回想:二人
私達は夕日の差し込む公園から出て、予め予約していたレストランに向かって歩を進めていた。
先ほど私の一世一代のプロポーズに彼女は頷いてくれた。今私は緊張から解放されたのと、受け入れてくれたという幸福感で私は浮き足立っていた。目に見えるものがどれも現実味を帯びていない。
「・・・・・さん、○○さん!!」
だから彼女が呼び掛けてきているのに気づかなかった。
「あ、ああどうしたんだい?」
「それはこっちが聞きたいわ、○○さん。さっきからわたしが呼び掛けても全然返事してくれないけどどうしたの?」
調子悪いの?と隣を歩く彼女が心配そうに見上げてくる。
「大丈夫だよ。ただ今の状況が信じられなくってね。私が君の夫になれるなんてね……」
「もうっ何言ってるんですか」
彼女は少し照れながら私の腕を掴んできた。
「明日、○○さんの仕事が終わったら二人で市役所に行きましょう……」
顔を隠すように下を向いたまま黙ってしまう彼女を見る。私は胸に込み上げてくる感情をどうにかやり過ごしていた。これほど強い感情は人生で初めてだ。
(これが人を愛することなのか……)
「△△、愛してるよ」
(・・・・・・っ!!)
ボソッと俯く彼女に言ってみた。すると彼女は勢いよく頭をふりあけた。
「なっなっなんですか?」
慌てる彼女に微笑み返す。
「やっぱり今日の○○さんはおかしいです。普段は好きとも言わないのに……」
「今度からは積極的に言うようにするよ。」
私がそう言うと、彼女は
「結構です。今日のわたしの態度で味を占めて貰っては困ります。」
と拒んだ。最後に小さく心臓が持ちませんからと聞こえたのは私の都合のいい空耳だろうか。
◇◇◇
二十分ほど歩いて私達は件のレストランに着いていた。
「ちょっと、○○さん、ホントにここなの?」
彼女が言うのも無理はない。私もここを予約するのは勇気が言ったものだ。ここはミシュランガイドにも載っている超一流のフランス料理店だ。
彼女は私を引っ張って店から少し離れた広場に連れて行った。
「ドレスコードとか大丈夫なの?」
彼女は不安そうにしている。
「ああ、フレンチレストランはドレスコードに厳しいけど、△△の服装なら問題ないよ。」
彼女は普段からワンピースを好んで着ているし、足元もパンプスだ。これと言った問題はないんだけど……
「でも、今から行くのはグラン・メゾンっていうクラスだからアクセサリーはきらびやかなものが良いらしいよ。」
「え?わたし何も知らなかったから、イヤリングとあと……○○さんから貰った指輪しかしてないよ?」
彼女は薬指に触れて微笑みながらも何で予め教えてくれなかったんですかと不満そうだ。
「すまない、でも、これを贈るから許してくれないか?」
そう言って私は彼女の首にネックレスを通した。
「え、これって……」
それは彼女が以前街に買い物に出掛けたとき欲しいけど高いからと諦めたものだ。彼女との思い出は私の頭の中に子細に残っている。記憶から引き出すのは簡単だった。
「気に入ってくれたかな?」
「……はいっ」
ムードが無くてごめんね。と言うが彼女は首を横に振ってくれる。
彼女は私が想像していたより遥かに喜んでくれた。値は張ったが彼女の笑顔が見られたことで私は充分すぎるほどの対価を貰ったのだと確信した。
「ほら、泣かないで、店に入ろう?」
彼女の手を取って歩く。
桜を誘いながら吹いてきた風は、私達をからかうように肌を撫でていった。
◇◇◇
ドアを開けて彼女を通す。彼女はちょっと化粧室に行ってきます。と席につく前に言ってきた。フレンチ料理ではマナーとして食事中に席を立ってはいけないというものがある。それに今日彼女は鮮やかな口紅を付けていた。グラスにそれをつけないためにティッシュオフが必要だろう。行っておいで。と彼女のバックを受け取りながら言う。
彼女を前にして歩きながら私達は席に通された。
室内は証明が優しく反響した洒落た空間だった。椅子の左に立つと、椅子が引かれる。席について暫くすると、食前酒について問われる。
「何にする?」
「わたしはミモザにします。」
「私はシャンパーニュで。」
係りの人が席を外したのを確認して彼女は話しかけてきた。
「すごい素敵なお店だね。ちょっと場違いで畏れ多い感じだけど……」
「そんなことないよ。△△は綺麗だし、淑やかだからこの店の雰囲気によくあってると思うけど。」
「もう、本当にどうしたの?○○さん、今日でもう一生ぶん誉められた気がするわ。」
「積極的になるって言ったよ?」
「やめてとも言いましたよ。」
そう言って彼女は美しく笑った。
あまりの美しさに私は暫く固まって動けなかった。私はこの人を妻に娶るのだ。何度も何度もその言葉、その事実を反芻する。
出された料理の味は覚えていない。ただ彼女のテーブルマナーがとても綺麗だったというのは覚えている。
私は今日と言う日を忘れることはないだろう。
◇◇◇
翌日、私が仕事から帰宅するとすぐに二人で婚姻届を貰いに行った。私と彼女の名前が並ぶその用紙。薄いこの紙で私は彼女との夫婦という関係は法的に認められる。
(感慨深いものだ)
届出日、氏名、住所、本籍と記入していく度に彼女と出会ってからの思い出が想起される。
そこで私の手は止まる。
父母の氏名と続き柄の欄だ。
戸籍謄本には見慣れない父の名と『病』によって亡くなった母の名前が載っていた。
隣の彼女は両親の名前を書くときに泣いていた。亡き両親に今日のこと、これからのことを報告していたんだと思う。
私は幸福感で溢れる思い出にノイズが走ったのを感じた。彼女との穏やかな思い出を汚すように……
「○○さん、わたしはあなたの妻になったんだね」
隣の彼女が見上げてくる。
私は嫌なものを振り切るように彼女に思いっきり笑みを浮かべた。
「これからもよろしくね、奥さん。」
「はい……」
夫婦としての日々が始まる。
不安もある。
しかしたくさんの幸せが待っているのだと根拠はないのに確信していた。
たくさんの思い出をつくろう。
そして不安は埋没させてしまおう。
私はそんな決意と共に窓の外を見た。
街灯に照らされた桜が夜の闇に長い影を伸ばしていた。




