え、まだ高校生!? ちょっと困るわ、忙しいのよアタシ、九十六歳の幸せ最終回までアンタに聞かせなきゃいけないんだから、まだ十代って! もー、じゃあいくわよ、
《好きな人と同じグループになった》
……あらっ」
あんなに喋り続けていたおばちゃんが、少し照れて黙った。でもすぐ喋り始めた。
「あったわあった、懐かしいわ~。高校生の修学旅行よ、集大成よね、学生時代の。名前何て言ったっけ、あーーーど忘れしちゃったわ。あんなに好きだったのにね、忘れちゃうものなのね。そうそう、アタシ、部活入ってないから友だちが多い方じゃなかったし、ましてや男子となんて……ねぇ? 恥ずかしくって、うまくしゃべれなかったの。いまじゃこんなに喋り続けてるのにねぇ、これの五百万分の一よ、高校時代の会話なんて。そうそう、彼、優しい人だったわ。彼も、あまり喋らない方だった。スポーツが得意なわけでも、勉強ができるわけでもなかった。別に私に話しかけたりもしないし、私も話しかけなかった。どこが好きだったのかって聞かれるとさっぱり覚えてないんだけど、でも、それくらいしか彼のことについて知らないわ。当然、付き合ったりもしなかった。そのまま卒業してしまったわ」
おばちゃんのトーンが少し落ちたように見えた。ゆっくりと大事に思い出しているのかもしれない。彼女が話す言葉よりも、楽しかったことだけではなかったのかもしれない。
「好きな人ができたのも、これが初めてだったのかしら、書いてあるってことは。初恋にしては、甘酸っぱい記憶も、修学旅行の思い出もほとんど無くて、なんだか寂しいわ……。あ、一つだけ思い出した。彼の表情。たまに見せる、顔が気になったの。一度だけ席が隣になって、少しだけ彼の横顔を見たわ。授業中、何かを諦めたかのように見えたその横顔が、好きだったんだわ」
大切なような、大切じゃないような、そんな思い出。そう言った彼女は、また、若返っていた。さっきまでの爆弾のような語りとは打って変わり、落ち着いた、でもおばあさんのときの丁寧さとはまた違う、少し距離を取るような話し方に変わっていた。そして、首筋のしわが消え、顔のシミが消え、背筋がまっすぐ伸びている。
服装も変化し、オーバーサイズのシンプルなサマーニットに、スキニージーンズを合わせ、高くはないがヒールのあるサンダル。三,四十代といったところだろうか。
本人もそのことに気付いていたのか、きゅっとした表情をして、少し考えこむ。そして笑顔で、僕に言った。
「もしかしたら、本当にタイムリミットがあるのかもしれない。このペースじゃとても終わらないから、ちゃんと、私があなたに伝えたかったことを伝えないとね」
微笑んでいた彼女は、僕を見て破顔した。僕も変化しているのかも知れない。
「私が、あなたに何か影響しているんだったら、嬉しいことね。……もう、まだ十代じゃない」
まだ二冊目のノートをめくり、彼女の幸せは続いた。
「これは、高校生かしら、短大時代かしら。
《両親と花見をした》。
ああ、そんなこともあったわね。覚えてる。高校を卒業して、家を出るときに、近くの公園で花見をしたの。本当に簡単な花見、それらしい弁当もなくて、コンビニのおにぎりとペットボトルのお茶だったかな? ただそれだけを食べて飲んで、ベンチに座って、咲いている桜を見た。その年は暖かい日が多くて、三月だったけどもう散り始めている、花びらの嵐の中にいるようだった。右側に母が、左側に父がいて、別に親子仲が特別いいわけじゃなかったから、会話が盛りあがったわけじゃないけど。幸せだった。まぁ、両親共にその後五十年くらい生きたし、全然今生の別れとかじゃないから、そんなにセンチメンタルになることじゃなかったけどね」
記憶に残っているのだろう、丁寧に綴る説明に、情景が浮かぶようだった。そして、同じ人間が、こんなに落ち着いて話せるものだろうかと驚く。
「いままでの《幸せ》で、なんとなく検討がついているかもしれないけど、これらのノートに書いてあるものは、本当にささやかなのね。
《パックジュースを飲み終わって畳んだら、「たたんでくれてありがとう」って書いてあった》。
《空を見上げたら、鳥が気持ちよさそうに飛んでいた》。
きっと、誰にでもいつか起こる、そんな《幸せ》を私は毎日書いていたんだわ。」
愛おしそうに、ページを撫でて進めた。
「次は短大時代ね。親元を離れて独り暮らしをしていたから、貧乏だったの。
《カップラーメンにめっちゃネギのせた》
《好きな作家の新作を図書館で借りられた》
《古本をたくさん売ったら、一冊一冊は微々たるものだけど、まとまったお金になった》
もう、絵に描いたような苦学生エピソードよね、恥ずかしい。でもね、これはすごく覚えてるの。
《接客をしていたら、子どもに「お姉さんみたいな大人になりたい」と言われた》。
これは本当に、嬉しかったなぁ」
あまりにもうっとりとした瞳でノートを見つめるので、思わず僕もノートのその文字列を覗き込んだ。控えめで綺麗な、几帳面そうな文字が並んでいた。
「バイトでね、駅ナカのカフェで働いてたの。小学校中学年くらいかなぁ、お母さんと来た女の子が、カフェラテ作ったりデザートプレート運んだりしていた私のことじーっと見ててね、オーダーのオレンジジュースを出したときに言ってくれたの。そのとき私はショートヘアで、スカートが似合わなかったから、黒いズボンを履いて男子用のカフェエプロンを着けていたのね。若くて貧乏だったから、メイクもほぼしていなくて。仕事中、特別にすごいことをしていたわけじゃないから、もしかしたら、私の格好が単純にその子の趣味に合っただけなのかも知れないんだけど。そうだとしても、とーっても嬉しかった。誰かに自分の存在を認めてもらえて、なりたいって言ってもらえるって、すごいなって。そして、その女の子が、ふと思った気持ちを言葉にするって恥ずかしかっただろうに、言ってくれたこと自体が嬉しかったの」
彼女はどうして、そのことを僕に話してくれるんだろう。そんなに大切なことを、忘れないようにノートにまで記して。
僕は苦しくなってきた。
「次は、OL時代かな。
《美容院帰り》
《休み前、目覚まし時計をかけずに寝る》
《誕生日、奮発して鉄板焼きを食べに行った!》
あは、やっぱり食べることが入ってる! 食べるの、大好きなんだよね。太らないように気をつけてたなぁ。このあと結婚して仕事を辞めて、子どもができるまで家事ばっかり、というか、ご飯ばっかり作ってたから、食欲をセーブするのが大変だったのよ。
《半日煮込んだ豚の角煮がほろほろになった》
《餃子が上手に包めた》
《ベランダで育てている大葉が死ぬほど 出来た》
《初挑戦した牛すじカレーが当りだった》
《ささっと作ったおつまみで、旦那が美味しそうにビールを飲んだ》
美味しいのって、幸せだよね……。でも、家事もちゃんとやってましたよ?
《スーパーの割引商品を買って、帰ってからレシートを計算するとき》
うーん、苦学生の名残が……」
彼女は苦笑いをした。やっぱり、喋るたびに少しずつ若くなっているように見えるが、妙齢の女性の年齢は僕にはもうわからない。
「それでね、慎ましくもそうやって食い道楽やってたら、子どもが産まれたのよ。大変だった……とにかく、大変だったことしか覚えてないわ。でもね、この時期のノートが、たぶん一番濃いのよ! 子どもがいることは幸せ、それは一般論なんだけど、《子どもの存在が幸せ》なんて言えるのは、自分で気付こうと思わなきゃ気付けないのよ、それくらい、とくに乳児期の育児って大変だと思う。自分のことを考える時間がないんだもの、さらにその奥深くの《自分の幸せ》なんてものに割く時間がないのよね……。だから、濃いの、このノートは」
そう言って掲げて見せてくれたノートの表紙をよく見ると、ボロボロというより、ぐちゃぐちゃだった。いろいろな色、クレヨン? で描かれた、なにものでもないラクガキ、貼っては剥がされたシールの跡、破れた裏表紙とセロハンテープでの修正の痕跡。彼女の育児期が壮絶だったことを物語っている。
「そうなの、まずは《幸せ》より《時間》の確保なのよ!
《乳児の昼寝中》
もう、この字面だけで幸せ! 起きるまで五分も保たないことなんてザラだけど、この解放された感は、ノートには書ききれないわ! 子どもが手から離れて家事ができる、ご飯が食べられる、トイレに行ける、手を洗える! すべてが幸せなのよね。大げさかしら? うちの子は、みんなおっぱい星人だったから、何時間もかけて寝かしつけても、その場から私が離れたら、すぐ起きるのよ。だからこの時間の貴重さはもう力説せずにはいられないわ……!」
そんなに? というツッコミを入れづらい勢いでまくしたてる。
「買い物すら満足にできないんだから。
《冷蔵庫にプリンがある》
《コンビニに自分のおやつを買いに行く》
《旦那がふ菓子を買ってきてくれて、夜中に一気食いした》
《旦那がいない夜中におやつを食べながらドラマを一気に消化》
もう、笑うしかないけど、食べることって幸せなのよ。私にとっては。まぁ、産後はしっかり太ったけどね!」
言いながら、お腹の肉をつまむ。シャツワンピースの上からはわからないが、確かに、そこに素敵なお肉は育っていたようだ。
「でもね、こんな食いしん坊でも、存在が幸せだと感じることもあったのよ! 自分の名誉のために言いますけど。
《乳児と昼寝前のごろごろ、からの一緒に昼寝》
《旦那と息子が同じ体勢で寝ていた》
《我が子が、よそのお子さんに優しくしていた》」
嬉しそうにそこまで読み上げて、声は影を落とす。彼女は出す言葉を迷っていた。
「正直ね、私、子どもが欲しいと思っていなかった。あなたに言うことじゃないけど、あなたが死んだからね。あなたのお母さんを見ていたから。知ってる? わけないよね。テルオ、あなたの弟、結局独り立ちできなかったわ。あなたに与えなかった愛情を、テルオに与えていたんだと思っていたけど、それもしていなかったのかもしれない。詳しいことは知らない。あなたのお母さんの気持ちは、これっぽっちもわからない」
開いたノートを膝に乗せたまま、そこに並ぶ文字列に触れながら、彼女は呟くように続けた。
「怖かった。結婚するのも、本当は怖かった。子どもができて、あなたの母親みたいになるんじゃないかって、怖かった。でも、結果的にだけど、私はならなくて済んだみたい。三人の子に恵まれたけど、どの子もとっても可愛かった。愛しくて愛しくて仕方が無かった。充分にお金をかけて、様々な教養に触れさせてあげることはできなかったかもしれない。でも、こどもたちはいま生きているし、人並みの人生を送っている。《幸せ》かはわからないけどね」
「僕」を見た。
「……続きを読むわね。
《家事を休憩していたら、年中の娘が膝枕をしてくれた》
《家事がやっと終わったら、兄妹が仲良く遊んでいて、コーヒーを一杯飲めた》
《寝かしつけをしていたらいつの間にか先に眠ってしまっていたが、ふと目覚めると、子どもたちが自分にぴったりくっついて寝息を立てていた》」
彼女は泣いていた。
「《入院していた子どもが退院した》
《子ども同士で旅行に行っていた》
《子どもたちが、夢を見つけて、がんばっている》」
あたりは夕闇のように朱く、暗くなりかけていた。
彼女は小さくなり、ランドセルを背負い、膝を抱えて泣いている。
僕は、彼女の前にうずくまり、おさげをした小さな頭を撫でていた。
僕は彼女を思い出している。隣の家の、小さな女の子。
彼女の両親は共働きだった。家に誰もいなくて、寂しいと、僕の家の前で泣いているのだ。
僕も家には居づらくて、彼女と、マンションの廊下にいたりした。
たまに、彼女の両親が置いて行ってくれたお菓子を分けてもらったりした。
僕の母は、家に居なかったり、居たとしても、僕を見ることはなかった。
用意されているご飯は一人分。僕の物か、弟の物かわからなかったけど、毎日弟と二人で分けて食べた。
僕のパジャマはなかった。
中学に上がる前の春休み、僕の制服と通学鞄が生ゴミ置き場に投げ捨てられた夜、僕は家を出た。
そのとき彼女は、四月に六年生になる頃だっただろう。
僕が会った、最後の少女。
「……お兄ちゃん」
まだ、かろうじて、痛みを知っていることは、少女の涙が証明していた。でも、たぶんここまでなのだろう。僕が会える彼女は、僕が最後に見た少女までなのだ。そして彼女もそれを知っている。
泣きながら、諦めた笑顔で少女は僕を見つめた。
「これが最後かな。私の《幸せ》、全部伝えられなかったね。おしゃべりしすぎちゃったけど、あなたの人となりをさらけ出しなさいって、そしてきっとここまでだよって、最初から神様が決めていたんだと思う。一番伝えたいことは、一番伝えたい姿で言いなさいって。お兄ちゃん」
ぼろぼろと目から落ちる涙をぬぐって、少女は言った。
「お兄ちゃん、ひとりぼっちだった私と一緒にいてくれてありがとう。いつも泣いていた私に優しくしてくれてありがとう。勉強を教えてくれてありがとう。ずっと一緒にいたかった。一緒に中学校に行って、高校生になって、大人になったお兄ちゃんに会いたかった。頭が良くて剣道が強くて、何でもできたお兄ちゃんは、私のヒーローだったよ。なんで死んじゃったの、なんで自殺しちゃったの? ねぇ、お兄ちゃん!」
叫び声に比例して、少女が消えていく。隣の家に住む、素直で可愛くて明るくて、でもさみしがりやの、互いにひとりぼっちだった、僕の友だち。
自殺した僕に会いに来て、叱ってくれた、大切な友だち。
「お兄ちゃん! 教えて! なんで死んじゃったの? お兄ちゃん!」
もう、最後だ。僕には、泣く権利はない。彼女が欲しがった、たったひとつのものすらあげられない。
なぜ、自殺したのか。
死んだ僕にはわからなかった。
「……ううん、いいや、やっぱり。ごめんね。……お兄ちゃん」
僕の顔を見た少女が、はにかんだ。
「あのね」
「ありがとう」
そう言うのを確認して、少女は闇に溶けた。
僕は、いつの間にか、僕に実体があることに気付いた。
死後、記憶もなく、顔も身体も持っていなかった僕は、何もない場所にただ立っていた。
死ぬ前、僕は地獄に行くんだと思っていた。その方がよかったのかもしれない。彼女が言うには、八十二年もの間。僕は何もせずただ立ち続けていた。ただひとつだけ生前から持っていた澱みを抱えて、ずっと変わらぬ解決できぬ暗い悲しい気持ちを持ち続けたまま、八十二年。立っていた僕を、彼女は見つけてくれた。
あたりは暗い。彼女に殴られてから、僕のまわりは白熱灯のように白く輝いていた。彼女がいなくなって、光も消えた。でも、彼女がいた場所だけがまだ輝いていた。そこにノートがある。
ノートを手に取る。僕にまだ手があることに驚きながらも、ノートを開いた。彼女の子どもたちが巣立ったあとの、《幸せ》が書かれていた。
《猛暑の年、我慢していた冷房をつけた》
《野良猫が近づいて来てくれた》
《孫たちのために、アップルパイを焼いた》
《焼きたてのアップルパイに、ハーゲンダッツのバニラを乗せた》
《実家の軒下にツバメの巣ができて、小さなツバメが巣立っていった》
《一時帰宅していた父と、母と、テレビを観ながらお昼ご飯を食べた》
《母と、お花見をした》
《旦那を看取った》
《自宅に帰ってきて、うつらうつらしているとき、誰かわからないけど、頭を撫でてくれた》
彼女の几帳面な筆跡が残る最後のページはその、一番新しい《幸せ》で終わっていた。
彼女の人生が詰まったノートを閉じかけた瞬間、裏表紙を返したページに、幼い古い文字があることに気付いた。
《あなたが死んで》
《あなたが死んでも、幸せでした》
《あなたにもきっと、同じような幸せがあったことを祈っています》
死んでも彼女が届けてくれたラブレターは、そこで終わっていた。