妻と
「さっきからニヤニヤしてどうしたの?」
スマホを片手に怪訝そうに聞いてくる妻。その左手薬指には銀色の指輪が光っていた。
「いや、君にプロポーズをした日のことを思い出してね。あの時は照れていて可愛かったなって……」
「朝から何言ってるんですか。でも、あれから二年経ったんですね。あっという間に感じます。」
「ああ、そうだね。」
あの日から二年の月日が経っていた。大学の准教授としての生活は忙しく、帰宅するのが遅くなったり、急な出張などで家をあけることも多くあった。
しかしそれでも彼女との時間は大事にしていた。仕事が終われば大急ぎで帰宅したし、結婚記念日は二人で祝った。それに今だって……
「うーん、特に問題はありませんね。」
私のスマホを見て彼女が呟く。
結婚するにあたって我が家には幾つかのルールが定められた。その中の一つに「隠し事をしない」というものがある。夫婦の間で隠し事をするから亀裂が入るんだと妻が決めたルールだ。
世間では夫の携帯を隠れて盗み見る奥様方がいるそうだが、私の家ではそれは堂々と当たり前のように行われていた。
「問題なんてないよ。私が君に対してやましいことなんて一切ないからね。」
「当然です。あったら殺しますから。」
え……可愛らしい妻の口から物騒な言葉が出てきたのは気のせいだろうか?
「あの、今、なんか……」
「なんですか?どうかしました?」
今日も穏やかな日々を過ごしている。
◇◇◇
今日は久しぶりの休日だ。
そこで妻と買い物に出掛けている。
「○○さん、次あそこに行きましょう。靴が欲しいです。」
「高い?」
「それなりです。」
「じゃあ、行こう。」
結婚して暫くは子供ができた時に必要だからとほとんどのお金を貯金していた。しかし二年たった今でも私達の間に子供はできていない。その事で妻が一時期塞ぎ込んでしまったことがある。ごめんなさい、ごめんなさいと……
妻との日々は私にとって何事にも代えられない大切なものだ。例え子供ができたとしても世界で一番大切なのは妻だと言うだろう。それほど妻の存在は私にとって大きい。だから私は伝えた。子供は授かり物だよ。例え出来なかったとしても私は今の生活が続いていくのであれば他になにもいらない、と。
あの日以来私達はたまにこうして少し豪華な買い物をしている。自分達のご褒美に、そして妻が必要以上に自分を責めないように。
「○○さん、顔怖いですよ?もしかして財布忘れたとかじゃないですよね。」
「そんなわけないよ。ほら、ここにって……あれ?」
財布が入っているはずのポケットに手をやるが無い。本当に家に忘れてきてしまったのだろうか?少し焦りながら私は妻に言う。
「すまない。△△、家に忘れてきたかもしれない。」
すると彼女は笑って
「ここにありますよ。ぼーっとしてるからこんなことになるんですよ」
「えっ嘘だ。いつの間に?」
妻の手に私の財布が握られていた。
「ふふっいつでしょう?」
最近は妻の笑顔が戻ってきた。茶目っ気のある可愛い笑顔だ。
私はその事が何より嬉しい。
「それで何買うんだっけ?」
「靴ですよ!!」
◇◇◇
太陽がちょうど真上にあり、草葉に陽を与えている。昼だ。私達は昼食を取ることにした。
「何食べようか。△△は何が良い?」
「○○さんが食べたいもので。」
「それが一番困るなあ。」
「あなたも同じことしたじゃないですか。」
妻と会話しながら、行き先について思案する。今日はいつにもまして暖かい。
「うどんとかかな?」
「○○さんってうどん好きだっけ?」
「今日は暖かいからさっぱりしたのが食べたいと思ったんだ。」
「私もそれがいいです。」
うどんはとても美味しかった。
今日のような日をこれからも彼女と積み上げていきたいとそう思った。
ひらひらと桜が舞っていた。
いつか見た薄桜だった。
◇◇◇
「おはようございます!!」
大学にはいつも8:30に到着するようにしている。今日は今まで行ってきた研究の論文発表が控えている。私はいつも以上に念入りに身嗜みを整えてきた。
「おお、○○さん、きょうはキマってますね。」
「そりゃそうだ。あいつは今日の論文で成功すれば、知名度が格段に上がる。隠れた天才からついに世界が認める研究者になるんだ。」
「え?○○さんってそんなに凄いんですか?」
「……知らなかったの?あの人が研究してる毒って本当に危険で世界的に見ても研究している人が少ないの。」
「それに加えてあいつは新種の毒をもう何個も発見してる。これで准教授ってのがおかしいくらいだ。」
「その○○さん、今スマホ見てすごいニヤついてますけど。」
「あれは奥さんからのメールだな。あいつああ見えてすげえ愛妻家だからな。」
「いつも仕事が終わったら走って帰ってますもんね。」
「優良物件だったのにな……」
私を見て同僚が三人ほどでヒソヒソ言っているが気にしない。私は妻からのメッセージで頭がいっぱいだった。
《頑張って》
《家でご馳走作って待ってるよ》
二文と共にいつか見た可愛いペンギンのスタンプが跳び跳ねている。
緊張する。プレッシャーが大きい。それでもこの二文があれば自分はどんなことでもできる気がした。
(よし!!)
私は気合いを入れて会場に向かった。
◇◇◇
「ただいま」
「おかえりなさい○○さん。」
家に帰ると妻が迎えてくれた。
「それで、今日の論文発表どうだったの?」
「ああ、まずまずだったよ。」
あのあと会場に着いた私が目にしたのは予想より遥かに多い聞き手だった。中にはライターもいたようで、ネットニュースになっていると、同僚が騒いでいた。
「疲れてる?」
「疲れてる。」
「はいっ」
妻は両手を広げて微笑んでくる。
「えっどうしたの?」
「抱き締めてあげます。頑張ったんでしょ?」
「……っ!!」
私は妻を抱き締めた。終わってもどこかまだ緊張していたのだろう。彼女の笑顔を見た瞬間、一気に感情が溢れてきた。
「○○さん、これじゃ私が抱き締められてますよ?」
「もうちょっとこのままで。」
「もうっご飯冷めますよ?」
夕飯は私の好物ばかりだった。
発表のあと何人かに会食を誘われたが、先輩がうまくいなしてくれたので帰宅できた。
「ありがとう△△」
後片付けをする妻にお礼を言う。
「ん?わたし何かしましたっけ?」
「本当に色々してくれてるよ。」
妻はキョトンとしている。
「今度、桜を見に行こう。●●公園が見頃らしいから。」
「良いですね。」
私は桜に対しては思い入れがある。たくさんの思い出のそばにはいつも桜があった。
そう思っていたときだ。
ガタンッ
妻がなにもない所でよろけてこけた。
本当に何もない床で、だ。
その光景を私は知っていた。
幼い頃の記憶と重なった。
窓の外の桜は妖しい色を放っていた。