第二話:魔法のセカイ
「美乃花、美乃花ったら!」
「……ふぃ?」
類の声が聞こえる。
……そうだ、ここは学校。今は昼休みだ。
「大丈夫? さっきからぼーっとしてるけど」
「大丈夫だよ。ちょっと考えごとしてただけ」
私が考えていたのは、昨日のできごと。とても現実とは思えないことが起きたのだった。
漱輝という男から聞いた話。どれもこれもが信じ難かった。
「そうだったらいいんだけど」
その時、類の向こう側から紫苑のほにゃほにゃとした声がする。
「美乃花ぁ、お昼、一緒に食べよ〜」
「あ、うん」
「待って、美乃花。今日はオレも混ぜてよ」
紫苑たちの方に歩き出した私に、類がついてきた。よく女三人のお昼に割り込む勇気があるな、なんては思ってみるものの、そういえば昔からその容姿のせいで女子にかわいがられてたから、そういった勇気は必要ないのかも知れないという推測ができた。
「海原くん、いらっしゃ〜い」
紫苑は類が私の後ろをついてきたのを見て、四つめの椅子を調達する。
「今日もかわいいね、海原くん」
「……かっこいいって言われたほうが、よっぽど嬉しいんだけど」
紀沙はお弁当の包みを開きながら、類に向かって褒めたつもりの一言。
私は、黙って紫苑の隣に座る。コンビニ袋を開けて、中に入れておいたおにぎりを取り出す。今日のお昼はこれを二個だけ。男にウエストの細さで負けて、そのままにしておけるかっての。
「紫苑ちゃん、お昼ご飯それだけ? よくそれで足りるね」
「大田さん、オレより身長高いのに、体重差、結構ありそうだよね」
「わたし、そんなに身長高くないよ〜」
「……どうせオレは背が低いよ」
「いいじゃない、かわいいんだから」
「紀沙、それ、慰めになってない」
とりあえず反射的にツッコミだけは入れつつ、頭の中では昨日聞いた話が繰り返し再生されていた。
「二度は言わねえ。よく聞け」
「命令すんな」
「うっせえ」
所々に血痕の残る、今はもう使われなくなったアパートの一室。漱輝は凜にやられた傷に絆創膏を貼りながら、飽くまでも高圧的な態度で話をする。
「いいか? 『チカラ』ってのには、二種類あるんだ」
「纏炎と、シルフィス?」
「違えよ。それは具体例でしかねえ。……まあ、オレと凜の『チカラ』の種類が違うのは確かだが」
もったい振ってないで、早く教えてほしいんだけど。
「凜は武器、つまりあの剣を媒体として『チカラ』を使ってやがる。対してオレは、この刀を鞘に容れたまま闘うから、そういうわけにはいかねえ」
刀の柄を持って、抜こうとしてみる漱輝。当然ながら鎖が邪魔をして、刃が私の目に映ることはない。
「オレの場合は、体内に埋め込んだ微小の超常合金片『ファンタジア・チップ』、通称エフ・シーを媒体として『チカラ』を使ってる」
「エフ・シー? 体内って……どこに埋めてるの?」
「脳みそだ」
「…………それって大丈夫なの?」
「まあな」
大丈夫に思えないから訊いてるんですが。
「そんで、てめえは『エネルギー』って単語、学校で習ったよな?」
「確か、中学校で」
「じゃあ、どんな種類があるか、言ってみろ」
……命令すんな。とか言ってたら話が進まないから、我慢しないと、うん。
「確か全部で、『運動エネルギー』、『位置エネルギー』、『熱エネルギー』、『電気エネルギー』、『光エネルギー』、『音エネルギー』、『化学エネルギー』、だったかな?」
全部言い切ると、漱輝は少し満足そうに頷きながら言う。
「もっとある」
ウソだ! ちゃんと全部言ったはず!
「『静止エネルギー』や『ダークエネルギー』などもあるが、オレが言いてえのはそんなもんでもねえ」
……そんなの、習ってないし。そもそも、どっちもエネルギーっぽくないし。
「二十年前に新たに発見され、その後も民間には秘匿されたエネルギーだ。てめえが知ってるはずもないがな」
「なら訊くな!」
「うっせえ」
あ、ついカッとなってツッコミ入れちゃった。
一気に話して少し疲れたのか、漱輝はポケットからタバコを取り出して、口にくわえる。タバコの先端に左手人差し指の先を宛てて、小さくなにかを呟くと、ライターみたいな纏炎が点った。白い煙が上り始める。
「新たに見つかったエネルギー、それは『魔法エネルギー』だ」
「……は?」
「その『魔法エネルギー』と媒体を使って、オレや凜は『チカラ』、つまり魔法を使ってる。……分かりやすいだろ?」
「……うん、ちょっと理解した」
ちなみに今、ちょっと理解したのは、漱輝が説明した『チカラ』についてじゃない。漱輝の説明の下手さがどれだけのものか、だ。
「『魔法エネルギー』は媒体なしに他のエネルギーに置換されねえ。……見たところ、てめえは武器を持ってねえようだから、きっと頭にエフ・シーが埋め込んであるんだろう」
途端に、寒気。確かにまだ季節は冬からそう離れてないし、風は冷たいけど、そんなのが寒気の理由ではない。エフ・シーとか、魔法エネルギーとか、全く聴いた覚えがないのに、自分が使えていることが不気味でしかたないからだ。
「謎は半分、解けた。……で、身に覚えはねえのか?」
とりあえず、首を振って否定。
「まあ、細けえことは後で凜にでも訊いておけ。質問はもう受けつけねえぞ」
え、早っ。
しかも、別に私は凜と知り合いなわけじゃないから、後で訊くとか無理だし。
「んじゃな」
「ちょっ…………」
もう説明は面倒だ、とでも言わんばかりの速さで、部屋から出て行く漱輝。後を追いかけて無理やりにでも疑問を解消させてもらおうかと部屋を出ると、もう漱輝の姿はそこになかった。
凜といい漱輝といい、逃げ足が速すぎる。
「美乃花? お〜い、美乃花ぁ?」
「海原くん、下がって〜」
「え、あ、紫苑ちゃん!?」
「それ〜っ」
「ぐはっ!!」
突然のおでこの痛みに、私は現在に帰ってきた。類や紫苑、紀沙の声が聞こえる。
「み、美乃花、大丈夫!?」
「ちょっと、紫苑ちゃん!」
「見てよ、紀沙ぁ! 美乃花のおでこのきれ〜な赤い点!」
私のおでこに触れて心配する類、紫苑に向かって怒る紀沙、お腹を抱えて爆笑する紫苑。
……もしかして。
「紫苑、お前……」
怒りを堪えながら目線を下げると、制服のスカートの上にはガラス製の球があった。
「ビー玉は投げるもんじゃないって、何度言ったら分かるんだ!!」
「何回だろうね〜」
そもそも、なんでいつもビー玉を持ち歩いてるんだ、紫苑は!
「美乃花が、『心、ここにあらず』だからいけないんだよ〜?」
「……まあ、確かにそうだったかも知れないけど」
今も、頭の中には数々の疑問がグルグルと回ってる。でも、そうだ。私はこうして類たちのいる場所、日常に帰ってきているんだから、凜や漱輝のことを考えるのは後でいい。
最後に、もう一回だけ。疑問をまとめて、それで終わりにしよう。
──なんで、凜と漱輝は闘っていたのか。
──『チカラ』とはなんなのか。
この二つに対しての答えはもうすでに持ってる。凜はしっかりと敵討ちだと言っていたし、『チカラ』は『魔法エネルギー』を使って成り立っている『魔法』だと漱輝が教えてくれた。
問題なのは、この二つ。
──凜と漱輝は、何者なのか。
──私は、なんで『魔法』を使えたのか。
特に後者は、すぐにでも解決したい。でも、自分の頭の中で考えているだけじゃ、答えなんて分かるはずもない。つまり、考えたってしょうがない。なら考えるだけ無駄だ。
なんて、理屈でどうにかなるなら苦労はしない。実際のところは、『こうなんじゃないか』という悪い予想に捕われているだけだ。
「ほら、美乃花ちゃん。また難しい顔してるよ?」
唐突に聞こえた、紀沙の声。ああ、またやってしまっていたのか。
「ねえ、美乃花、なんか悩みでもあるの? オレでよかったら、話してくれよ」
「類……」
その言葉は、類にとっては特に意識して発したものではないのだろう。だけど私は、その言葉に、頭が暖かくなっていくのを感じた。
「ああ、もう、反則的にかわいいな、類は!」
その顔立ち、話し方、表情、性格の全てがまるで親鳥についていくヒヨコのようで、私は何度悩殺されそうになってしまったことか!
「ちょっと、苦しいよ、美乃花……っ」
ん、ってことは、私が親鳥? そういえば、幼稚園に通ってたころから、類はよく私の後ろを追いかけてきていたっけ。
「美乃花ちゃん、締まってる! 締まってるから!」
「……ほえ?」
「ギブ、キブ……」
気づけば、類が私の腕の中でもがいてる。あまりの愛おしさから抱き着いてしまった時に、ちょうど私の腕が気管を塞ぐぐらいの位置に当たっていたらしい。
「ごめん、類! 大丈夫?」
「あ、うん……」
「なんか、顔赤いけど……もしかして頸動脈も締めてた?」
「え、あ、いや、ここここれはその……っ!」
「…………?」
なんとなく、『ウブだねぇ〜』と言った紫苑の声が聞こえた気がして、私は紫苑に振り返ってみた。なぜか紫苑はあさっての方角を見ている。それに、紀沙の苦笑いも気になるところ。
二人の様子について言及しようとしたら、類が私より先に口を開いた。
「そうだ、美乃花。今日は一緒に帰らない?」
「いいけど。……あ、でも今日はちょっと本屋に寄りたいんだ」
「それなら、オレもついてくよ」
そう言って微笑む類。
……なんか、やっぱりヒヨコみたいでかわいいな。
「あれ? 美乃花、少年漫画じゃないんだ」
本屋で、私がさっさと漫画コーナーを通り抜けると、類がそう尋ねてきた。
「今日はちょっと、調べ物しに来ただけだから。……類はなんか立ち読みしてていいよ」
「ううん。美乃花が調べ物するなら、オレも手伝うよ」
いや、手伝ってくれるのはありがたいけど、類に教えていい物を調べるわけじゃない。第一、私は初めから友だちを『非日常』に巻き込むつもりは全くないんだ。
つまり、そう。私が調べたいのは漱輝から中途半端に教わった『魔法』のこと。どこまで普通の書籍に載ってるか分からないけど、もしかしたら全く分からないままかも知れないけど、少ない情報にでも今の私は縋りたい。
とりあえず今は、類になんて言うか考えないと。
「美乃花、どうしたの? やっぱりなんか悩みごとでも……」
「類、知ってる?」
「……な、なにを?」
「『プリンセス』の最新巻が発売されたこと」
「え、ウソっ!」
「ウソじゃない。……今回の表紙はヒョウがポーズ決めてたの、見たよ」
「美乃花、オレ、買ってくる!」
元気に駆けていく類。店の中で走るな!
とはいえ、本当は私も最新巻は買ってない。そういえば今日買おうと思ってたんだっけ。なんだか、すっかり忘れてた。
漫画にうつつをぬかしている場合じゃないのかも知れない。とりあえず、今がチャンスなんだ。さっさと資料が並んでるコーナーに行かなくちゃ。
『魔法』がどこ分類に当てはまるのか、全く見当がつかない。とりあえずこれはないだろうって棚は見ないで飛ばしていったら、『文化』のコーナーにたどり着いた。ふと、『正しい黒魔術』というタイトルが私の目線に留まる。この辺りだ、というのは分かった。……というか、正しくない黒魔術って危ないよな、うん。
今度の問題は、どの本を読んでみるか。どれがいいかなんて分からないので、上から順番に。
そこに載っていた情報は、少年漫画なんかによく出てくる『魔法』についても書いてあって、非常に興味深かった。私は一冊目から当たりを引いたようだ。中には、私や類の好きな漫画、『プリンセス』の作中にも出てくる『魔法』についてもあった。やたらと細かい解説が、私を夢中にさせる。ほんの脇役が使っていた『魔法』の存在なんて、私も覚えてなかった。
「あ、美乃花。こんなところにいたんだ。……なに、読んでるの?」
類が、突然に横から声をかけてきた。思わず、私は実際に足が床を離れているんじゃないかと思うくらい、跳び上がってしまった。
「ああ、これ、『プリンセス』のこと、載ってたから、つい」
「へえ……」
別にやましい物を見ていたわけでもないので、開いていたページをそのままにして類に渡した。
「ところで、調べ物ってのはもう終わったの?」
「ううん、まだ。また今度でいいや」
「そっか。……そういえばオレ、今日は塾の授業があったんだよ。もう少しで授業が始まっちゃうから、美乃花を手伝えないなあって」
そう言って、ちょっと残念そうにする類。
「その気持ちだけで十分だよ」
実際に、もう今日は帰ろうと思ってたところだし。
「じゃあオレ、もう行かなきゃ」
「うん、行ってらっしゃい」
またも店の中を駆けていく類。しかし、なにか思いついたみたいに急に立ち止まると、踵を返して帰ってきた。
「言い忘れてたけど、最近この辺りで不審者が頻発してるんだって」
「じゃあ、類、気をつけるんだよ」
「うん……じゃなくて! 気をつけるのは美乃花でしょ、女の子なんだから!」
言っておくけど、私よりよっぽど類の方がかわいい。不審者も、狙うなら私なんかじゃなくて類を狙うだろ。
「本当に、気をつけてよ」
もう一度踵を返しながら、類が私に告げる。
「大丈夫、なんのための『赤山流護身術』だと思ってるんだ。私も類も、二人分の身を守るくらいの力はあるって」
片手でガッツポーズ、ガッチリと強さをアピールしてみる。
(美乃花ももうちょっとオレを男として認めてくれたらなあ……)
去り際に、類がなにか呟いた気がしたけど、私にはよく聞こえなかった。聞き直そうにも、類は急ぎ足で塾へと向かって行ってしまった。
……さて、私も暗くならないうちに帰らないと。昨日のように面倒なことに巻き込まれるのは少しばかり遠慮させていただきたい。
私は、夕陽の沈み始めた景色に、飛び出していく。世界はこれから、焔色に染まっていく。
「女、こちらを向け」
突然、背後から襲ってきた、高圧的な口調。一瞬、漱輝の言葉かと思ったけど、それにしてはやたらと声が渋い。絶対、漱輝の声はこんなじゃなかった。
一応の警戒をしつつも、ゆっくりと振り返る。目に見えたのは、筋骨隆々という言葉がまさに似合いそうな、ゴツいがたいのおっさん。三十歳と少しぐらいだろうか。私と漱輝の身長差は確か十五センチくらいだったけど、このおっさんは更に十五センチくらい高い。
「なんか、用ですか?」
「何、たいした用ではない」
嫌な予感がする。男は持っていたなにかのケースを開いて、中にしまってあった『武器』を取り出した。やけに大きな斧だけど、こいつくらいの巨躯があれば楽に振るえそうだ。
「貴様に死んでほしいと思ってな」
真上から振り下ろされる斧。直感で、私は右に避けた。アスファルトに亀裂が走る。
「なに? 通り魔ってやつ?」
「吉田美乃花、だろう? 調べはついている」
「なっ……!?」
こいつ、私を無差別的に選んだわけじゃない……!?
「『チカラ』を目撃した者は消す。それが俺たちのやり方でな」
危ない! こいつ、そんじょそこらの不審者なんかよりよっぽど危ない!
「俺は、春原俊雄。凜様に仕える身。……せいぜい、俺を楽しませてくれ!」
★ ★ ★
「この『魔法の世界』に足を踏み入れたことを後悔しながら、大人しく、死ね」
美乃花に向かって、またも俊雄の斧が振り下ろされる。アスファルトの地面に、二つ目の亀裂が走った。美乃花には傷一つないが、アスファルトすら穿つその一撃、当たった時の威力は想像に難くない。
「誰が大人しく死ねるかっての!」
そう叫びつつも、美乃花は逃げはしない。なぜなら、逃げれば当然、俊雄は追ってくる。そのまま家に帰れば、母親が『目撃者』となってしまい、自分だけでなく母親まで標的にされてしまう可能性がある。それは、家に帰らなくても大差ない。『目撃者』が身内か否か、その程度の差だ。
場所を移動すれば、誰かを巻き込む確率は、格段と上がる。それだけは避けたかった。俊雄がこの場所を選んだのも、人気がないことが理由だろう。
しかし、逃げられないとなると、残る選択肢はあと二つ。
「死ぬか、闘うか……。どうせなら最後まであがいてやる!」
闘う術。美乃花は自身にそれが二種類備わっていることを知っている。
『赤山流護身術』と、未知なる『魔法』だ。
護身術は、習った通りに使えばいい。ただし、『魔法』の講習なんて習ったことがない。そもそも自分が使えることなど知らなかったわけだから、当たり前の話なのだが。
イメージしてみる。習ってもないことなのだから、難しいことをやれるはずがない。まずは、自分にもかつてできたことをするのだ。
「私にはできる……私にはできる…………」
うわごとのように呟きながら、自分を集中させる。イメージが鮮明になるにつれて、手の平に感触が生まれていった。
「貴様の魔法……それか」
手の中に生まれたのは、一本の鉄パイプ。この間は漱輝がその場にいたから、あの刀の鮮明なイメージが浮かんだが、今は参考になる武器は俊雄の持つ斧しかない。そんな武器を扱えるはずもないので、美乃花はひとまず一番身近な武器をイメージしたのだ。
俊雄は少しばかり驚愕の表情を見せる。昨日目覚めたばかりの魔法を、何故こんなに早く習得できるのか。集中力や想像力が、魔法を使う者にとって何より大事な物であることを、何故知っているのか。俊雄の頭の中は疑問で埋まっていく。
実際のところ、美乃花は魔法を習得したわけでも、魔法についての知識があったわけでもない。偶然と素質の良さが原因となっただけだ。
「武器を生成したところで、素人が闘いのプロに勝てるかぁっ!」
俊雄はまたも斧を振り下ろす。斧という武器はその重さから、防がれにくいという利点はあるものの、攻撃の手が単調になってしまうという欠点もある。俊雄の魔法があればその欠点を補うことなど容易なのだが、素人相手に魔法を使いたくないという彼のプライドがそれを許さない。
三度目。俊雄の攻撃は美乃花にかすりもしない。
斧にはもう一つ、欠点がある。それは攻撃のあとの隙がどうしてもできてしまうことだ。その隙は、ほんの一瞬とまではいかないが、それなりに短いものだ。しかしそのタイミングを外すことなく、美乃花は鋭い反撃を食らわせる。
脇下。どんなに特訓しても、人体の構造からしてそこは強化できない。上手く狙われた場合は、衝撃が肺に到達してしばらくは呼吸困難にまで陥ってしまうほどの急所だ。
『赤山流護身術』には、相手をすばやく行動不能にする技能も含まれる。その技能についての講習があった時、美乃花は脇下が人体急所の一つであることを印象深く記憶していた。
そのためであろう。美乃花の一撃は、なかなか的確に俊雄の脇下を狙っていた。しかし俊雄も自身を『闘いのプロ』と呼んだだけはあるのか、自らバランスを崩すことで、急所の一撃を単なる腕への打撃へと変質させていた。
「くっくっく……。いきなり急所を狙うとは、なかなかにえげつない小娘だ」
「えげつないおっさんは黙れ!」
美乃花に挑発のつもりは、全くない。ただ激昂すると口が悪くなるだけだ。
そんなことを、俊雄は知る由もない。もとよりあまり挑発への耐性はない上に、年齢のことは最近気になって仕方なかったタブーなのだ。俊雄の頭が瞬間、怒りで白くなる。
「ぶらああああああああっ!!」
「……っうおおおおおおお!!」
突然の俊雄の薙ぎ払う攻撃に、美乃花は乙女にあるまじき叫び声を上げつつ回避。今度は髪の毛が何本か宙を舞った。まさに『髪』一重。
無理な体制で避けたため、尻餅をつく美乃花。次の斧の振り下ろしを、転がって回避しつつ立ち上がる。途中、鉄パイプを手から落としてしまった。途端に鉄パイプは初めからそんなものは存在しなかったかのように消え去った。どうやら美乃花に触れていないと、生成した物は消えてしまうらしい。
「ちょこまかと、ネズミのようなやつめ……」
「ヤダ、ネズミ嫌い!」
もちろんながら、美乃花のネズミ嫌いは俊雄にとってどうでもいい問題だ。
「面倒だ。魔法で早くケリをつけてくれる」
斧をアスファルトに固められた地面に降ろして、俊雄はそう告げた。
「グラヴィティ・ホールド!」
「きゃああっ!」
美乃花を中心として、半径一メートル程の地面が、闇に覆われた。まるで綺麗に空いた穴のような空間が出来上がる。
足が、くじけた。まるで背中にやたらと重い荷物を乗せているかのような、重力感。地面に縫い付けられた美乃花は両手両足でなんとか立とうとするものの、耐えるだけで精一杯だった。
「三倍の体重で、もう立つことすら叶わない、か。…………脆すぎる」
俊雄はそう言いながら、一歩一歩、美乃花に近付いてくる。もはや逃げることもできない。
「くそっ……」
悪態をつきながら、美乃花は瞳を閉じた。
無情にも、俊雄は斧を振り上げる。