紡ぎ会い、紡ぎ合う。
「別れても友達でいてくれる?」
「もちろん。いつでも連絡して」
「分かった。じゃあ、またね」
その〝また〟は、二度と訪れなかったーー。
小説家になりたい。
輝く瞳で語る彼の夢を、私は応援していた。
付き合ってた頃、何度か彼の書いた物語を読ませてもらった。ほとんどの物は面白かった。小説のことなんて分からないけど、この人は才能がある人なのかもしれないと素直に思った。彼を好きだったから、多少のひいき目があったかもしれないけれど。
私達は同じ高校で知り合った。たまたま隣同士の席という、ありがちな出会い。
国語のテストは常に満点。かと思えば数学だけ赤点ギリギリという極端な成績を担任に嘆かれていた彼に、とてつもなく興味を惹かれた。
「数学で赤点じゃない人ってすごいよね。尊敬する」
私の答案用紙をチラリと見て、彼は言った。初めてまともに話したのはその時。
「ううん、尊敬される点じゃないよ」
頬が熱くなるのを感じつつ、55点の答案用紙を隠す。
その後何度か言葉の応酬をした。緊張か戸惑いか、何を話したかよく覚えていない。楽しかったって印象だけは強く残っている。
それから私達は何気ない会話や日常の挨拶を繰り返した。音楽の趣味が合って何度かオススメの曲を教え合ううちに付き合うことになった。
彼が好き。中学の時も仲良く話せる男子はいたけど、どれだけ話しても飽きないのは彼が初めてだった。初恋だった。
私は彼と同じ大学に進んだ。彼の目指した文学部にひっついていく形の進学。親には「本当に他にやりたいことはないの?」と疑問視されたけど無視した。彼といられる時間が長く取れればそれでよかった。
しかし、二十歳になる頃、恋とか愛とか甘いことばかりは言っていられなくなった。
某大手出版社の新人賞を取ったことで、彼の生活環境がガラリと変わったからだ。その道では有名な新人賞だったことから連載小説の話を各社から持ちかけられ、彼は多忙の身となった。
彼の夢が叶うことを応援していたはずなのに、いざそうなると素直に喜べなかった。彼が遠くへいってしまう予感しかなくて。実際その通りになった。
講義の傍ら投稿作品を書いたり私と会ったりして時間を工面していた彼の暮らしは、受賞してから小説を書くこと最優先の生活に切り替わった。
芸能人と付き合っているのだと錯覚してしまうほど、彼と会えない日々が続いた。
周りの友達は彼氏と会ったり旅行したり、気分のまま恋愛を楽しんでるというのにどうして私だけ独りでいるんだろう?
一人の夜、寂しさに胸が押しつぶされそうな時、彼から電話がきた。一ヶ月ぶりの声。
『やっと今月分の原稿オッケーもらえた! 疲れたー。ごめんな、全然連絡できなくて。今から会える?』
「ごめん。今日は友達と約束があって……」
『そっか。急だもんな。また連絡ちょうだい』
「できたらね」
本当は予定なんてなかった。なのに冷たくしてしまった。彼の都合に振り回されている気がして悔しくて、だから私もやり返してやろう、そう思った。
それは間違っていた。
私の言動がそっけないことに気付いた彼は、小説を書けなくなってしまった。夢を叶えてようやく一歩踏み出したという時に、私のせいで。
彼が不調になってからしばらくして、私は学校帰りに彼の担当編集者の男性に待ち伏せされ、大学近くの高そうなカフェに連れていかれた。何を言われるかだいたい分かったので行きたくなかったけど断れない雰囲気だった。
「好きな人の夢だと思って、寛大に受け止めてあげてくれないかな? 彼には未知の才能がある。こんなところでダメになってほしくないんだ」
「彼の夢と私のことは関係ないはずです」
反発心に満ちた答え。編集者の言いなりになんてなりたくなかった。
「……どう言ったらいいんだろう」
四十代くらいの編集者は困ったように言った。
「我慢できなくなるのも分かるよ。つらいよね」
君は若い。それに魅力的だ。他にもたくさん、彼のような人が現れると思う。そうすれば今より楽になるかもしれないよ。編集者ははっきりそう告げた。
私達の恋愛に理解を示すフリをして、結局はそういうこと。私達を別れさせるためにこの場を設けたんだ。
曖昧にうなずき、私は先にカフェを出た。金欠の財布から自分の代金を出すのは色んな意味で心が痛かったけど、編集者に出されるより何倍もマシだった。
彼のことを想うだけで夜は更けていき、寂しさは募る。
編集者の言葉も嫌な頭痛を運んでくる。
何だか色々疲れてしまって、私は彼を呼び出し別れ話をした。別れても友達でいようと言って。
それなのに、私達は二度と友達になんて戻らなかった。戻れなかった。戻れるわけがなかった。
好きになり好きになられた後で友達に戻れるなんて、本当に未練がないかよほど無神経な精神構造をしている場合だけだ。私達はお互いを諦められなかったんだ。
あれからいくつもの朝と夜が流れ、私達は大学を卒業し社会人になった。
彼の方は小説家としてうまくやっているようで、年に何度か新刊を出しては雑誌やテレビで話題にされている。一方、私は派遣社員としてテレフォンアポインターの仕事をしている。今年で3年目だ。
あれから何人かの人と付き合ったけど、彼ほど胸を震わせる相手とは出会えず、そのうち恋愛なんてどうでもいいやと思うようになり、今は一人気ままに生活している。友達と海外旅行したりたまに集まって朝まで馬鹿騒ぎをするのがいい気分転換になっている。
大丈夫。こうやっていけば別に独りでも生きていけなくはない。
「恋なんて一過性の食べられないマカロンみたいなものでしょ。食べたらおいしいけど食べなくてもこれといって困ることはない」
「えー!! 先輩ガチで言ってます? それは女としてマズくないですか!? この前の合コンでも一番人気の人に連絡先訊かれてたのに適当にかわしてサッサと一人で帰っちゃうし。もったいないですよ~」
だって、おいしいもの食べたかっただけだし。と、心の中で言い返す。この子は最近派遣されたばかりの二歳下の子で、恋愛に積極的な傾向。私とは真逆だ。
「これ読んでみて下さい! 絶対ドキドキするし恋したくなるはずですからっ」
興奮気味な後輩に渡されたのはベッタベタな恋愛小説だった。冒頭の数ページで読むのが恥ずかしくなってしまった。恋愛履歴の更新が鈍っているせいで恋愛免疫力まで下がってしまったのかもしれない。
仕事帰り、久しぶりに駅前の大型書店に立ち寄った。彼のことを思い出すのが寂しくて最近はすっかり足が遠ざかっていたけど、こうして来てみたら思っていたよりワクワクした。
彼の出した本はあるだろうか?
ペンネームを探すと、書店で最も目立つレジ前の大きな棚に彼の新刊がこれでもかというほど平積みされていた。彼の書く小説はミステリーや青春群像劇ばかりだったので今回も当然そうなんだろうなと思ったら、意外にも恋愛ものだった。
作品のタイトルは『またね』。
音を立てて大げさに胸が跳ねた。ふつふつと心が熱くなってくる。かつて一方的に別れを告げた私への嫌味だろうか?
読みたくないのに読みたい。
読みたいのに読みたくない。
矛盾した心持ちでページをめくった。
《「またね」
心から再会を望む言葉。そして、このセリフには、二度と会いたくないと暗に伝えるニュアンスもある。
「またね」
なんて耳触りがいい響きなのだろう。身を裂かれるような別れの痛みをうんと和らげてくれる。相手の心が全く正反対だったとしてもその一言があるだけで再会への望みを持ってしまう。
僕は弱い人間だ。彼女を好きになり愛してからはそれを包み隠す強さを手に入れ、同時にさらなる弱さも内に生まれた。
ただ一人の人と知り合い、恋い焦がれ、互いのぬくもりを感じ、心を重ねる喜びを、今日も思い出す。たしかに僕は恋をしていた。隣の席の彼女に。
日本のどこにでもある珍しくもない平凡な出会いだった。それでも、二人の間でしか感じられなかったあの想いは宇宙でたったひとつの月が存在することと同等の奇跡だと思う。何度も何度も訪れたりはしない大切なものだ。》
彼の新刊は、私との恋愛を軸にしたフィクション恋愛小説らしかった。
立ち読みだけでは物足りない。5ページ分ほど読むと、そのまま本を手にレジに向かった。
書店を出る時、同じ本を立ち読みしている女子高生の姿が目に入った。
久しぶりに本を買った。心地いい重みがカバンの中で揺れた。
翌日も仕事なのに、シャワーや夕食も忘れ徹夜で読破してしまった。
付き合っていた頃より文章が上手になり表現の幅も広がっていた。技術的なことは漠然としか分からなかったけど、やっぱり彼の小説は面白い。
……と、批評みたいなことを心でやってしまうのは、彼のまっすぐな想いに少なからず動揺しているからだ。物語に込められた彼の本音を消化するための時間がもう少しほしい。
思うように会えなかったあの頃、彼がどれだけ私を想ってくれていたか。私と別れた後、彼がどれだけ悲しんでいたのか。
《会えなくても想いはつながっている、だなんて、僕の慢心だった。会えなくて寂しいのは彼女も同じなのだと早く気付くべきだった。
こうして夢を叶えられたのは彼女との日々が栄養になったからなのに。彼女との時間が僕を作った。どうしたらこの気持ちを再び届けられるだろう。すでにそんな資格はないと、頭では理解しているのだけれど。》
彼の想いの行く先が知りたい。ただそれだけの気持ちで彼に電話をかけた。ずっと消せずにいた連絡先。小刻みに手が震える。話す言葉も思いつかないうちに彼は電話に出た。
『……』
今さらだけど、彼は私の連絡先を残しているだろうか。削除していたら私だと分かってもらえない。どうしよう。
ためらうような沈黙の後、
『驚いた。君から電話をくれるなんて思わなかったから』
「だって、最後に会った時言ったじゃん。またねって」
(完)