02.長い旅路のはじまり
ずっと走っていた。
それはもう、ただがむしゃらに。振り返ったらまずいことはなんとなく察していた。だって一瞬だけ『彼女』が視界に映った時、分かってしまった。本能が、警鐘を鳴らしたのだ。
いつものアレだって。
そして数分間鬼ごっこを続けていた頃だろうか。うまく路地を利用していたはずが逆に追い詰められていたことに気がついたのは。
終わったな、と歯を食いしばったのと『彼女』が後ろにたどり着いたのはほぼ同時だった。
もう観念して振り返った時、
「────」
思わず息を呑んだ。
自分を追っていたものの正体を知って、目が離せなくなったのだ。
あ、と口を開く前に頭に激痛が駆け巡って世界が暗転する。
「……というのが、事の顛末です」
青年はベッドに腰かけながら話を終える。両手の中のマグカップは既に当初の熱を失っていた。
ズキズキと鈍く痛む頭にはご丁寧に包帯が巻かれている。
「なるほどなぁ。怪異が追いかけてきてると思って逃げた、と」
足を組んで木椅子に座っている男は、青年の話に紫紺の瞳を細め、うんうんと頷く。手元には食べ終えたスコーンの皿があり、先ほどおかわりを所望したところだ。
「お前、後ろを確認しないで走ってたが、何故怪異だと思ったんだ
?」
フォークの先を向けられて青年は少しだけ萎縮する。
なんて説明するべきなのか分からなく、顎に手をやり一分ほどの沈黙を作った。
「怪異……そういう、特殊なものに好かれやすい体質というか……、簡単に言うと誘引体質なんです、私。昔から憑かれやすくて、それこそさっきみたく追いかけられることもなかったわけじゃないので」
「今回もそうだ、と」
「はい。…勘違いしてしまったわけで」
決して自分に非などないのだが、なんとなく申し訳なくて頭を垂れた。目の前で堂々たる姿で座っている男の圧がすごいのだ。
コンコン、と部屋の扉がノックされ、木造りの扉はギィと軋みながら開けられる。同時に姿を現すのは金色の髪が綺麗な女の子だった。
「おかわりもってきたよ、ローラン」
「おう。さんきゅ」
5個ほど積まれたスコーンを皿ごと渡し、代わりにカラになった皿を受け取ると少女は男の傍らに直立した。
軍服とゴシックドレスを足して割ったようなデザインの衣装を全身に折り目正しく纏い、対比するような金色の髪が美しい少女は恭しくお辞儀をする。
「はじめまして。わたしはアイラ。こっちはローランス。さっきは手加減できなくてごめんなさい」
「はは…私なら大丈夫」
もはや毒々しさすら覚えるほどの深紅の瞳を青年の頭の包帯に向け、アイラと名乗った少女は申し訳なさそうに眉を下げた。
しかし、これであの強烈すぎる回し蹴りがこの見目麗しい少女が放ったものだと肯定されてしまった。
ローランスと紹介された男が八重歯を見せて笑う。交換されたはずの皿にはスコーンが一個しか残っていない。
「首が飛ばなくて良かったな!」
「あれそんなに危ないんですか!?」
「まぁな。さて、改めて自己紹介をさせてもらおうか。俺はローランス。秘密結社《Heavens》の創始者であり、ヘヴンズマンだ。こっちのアイラも同じくヘヴンズマンで俺の助手兼ボディガード」
顔面を蒼白にする青年を無視してローランスは挨拶をする。再びご紹介に預かったアイラが会釈するのを横目に、ローランスは話を続けた。
「《Heavens》は分かるか?」
「いえ……都市伝説みたいなものなのだと耳にしたことはありますが、何をしているかまでは」
「秘密裏に動いているからな、噂程度にしかならんのは確かだ。だが、俺たちは実在する」
ローランスは椅子から立ち上がると身振り手振り話しはじめた。
「俺たちは彷徨うモノ…つまり、ワンダラーと呼ばれるヤツらを在るべき場所に還す仕事をしている。ワンダラーは人種は関係無しに、死して尚も魂の死を遂げられずにいる者達の事だ。アイラにはワンダラーを在るべきところへと還す力がある。任務を受け、奴らの場所を特定するのが俺の仕事で、実際に奴らの対処をするのがアイラの仕事だ。ずっと二人でやってきた」
話が長くなると悟ったアイラがローランスの横を離れ、ベッドに座る青年の隣に腰掛けた。近くで見るとあまりに整いすぎてる顔立ちに思わずどきりとさせられる。
「しかし、ここのところワンダラーが増えていてな、二人ではどうも手が回らない。……そこで、だ!」
「……」
目を輝かせたローランスが、青年の両手を掴む。わりと察しはいい方だと自覚している青年は、まさかを考えて言葉を失った。
秘密結社と言っているのに、こんなに業務内容を詳しく話す理由は一つしか見つからないからだ。
「お前を《Heavens》に迎えたい!」
見事に的中した予想に、ため息をつきそうになるのを飲み込んだ。
真っ直ぐすぎる目を向けられてあさっての方向を見てしまうが、なんとなくアイラの方を見てしまったことで退路は絶たれる。
視線を向けられたアイラはきょとんと首を傾げると、大きく開かれた深紅の瞳を不思議そうに揺らした。表情が変わらないから何を思っているのかは分からないけれど。
「ははは!そいつ、表情が変わらないから分かりづらいだろ。だが、ずっとお前の事を心配してたんだぞ?目が覚めなかったらどつしようって」
「……!」
急に矛先が自分へと変わったことにアイラは小さく身じろぎした。横目でローランスを睨むと、青年の方へと向き直る。
「……はじめは、ローランが怪異の気配を見つけたから追いかけた。でも、途中からあなたの体質のことに気がついた。その体質、きっと大変だと思う。《Heavens》ならわたしもいるし、あなたのこと守ってあげられる。だから、あなたを《Heavens》に誘おうって、わたしがローランに提案したの」
表情の乏しい顔を、それでもわかりやすいくらいには心配げに自分の心情を語った。アイラの優しすぎる気遣いに、青年は胸がキュッと締め付けられる感覚に襲われる。彼女の優しさを無下にすることなど許されるのだろうか。
ふと、ローランスを見やると、薄い唇をこれでもかというくらい吊り上げて、なんともまぁ憎たらしい顔で笑っているのだ。
なんだかおかしくなって青年は口元を緩ませた。知らないうちに肩の力まで抜けているのだから不思議だ。
「わかりました。……ローランスの策略にまんまとハマったようで腹立たしくはありますが、彼女の気持ちを捨ておく訳にはいきませんからね」
青年はこれから戦場を共にする仲間を交互に見た。
厭らしい顔ばかりする食えなそうな男と、感情を読み取りづらい心優しい少女。これからの気苦労がどれほどのものなのか、計り知れないけれど。
「私の名前はルクス。これからよろしくお願いします、アイラ。…ローランス」




