第六話:焔色の中で
「俺を倒すか……。面白い、やってみせろ!」
言葉と同時、美乃花の体が天井に向けて落下し始めた。
「届けえええええええっ!!」
左手の鎌を、天井目掛けて伸ばす。その先には、俊雄がいた。
「くだらんっ! 苦し紛れにしか見えんぞ!」
いともたやすく回避され、俊雄が近付いてくる。
──苦し紛れのはず、ないじゃないか。
そっと微笑む。バレてはいないようだ。
もう少しで、俊雄の間合いに入る。俊雄のタイミングの読みは、正確だ。だからこそ、打ち破るのは難しそうに見える。だが、逆だ。
タイミングさえずらせば、俊雄に攻撃を喰らわせることも、容易になるということだ。
「散れえええええええっ!!」
「……なにっ!?」
伸ばした鎌は、天井の電灯に引っ掛けておいた。そして伸ばすことができるなら、縮めることもできる。それによって天井への落下速度をわずかに上げ、俊雄の虚をついたのだ。
先ほどは掠っただけの一撃が、見事に顎を打った。俊雄の顎への衝撃は、これで二度目である。
「ま……さ、か…………」
俊雄はそのままのけ反り、倒れた。恐ろしい形相のまま気絶したようだ。同時に、重力が元通りになる。
「勝った……。やった」
小さくガッツポーズをした美乃花は、すぐに俊雄が開けた穴から焔色が溢れる隣の部屋に顔を覗かせる。勝利の喜びを噛み締めている時間など、ないのだ。
美乃花が顔を覗かせた隣の部屋では、漱輝と凜が、交戦していた。
「おう、久しぶりだな!」
凜と闘う手を止めず、漱輝は美乃花に反応を示した。目線は完全に美乃花に向いている。
「貴様、闘いの最中によそ見をするな!」
「ぐはっ」
無防備な漱輝の腹に、凜の蹴りが入った。
「てめえ……。いい度胸してんじゃねえか……」
「褒め言葉か? 貴様に言われても虫酸が走るだけだ」
「…………っ!」
瞬間、漱輝の纏炎が爆ぜた。凜は超速で距離を取り、それを回避する。
「貴様の能力は、もう見切った。こうして距離さえ取れば炎に焼かれることもない」
「まあ、確かにそうかも知れねえが……てめえはどうやって攻撃するつもりだ?」
凜の武器はサーベル。故に近接攻撃しかできない。しかし凜には自身で完全だと確信するほどの勝機が見えていた。
「身をもって体験してみろ」
「いいぜ。……来いよ」
風のような速さで、凜は漱輝に接近した。そして頬に一線、紅い傷痕が生まれる。漱輝がそれに反応した時にはすでに、凜はまた漱輝から距離を取っていた。
「ヒットアンドアウェイ、というやつだ。捕らえられるならば、捕らえてみろ」
タイミングを読まれないようにと、凜は適当な頃合いを狙って攻撃してくる。漱輝が手を出そうとしても、その時には凜には届かない。着々と漱輝の傷は増えていった。
「このままじわじわと削り取ってやる」
「……へっ、確かに厄介な作戦だ。ねちっこいてめえらしいな」
「減らず口を叩く暇があれば、対抗策でも考えてみたらどうだ?」
会話の合間にも、凜の剣は漱輝に襲いかかる。浅い傷だが、確実に体力を削られてはいた。
「対抗策か……。ねえわけじゃねえんだがな」
「なんだと?」
「つまりは、オレが遠距離攻撃さえできれば、てめえを倒せるってわけだ」
──はったり、か?
事の成り行きを見守っていた美乃花には、そうとしか思えなかった。漱輝ならそれぐらいのこと、たやすくやってのけそうだったから、という理由もある。
「美乃花、春原と一緒に外に出てろ!」
突然の命令。戸惑うのは一瞬。すぐに隣の部屋に移動し、倒れている俊雄を担いだ。大きな体は美乃花には重過ぎたが、気合いで引きずるように歩き出した。これは意外と時間がかかりそうだと、美乃花は漱輝たちのいる部屋への入り口を振り返る。
「外に出たら、オレに分かるように合図しろよ!」
「…………」
美乃花が去っていった部屋の中、凜は静かに漱輝を睨み据える。はったりだと思うには、漱輝が真剣過ぎだ。漱輝の挙動に集中しながら、タイミングを読み、魔法で踏み込んで斬り付ける。早く勝負を付けた方がいいと、凜の勘が告げていた。
「いい加減、うぜえんだよ!」
すっかり血の紅に染まってしまった漱輝が、叫ぶ。それに合わせて、漱輝を包む炎が大きく爆発した。爆炎の中、漱輝の姿が見えなくなるが、凜には届きもしない。爆ぜる炎の音が剥き出しのコンクリートに跳ね返って騒音と化す中、凜は炎が収まるのを待った。
次の瞬間、漱輝から放たれた何かが、凜を襲った。それは頭に当たり、凜の額から血が流れる。
何事かと凜が振り返ると、飛んできたその何かの正体が判別できた。
壁、床、あるいは天井のいずれかの破片だ。すなわち、コンクリート製の石。拳大のそれは、俊雄が壁を破壊した時に生まれた物だ。
「オレだって遠距離攻撃ぐらいできんだよ!」
漱輝は爆煙に姿を隠して、足元の石を投擲した、ただそれだけのことだ。
「石……か。貴様の頭脳も猿並だな」
「うっせえ!」
「それに、今回は不意打ちだからこそ食らったまでのこと。二度は効かんぞ」
「うっせえってんだよ!」
漱輝も、今の攻撃にたいした意味がないことは解っている。しかしそれでも、時間を稼がずにはいられないのだ。せっかく美乃花の合図が来たとしても、その時に既に負けていては、いくらなんでもカッコ悪すぎだろ、と漱輝は頭の中で呟く。
「このままだと勝ち目がないことは、いくら猿並頭脳とはいえ解るな?」
「まあ、このままなら……な」
「ならば、僕に一つ提案がある」
瞬間、凜は漱輝の目の前に踏み込んでいた。そのまま攻撃することもなく漱輝を睨む凜に隙ありと刀が振り下ろされるが、炎を纏ったその刀を凜は、そのまま素手で掴んだ。凜の手が焼けていくが、構うつもりはないらしい。凜は表情一つ変えずに続ける。
「この刀を抜いて戦う、というのはどうだ?」
「……なんだと?」
そこで、凜が漱輝の刀から手を離す。その手は爛れてしまっていたが、一瞥しただけでまた漱輝に向き直った。
「貴様の所属している『ユスティティア』は基本、エフ・シーを体内に埋め込む方法を取る。しかしかつて僕と同じ『テミス』に所属していた貴様は、エフ・シーを混ぜ込んだ武器も所有している。だというのに何故、貴様は刀の能力を使わない」
漱輝は自分の刀を見つめる。鞘に閉じ込められた刀は、どこか寂しそうに燃えていた。
「抜かないって、決めたんだ……」
それは、ほんの小さな呟き。炎の燃える音に遮られ、凜には聞こえなかった。幼い少年のようにか細く弱い呟きは、漱輝自身、言っている自覚もなかった。聞こえてもいなかった。だからこそ、その呟きは誰にも届くことなく、燃え尽きるほかなかったのだ。
「てめえごとき、刀を抜くまでもねえってことだ!」
言い訳のように漱輝は叫ぶ。
「このままじゃ負ける、というのを忘れたのか?」
その言葉を示すかのごとく、凜は漱輝に軽い一太刀を浴びせた。
「抜け! 僕は姉さんを殺した、あの残虐な男を倒すと自分自身に誓ったんだ!」
「奇遇だな。オレも自分自身に誓ったんだ。……てめえには絶対に負けねえってな!」
言いながら、漱輝は凜に向かって行った。攻撃を軽々と避けられる。シルフィスの能力があるので、当たり前だ。
「だから、刀を抜けと言っている!」
凜は相当頭に来たのか、漱輝を直に殴りつけた。先ほど焼けた手が漱輝の頬にめり込み、その衝撃で漱輝は床に倒れ込む。
「抜かねえよ。例え勝てなくても、抜かねえ……」
「何故だ!」
シルフィスによって攻撃力を削がれていない、通常の質量の剣が漱輝に振り下ろされた。凜の精神が怒りで乱れているせいか、当たらない。コンクリートで跳ね返るだけだ。
「答えろ!」
「…………」
「答えろ、赤山漱輝!」
「答える理由も義務もねえ」
「…………っ!」
もう一度、凜の剣が振り下ろされた。今度は漱輝の服を刻んだものの、肌にはかすってもいない。
凜はそこで、剣を漱輝の喉元に突き付けた。何をするにも、それが一番だと考えたのだ。その状態でしばらく時を過ごすと、凜は自分でも驚くほどの冷静さを取り戻すことができた。
「最後にもう一度言う。……答えろ」
「嫌だっつってんだよ」
「抜け」
「嫌だっつってんだよ」
「……死ね」
「嫌……でもねえな。そしたら、アイツと会える」
最後に、漱輝は不敵に笑った。凜には『アイツ』という言葉が誰を指すのか、すぐに判ったのだが、それを表情に出さずに問う。
「アイツ、とは?」
「分かってて訊くな。言ってほしいのか?」
「言った瞬間、殺してやる」
「……だろ?」
そこから、しばしの沈黙が続いた。漱輝に剣を突き付けたまま、凜はふと美乃花の言葉を思い出した。しかしすぐにそれを忘れる。気持ちに迷いを感じては、事をし損じる恐れがあるからだ。目の前の殺人鬼にだけ、集中していく。
「相葉司」
凜の集中は、一瞬で壊された。そしてそのまま、剣を横凪ぎに、漱輝の首を狙う。
「甘えっ!!」
その剣を、漱輝は腕を首の横に差し出すことで受け止めた。腕に傷は負うが、余程集中力を乱したのか、シルフィスがかかっていて攻撃力は低い。
すぐさま漱輝は立ち上がり、凜に向き直った。
「タイミングさえ分かりゃ、シルフィスも雑魚だな」
「貴様……っ!」
相も変わらず鞘から抜かない刀を、漱輝は構える。凜からは数メートルの距離があった。
「まだ解らないのか? 何度やっても、同じことを繰り返すだけだ! 貴様に勝機はない!」
「それはどうか、やってみなきゃ分かんねえよ」
漱輝の視線の先には、窓がある。その窓からは、やたらと長い鉄パイプが下から伸びて天井に当たっていた。
──そんな合図の方法じゃなくてもいいじゃねえか。
窓の下、無事に脱出しただろう美乃花の姿を思い浮かべながら、漱輝は刀を凜に向ける。
「大纏炎、受けてみろ」
漱輝を覆う炎が、焔色を少しだけ濃くした。その様は、何故か凜に限界まで膨らんだ風船を連想させる。警戒をより強固なものにし、漱輝との距離を取った。
「安易なネーミングだな」
「じゃあ、ゴッド・オレ的スーパーミラクル纏炎だ」
「……馬鹿か貴様は」
うっせえ、と返すこともせずに、漱輝は目を閉じて視覚を絶つ。そして、集中力を上げる為、叫んだ。
「大纏炎っ!!」
瞬間、凜の視界の全ては焔色に染まった。
☆ ☆ ☆
突然、廃アパートが炎に包まれた。一瞬だけ何事かと思ったけど、この焔色はきっと漱輝のものだ。つまりこれは漱輝のチカラ。廃アパート全体を覆うほど巨大な纏炎を前に私は、だから漱輝は私に外に出るよう言ったんだと気付いた。
これだけ大きな纏炎だ。アパートの中にいた凜がかわしているはずもない。また、膨大な魔法エネルギーを使った漱輝も、無事でいる保証はない。
二人の安否が気がかりで、私は気絶している醜いオッサンを足元に放っておいたまま、纏炎の収まった廃アパートの中に足を踏み入れた。火事にならずに済んだのは、燃える素材がなかったからだろう。
しかし熱されたコンクリートの床は靴越しでも温かく感じるほどで、辺りは早くも夏のような熱気に包まれていた。私は冬服のブレザーを脱いで、肩にかける。
初めて凜と会話して、初めて漱輝と会った部屋。そこに私が辿り着くと、二人は倒れていた。
「二人とも、大丈夫!?」
まずは入口に近い方に倒れていた凜の肩を揺らす。凜は瞳を開けてくれたけど、どうも焦点が合っていないように見える。
「……ね、姉さん」
まあ、生きてるみたいだから、次は漱輝の横に移動した。
別に『シスコンもいい加減にしろ!』とか思ってるわけではない。…………いや、ないわけでもないかも。
「漱輝、大丈夫?」
肩に触れるとなんとなく怒られそうな気がしたので、呼びかけるだけに留めておく。
「大丈夫……じゃねえな。大纏炎で魔法エネルギーを使いすぎた。エンプティーで動けねえ」
エンプティー……? なんだろう、紅茶の一種?
「とりあえず、手、貸そうか?」
倒れている漱輝に、手を差し延べてやる。しかし漱輝は首を持ち上げてその手を見るものの、手をつかもうとはしなかった。
「まだ闘いは終わってねえ……。オレと凜、先に起きた方の勝ちだ」
ふと、凜の方を見てみる。すると凜もがんばって起き上がろうとしていた。
「手、出すな。これはオレらの闘いだ」
そう言われると、手を差し延べておくわけにもいかない。渋々だけど、私は手を引っ込めた。
「僕は、負けない……」
凜が何か、つぶやいていた。
「僕は、姉さんを殺した、あの残虐な男を倒すと、自分自身に、誓ったんだ……」
残虐な男、か……。凜には、この漱輝がそう見えているのだろうか。私にはよっぽど、凜たちの方が恐く思える。
闘いは、相手を殺すことを前提にしたものかも知れない。だけど漱輝は刀に鎖をかけて、殺さない闘いをしている。
この漱輝なら、私たちの『日常』に溶け込んでもおかしくはないとすら思えるほどなのに。
何がそこまで、凜を駆り立てるのか。理由は明らかに、凜のお姉さんの死が関わってる。
私に何ができるか分からないし、何もできないのかも知れないけど……。できるのなら、凜を救ってやりたいと、思った。……なんて、おこがましいと思われそうなことを考えててもしかたない、か。
「殺す…………漱輝、貴様を……」
「ならオレが返り討ちにしても、文句は言えねえよな……。てめえは殺すつもりで来てんだから」
凜を見ていると、不意にすぐ後ろから漱輝の声が聞こえた。振り返ると刀を支えにしながら、なんとか立ち上がっている漱輝の姿が見えた。
「それだけの覚悟が、てめえにはあんのか?」
「命など……最初から、懸けていたつもりだが」
命って、そんなに簡単に懸けていいものだっけ。
「司が、そんなことを望むと思うか?」
「綺麗事など、どうでもいい……っ!」
多分、漱輝が言った司って人は凜のお姉さんの名前なんだろう。
……漱輝とは、どんな関係の人?
「まあ、てめえがそう言うなら無理にとは言わねえが……まだ闘いたいなら、また来い。いつでも勝負を受けてやる」
「余裕だな……」
「当たり前だ。何故なら、オレは負けねえからな」
ボロボロの姿で、よく言うよ。
と、そこで私も凜に言いたいことがあったので、口を開くことにした。
「私は、綺麗事が好き。……二人が仲良くできたらって、そう思う」
凜は俯いてしまったので、どんな表情をしているのかは分からない。でもきっと肯定的な感情をすぐに抱き始めたりはできないと思う。だから、少しずつでも和解できたら、と願ってやまない。やっぱり二人が仲良くできたら、それに越したことはないんだ。
「凜様、大丈夫ですかっ!?」
私が思考の世界に片足を踏み入れようとしていると、春原の声が聞こえてきた。次に凜を見た時には、もう春原が凜を背中に担いでいて、こいつもシルフィスが使えるんじゃないかと思った。
「今回は、負けを認めよう。……しかし、忘れるな。我々は必ずまた戻ってくる!」
春原がそんな三流の敵みたいな捨て台詞を吐いて場を去った後、部屋には微妙な空気が流れ始めていた。沈黙ばかりが響く。
「…………」
「…………」
正直、漱輝に訊きたいことはいくつかある。だけどそれを訊いて漱輝がどう思うだろうかと考えると、やっぱりそのまま言葉にするわけにはいかない。
「…………」
「…………」
漱輝から口を開いてくる気配はない。私から口を開くのも、ちょっと難しい。
さてどうしたもんかと悩み始めた途端、声が響いた。
「あれあれ〜? どうしたんですか、漱さん。ボロボロじゃねえですか」
さっき春原が去って行った部屋の入口に、今度は謎の人物が立っていた。……端的に言えば、かなりヒョロい男だ。
「うっせえ。勝ちゃいいんだよ」
ヒョロい男はそのまま部屋に入ってきて、漱輝の目の前に立った。恐らくは『漱さん』などと呼ぶだけの仲なのだろう。いきなり、漱輝の臑を思いきり蹴った。
「ぐっ……て、てめえ…………」
「おや、いいんですか? 反抗したら治しませんよ?」
なんか、仲良いな……。うん、いろんな意味で羨ましい。
「で、漱輝。この人は?」
「おや、失礼しました。……私は佐野鞍雪。能力は『治癒』です」
そう言って、佐野さんは丁寧にお辞儀までしてくれた。……なんか、いい人だ。
「私は吉田美乃花です。治癒ってことは、漱輝を治しに来たんですか?」
「残念なことに、そうなんです」
「てめえ、いい加減に……」
「今から急用ができますよ?」
「……ゴメンナサイ」
おお、あの漱輝が謝った! なんか感無量。
「それで、美乃花さんは漱さんの……ナニですか?」
……そのタイミングで小指を立てられても困る。
「いいから、さっさと治してくれ……」
「嫌です。遊べなくなるじゃないですか」
「てめえ……覚えてろよ…………」
と、そこで漱輝が膝から崩れ落ちた。精神的なダメージが大きかったのかも知れない。
「おやおや、しかたないですね。ちゃちゃっと治してやりますか」
そう言うと、佐野さんは漱輝の背中に手を宛てて目を閉じた。次第に佐野さんの手が淡く光り始め、漱輝の傷が少しずつではあるが塞がっていく。
なんというか、仕事もやればできる、みたいなタイプの人なんだろうな。
「美乃花さん、あなたも怪我してますね? 次はあなたの番です」
本当、なんかいい人だ。漱輝に対する態度も含めて。
「佐野さん、いい人だったな……」
「……どこがだ。呼んでおいて損した」
何故かは知らないけど、私は一日ぶりの帰り道を漱輝と過ごしている。無駄に佐野さんと話し込んでいたせいか、もう辺りはすっかり焔色の世界だ。
凜はきっと、春原の宣言通りにまた来るだろうと思う。だけど少なくとも今回は、確かに私たちが勝った。それが嬉しくて堪らない。
「美乃花、なんか嬉しそうだな……」
横を歩く漱輝が、そんなことをつぶやいてきた。そういえばいつの間にやら、漱輝は私のことを名前で呼んでくれるようになった。
やっぱりその方がいいよな、なんてことを考えていると、道の向こうに類を後ろ姿を見つけた。昨日は無断で学校を休んでしまったし、相当心配しているだろうから、迷うことなく大声でその名を呼びかける。
「るううううういっ!!」
突然の声に振り返った類は、それが私だと気づくとすぐに私たちの方に駆け寄ってきた。どうでもいいけど、金曜日の朝に凜に連れ去られたせいで私は未だ制服だ。だというのに私服の類を前にすると、やたらと違和感を意識してしまう。
「美乃花、昨日はどうし……って、あなたは!」
類はいきなり、漱輝を認識すると固まってしまった。
「オレがどうした?」
「い、いえ。ただ…………昨日、美乃花がいなかったのと関係はありますか?」
類はなんでそんなことを訊くんだろう。普段の類だったら、そんな立ち入ったことは訊いてこないのに。
どうにしろ、本当のことは言えない。
「ああ、こないだストーカーの話したろ?」
「え、ええ……」
「一日、誘拐されてた」
「え、ええっ!?」
どうしよう、本当のことにかなり近いんだけど。
「まあ、誘拐っつってもプチ誘拐みたいなもんだったけどな。……オレがやっつけてやったぜ」
「み、美乃花……」
そこで類は、私に怯えた目線を寄越してきた。何が起きたのか、想像しているのだろう。
「まあ、私は何もされてないから大丈夫だから。……寿司おごってもらって満足だから」
ちなみに、半分は本心。もう半分は、類を落ち着かせるためのウソだ。
「寿司……?」
「うん、なんかフレンドリーな変態だった」
ウソはついていない。
「そっか、何もされてないならよかった。……でもオレ、何もできなくてゴメン」
……なんで類は、こんなにも私のツボを押さえた発言ばっかするんだろう。可愛がってくれというサインかな?
「ああ、もう可愛いな、類は!」
「えっ、なんで!?」
その後も類を可愛がりながら、私たちは『非日常』からの帰り道を歩いていった。道中、さりげなく漱輝は私たちと一緒にいてくれた。もしかしたら漱輝も、私たちの『日常』に溶け込みたいのかも知れないと思えた。
そして私の家の前、先に隣の海原家に帰した類はここにはいないので、漱輝にひとつ質問することにした。
「本当に、凜のお姉さんを、殺したの?」
前も、同じ質問をした。その時と同様に答えはくれないのかも知れないけど、どうしても確かめておきたかったことなのだ。じゃないと、これから漱輝と会うことになっても、いい関係を築けそうもない。
「答える理由も義務もねえ……」
漱輝の傷に、私は自らの意志で触れようとしている。そう思うと罪悪感がないわけではない。それでも私は、漱輝の傷に触れないわけにはいかない。佐野さんみたいな能力を持っていない私が漱輝を癒すには、傷に触れないではいられないのだから。
「……でも、私は」
「だが、てめえには、訊くだけの理由がある。……だから特別に、ひとつだけ教えてやる」
思っていたより、漱輝は自分勝手でもないのかも知れない。少し悲しそうな顔をしながらも、漱輝は真面目な表情を崩さなかった。
「オレは司を、殺してなんかいない」
暖かな春の強い風が、私に吹きつけた。
「そのこと、凜には……」
「言うな」
はっきりとした拒絶が、私の言葉を遮る。言ったって信じないとは思うけど、なんでそんなに強く禁止されなきゃいけないのか、腑に落ちない。
そんな私の思考を悟ったのかは分からないけど、漱輝は言葉を続けた。
「あいつ自身が気付かなきゃ、意味ねえんだよ」
「……そっか」
そして、私たちの間にまた、沈黙が流れる。焔色の世界もいつの間にか終わり、今は夕闇が青く世界を染めている。
「じゃあ私、お母さんが心配してると思うから、もう帰るけど」
「そうか。じゃあ、また来週の木曜日、遅れるなよ」
「うん」
そのまま私は漱輝から離れて、自宅の扉を開く。
木曜日という『日常』の中に、漱輝の魔法授業という『非日常』が混じり込んだことに、私はさしたる疑問も感じなかった。
謎はまだいくつも残っている。
その中でも一番気になるのは、何故私が魔法を使えたのか、という問題。
いつの日か解消すればいい、と思っていた。
いつの日か解消するだろう、とも思っていた。
自分が魔法を持っていることに嫌悪感を抱くことになる、あの梅雨の日が訪れるまでは。
第一章・完